ソラリスの塔編 第1話 路上劇とギルド
前書き
昼下がりのスタロリベリオは、熱気と香辛料と人の声でむせ返っていた。干した無花果の甘い香り、焼き串の脂の煙、革と鉄の乾いた匂い。石畳の上を風が一本走り、天幕の影がゆらぐ。
群衆が吸い寄せられるように円をつくる中心に、白いレースの裾が泥に落ちていた。金糸を織り込んだ巻き髪の少女――聖教国の枢機卿の娘、ルーレリシア。その隣に、異国風の外套を羽織った青年――勇者ヨシキ。二人は肩が触れるほど近く、言葉より先に互いの気配で呼吸を合わせている。
泥に膝をついてうずくまるのは亜人の少女ネーナ。白髪まじりの老人エンドーリオが必死に庇い、震える手で頭を下げていた。
「下賤な亜人が……この私の衣に触れたの?」
ルーレリシアは裾の泥を二指でつまみ、冷たく吐き捨てる。「死罪よ。死をもって償いなさい」
白法衣の僧侶メルローザが聖印を高く掲げ、紫の外套の魔術師アンリエッタが指先に火花を灯す。剣士エイブラムスは無言で刃を鳴らした。
勇者ヨシキが半歩前へ出て、ルーレリシアの手を包む。「君の怒りは、俺が果たす」
少女の頬がわずかに染まり、肩が寄る。二人の影が陽光の中で重なった。
「ご、ごめんなさい……」ネーナの声は震え、尾は丸まる。
「どうか、命だけは……!」エンドーリオが顔を石に擦りつける。
だが空気は誰の懇願も飲まない。剣が、詠唱が、群衆の沈黙が、ゆっくりと一点に集まっていく――
その円の外側で、僕らは足を止めた。
「……あれ、アイツ見たことあるぞ」
「ええ、“あの時”いましたねぇ」あーさんが小声で答える。
「選ばれた側ってやつやな」よっしーが眉をひそめた。召喚の間で、僕らは脇に追いやられ、彼は壇の中央で祝福を受けていた――記憶の輪郭だけが、昼の光に濃くなる。
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第一章 路上劇
もう一つの足音が、石畳にやわらかく落ちた。
「おい坊や。弱い者いじめは終わりにしようか」
人垣が割れ、黒外套のジョージア・フォン・ギルバート子爵――皆が「ジギー」と呼ぶ彼女が現れた。指には屋台の空カップ、笑みは穏やかで、目の奥は静かだ。
「誰だ貴様!」ヨシキが剣の柄を握りしめる。
「通りすがりの観客さ。芝居の筋が悪いから、台本を直しに来た」ジギーは空カップをヨシキの胸に軽く放った。ぱすん、と拍子抜けする音。
「メルローザ、アンリエッタ」ルーレリシアが顎をしゃくる。
「承知」アンリエッタの指先に火が集まり、**火炎弾**が生まれる。
「聖なる怒りを」メルローザが祈詞で熱を増幅した。火球が唸り、ジギーへ――
「返すぜ!!」
ジギーの掌がふっと空を撫でた。火の球は軌道ごと掬い返され、ゆるやかな弧を描いてアンリエッタ自身の裾へ飛ぶ。
「きゃっ――!」紫の外套の裾が焦げ、火が薄く走る。メルローザの祈りが慌てて水の膜に変わり、じゅっ、と煙が立った。
「調子に乗るな!」エイブラムスが吠え、横合いから斬り込む。同時にヨシキが正面から踏み込む。
ジギーは半歩だけ引く。吸うように相手の重心を取り、蝶番のように肩を回す。
「回すのは“鍵穴”じゃない、“蝶番”のほうだよ」
手首が、肘が、腰がひとつの線でつながった。
ドシャァン!――エイブラムスが地面に転がり、すかさずヨシキの剣腕も極まる。
ドン!――勇者は半回転して土の上へ。刃は抜けず、息だけが抜けた。
群衆が一拍遅れてざわめく。ルーレリシアの目が怒りで潤み、「ヨシキ様!」と叫ぶ。
ヨシキは歯を食いしばり、立ち上がろうとして立てない。腰が、土に吸い込まれたみたいに重い。
「バーゲン勇者は腰が軽いなぁ」ジギーは肩をすくめた。「はい、起き上がったら帰りな。それから――」
彼女は振り向き、ネーナとエンドーリオに片膝をつく。「怖かったね。もういい。君らは私が保護する」
ルーレリシアが舌打ちをひそめ、「覚えてらっしゃい!」とドレスの裾を掴んだ。
「どうぞ、パパにも合気で丁重にご挨拶してやるから」ジギーの笑みは崩れない。
メルローザがルーレリシアを支え、アンリエッタは焦げた裾を噛み殺すように握りしめ、エイブラムスは歯を軋ませる。勇者パーティは悔しさを引きずって退いた。
熱が少し引く。市場のざわめきが、戻ってくる。
「……やっぱジギーさんだ」よっしーが息を漏らす。
「非致死・ほどほど。けれど確実」あーさんが二鈴を半拍だけ転がした。
ジギーはゆるく手を振る。「見物はここまで。続きはギルドでね」
そしてネーナとエンドーリオに、里の診療所と宿舎への紹介札を渡した。「まずは温かいスープと寝床。それから話そう。鐘は鳴らさない、静かにね」
第二章 ギルドの午後
厚い扉の向こう、樽の木と羊皮紙の匂いが心を落ち着かせる。カウンターの向こうから、尖った耳のエルフ受付嬢リリアリーナが手を振った。
「また路上劇? ……はいはい、書類。今日は“ほどほど”だったから助かるわ」
カウンター端では、黒髪の少年ラキが椅子に片脚を引っかけ、デーツパイを頬張っている。
「おー、お客さん、さっきの合気投げ、エグかったで」
「ラキ、一日一つだって言ってるでしょ」リリアリーナが素早くパイを取り上げる。
「これは見本や! 購買意欲を――」「没収」
僕らは各自、新人登録の紙に名前と得意分野を書き込む。
ユウキ、よっしー、クリフ、ニーヤ、そしてリナ。欄外に小さく、僕は**「対人時:非致死」の文字を添えた。
「モンスターは討伐、対人は非致死・ほどほど**。線引きを間違えないことですわ」あーさんの声は静かだ。
木札のギルドカードが配られる。焼き印のG。
リリアリーナが依頼帳を開き、指で一枚を弾いた。「サンロード――今はソラリス・スパイアと呼ばれてる塔。入口〜第二階層の調査依頼が来てる。帰投報告で段階報酬。道中での記録と簡易清掃も込みね」
「管理者は?」クリフが問う。
「不在。けれど、“誰かが暮らした痕”が時