小話1. 名前で呼んでよ
これは、シルクがアパートに越してきてから1週間経過した頃の出来事。
この日はミュスカとシャロンは授業が無い日であり、研究室にてグレイの整理整頓を手伝っていた。
同様にシルクも一緒になって手伝いをしており、まとめた参考書をしまう場所を確保する為に棚を整理していた。
「博士、こちらの上から二番目で良いでしょうか」
「いいよ、ありがとう〜」
「ミュスカさん、そちらに置いてある資料も一緒にしまいますね」
「ありがとうございます、お願いしますね」
何気ない会話が続く中、シルクはシャロンにも声をかける。
「フォールさん、そちらに他にも資料はありませんか?」
シャロンは片眉をぴくりと上げ、眉間に皺を寄せた。
シルクはそんなシャロンの様子に気付き、無表情のまま首を傾げる。
「なぁシルク…何で俺だけ苗字呼びで、ミュスカは名前で呼んでるんだよ!」
「え…」
見上げるように睨むシャロンに、シルクはぽかんとしたまま固まった。
これにはミュスカも動きを止め、以前クイチェで買い物をしていた時の出来事を思い出しては苦笑いを浮かべた。
シルクは基本的に、相手の事を苗字で呼ぶように心掛けている。
ティピックやウィンに対してはとある事情から名前呼びとなっているのだが、初対面は勿論の事、仕事で関わる際は誰に対しても苗字呼びである。
「すみません、つい癖で」
「シャロン、そんなに睨まないでやってくださいよ。僕だって最初は苗字呼びだったんですから」
「じゃあいつの間に名前呼びになったんだよ」
「買い物の時に許可を頂きましたので」
「許可って…」
変に真面目なところがあるな、と睨み顔から呆れ顔に変わっていく。
すると突如、作業を進めながらも話をしっかり聞いていたグレイが興味津々な様子でシャロンとミュスカの間に割り込んだ。
「何やら気になる話をしているじゃないか。名前呼びが何だって?」
二人はふとグレイに注目する。
静かに視線を向けられた事にグレイは笑顔のまま首を傾げた。
「…考えてみれば、シルクさんって先生の事は博士呼びですよね」
「はい、やたらと強調していたのが気になって…もしかして失礼でしたか?」
シルクは若干眉を下げ、反省するように顔を軽く俯いてからグレイと視線を合わせる。
「失礼だなんて!そんなの一切思った事がないよ。寧ろ嬉しいさ、誰も博士って呼んでくれないから悲しくてねぇ」
わざとらしく目元を手で隠し、泣いてるような素振りをする。
そんなグレイに対してシャロンとミュスカはジト目を向けた。
「先生を変に調子に乗らせない為ですよ」
「変に調子に乗った先生が暴走したらとんでもない事になるからな」
「え…」
シルクは二人の言葉に目を見開く。
背後に衝撃が走ったかのような光景が見えた気がして、二人はついシルクを凝視して固まった。
「…暴走させる訳にはいきませんね」
「ん?あれ、シルク?」
「すみません、博士呼びは控えさせて頂きます」
「ちょっと待ってシルク?」
「ケミスティアさん、次はどの資料を片付けましょうか」
続いてグレイの背後に強い衝撃が走ったかのような光景が浮かび上がる。
シルクからの真顔の対応に相当堪えたのもあり、身体を強ばらせた後みるみるうちに脱力しては魂が抜けたかのように床に突っ伏す。
「酷いよシルク。僕やる気失くした」
「えぇ…っと?」
シルクは訳が分からないとでも言うようにミュスカとシャロンに視線を向ける。
一連の流れに二人は笑いを堪えていた。
「せめて、せめてケミスティア博士って呼んでくれたまえよ…」
「いやどんだけ拘るんですか」
「てか先生も素直に名前で呼んでもらえよ」
その後整理整頓が再開されるも、グレイは暫く不貞腐れたままであった。
――
――
整理整頓は無事終わり、時刻は夕方頃。
ミュスカは夕食の準備に取り掛かっており、シャロンもその手伝いに向かっている。
そろそろ夕食が出来上がるという事で、シルクは研究室に籠っているグレイを呼ぶように頼まれる。
素直に了承し、階段を上がって研究室前の扉に辿り着いては扉を三回軽く叩く。
しかしグレイの返事は無い。
もしやまだ不貞腐れているのだろうか、と思いながらシルクは静かに扉を開けた。
整理整頓された研究室だが、作業台には新たに積み上げられた資料の山ができていた。
その間に埋もれるようにグレイは作業台に突っ伏している。
肩がゆっくりと上下している様子から、仮眠をとっているようだ。
「博士、そろそろ夕食ができますよ」
「んー…」
改めて博士呼びで声をかけるも、グレイは軽く頭を動かすだけで起き上がろうとしない。
以前よりは睡眠をとるようにしている身でも、集中して研究に取り組んだ分脳に疲れは溜まっていく。
それに加えて苦手な整理整頓をしたのだから、疲れが出てもおかしくはない。
しかし休むならしっかり栄養をとってから睡眠をとるべきだ、と自身にも訴えかけるべき言葉を浮かべながら改めてグレイに視線を移す。
ここでシルクはふと、ある光景を思い出す。
その時のグレイは驚きつつも嬉しさを混じらせているような表情であった為、シルクは一瞬考え込んだ。
その後、起こす事を優先しなければと判断し、そっとグレイに近付いた。
耳元に声が届くように、大き過ぎないように優しく言葉を放つ。
「起きて下さい、グレイ」
その数秒後、グレイはガバッと顔を上げて起き上がる。
その反動で近くで積み上げられていた資料が傾き、バササッと雪崩れるように床に落ちてしまう。
シルクも突然起き上がるとは思っておらず、目を見開きながら距離をとってから目をぱちくりとさせた。
「…博士、夕食の時間ですよ」
「え…あ、あぁ。直ぐ向かうよ」
シルクはそのまま研究室を後にし、グレイは閉められた扉をぽかんと見つめていた。
――
――
「呼んできました、直ぐ向かうとの事です」
「ありがとうございます」
食卓に戻ったシルクはミュスカに声をかけ、既に料理が並べられているテーブルの前に静かに座る。
シャロンは既に着席しており、お腹が空いているのか若干うずうずしている様子だ。
「なぁ、先生ってまだ不貞腐れてたか?」
「仮眠をとっていましたので、不貞腐れていたかどうかは不明です。ただ…」
シルクは無表情ながらも、視線を斜め下に向けて申し訳なさそうな雰囲気を滲み出させていた。
「もしかしたら、怒っているかもしれません」
「はぁ…?」
シャロンはぽかんとした表情でシルクを見つめる。
シルクはこの時、先程の自身の行動を反省していた。
(流石に、呼び捨ては失礼だったかもしれない)
シルクはグレイを起こす前、とある光景を思い出していた。
それは、シャロンがグレイに向かってとある言葉を放っていた。
『おいグレイ!いい加減にしろって言ってるだろうが!』
博士とは呼ばずとも、なんやかんや先生と呼んでいるのを崩して名前で呼ぶ光景。
名前で呼ばれている時のグレイは、どことなく嬉しそうな表情をしていたのをシルクは見ていた。
博士と呼ばれたい願望はあっても、やはり名前で呼ばれるのも嬉しいのだろうか。
普段から先生と呼ばれているならば、先生と名前呼びでは距離感も変わって感じるのかもしれない。
そう考えた矢先にとった行動があの呼びかけだった。
アパートに越してきてからはグレイ達には世話になり、シルクにとっても信用できて親しい関係になりつつあると思っている。
しかしそれでもさん付けは変えられず、名前呼びとなってもさん付けは徹底しているのだ。
それにも関わらず、グレイを呼ぶ際についほんの好奇心に抗えず呼び捨てをしてしまった。
起こす為とはいえ、流石に失礼が過ぎたのではないかと反省の念を渦巻かせる。
「よく分からねぇけど、先生は普段から何考えてるのかわからねぇところがあるし、気にしなくて大丈夫だろ」
「…シャロンさんがそう言うなら」
普段から親しげな中であるシャロンがそう言うのであれば、とシルクは半ば強引に納得させるように自身に言い聞かせる。
その後、グレイも食卓にやって来る。
同時にミュスカも追加の料理を運んできたことで全員揃い、各自座った状態で夕食が始まった。
そんな中、グレイはふとシルクの横顔を見つめては手の動きを止める。
視線に敏感なシルクは直ぐに気付き、グレイと目を合わせては同様に動きを止めた。
「ねぇシルク」
「…何でしょうか」
やはり怒っているだろうか、とシルクは緊張しながらグレイの問いかけを待つ。
シャロンとミュスカは何事だと思いながらも、食事を進めながら目の前の光景を見つめていた。
「一回さ、僕の事を呼び捨てで呼んでみてくれない?」
真剣な表情でそう言うグレイ。
シルクは目をぱちくりとさせて首を傾げた。
それと同時に怒ってなさそうな事に対して心の中で安堵の息を零す。
シャロンとミュスカは驚いた表情で固まる。
いつも博士と呼んでくれと煩いグレイが、と驚愕してはつい立ち上がった。
「どうしたんですか先生、何か変な魔法薬を作って飲みました!?」
「ちょっとミュスカ、僕がそんなへまをする訳がないじゃないか」
「いや、だって先生がそんな事を言い出すとは思ってなくて…」
「てかやっぱり先生も気にしてたんじゃねぇか!」
「まぁ、そりゃ苗字で呼ばれた時はね?…あ、でもやっぱり博士って呼ばれなくなるのはなぁ」
グレイは悩むように唸りながら腕を組む。
「寝ぼけてたのかなぁ」と呟いたところから、呼び捨てされた事を夢だったのかもしれないと思い込んでいるようだ。
シルクにとってはその勘違いの方がありがたく、追加で心の中で安堵した。
「じゃあ、親しみを込めて『グレイ博士』って呼んでほしいかな」
「今の言い方わざとですか?」
「気色悪ぃ言い方で呼ばせようとすんなよ」
「そんな冷たい視線を向けないでくれ」
語尾にハートが付くような言い方をしたのに対し、真顔で批判を受けたグレイは頬を膨らませて不貞腐れた表情を浮かべる。
「…そう言った喋り方には慣れていません」
「シルクさん、真に受けないで良いですからね」
無表情で答えるシルクに対してミュスカは冷や汗を流す。
普段からあまり抑揚のない淡々とした喋り方をするのだから、いきなり抑揚がついては困惑でしかない。
シルクは三人の賑やかな様子を眺めながら、半人分の食事をゆっくりと食べ進める。
その途中で動きを止め、ふと心の中で静かに考えた。
いつか、呼び捨てで呼び合える日が来るのだろうかと。
これまでの自分では考えられなかった考えがふと思い浮かんだ事に驚くと同時に、心がほんの少し温かくなったような感覚を覚える。
一瞬だけ安心したような笑みを浮かべ、食事を再開させた。




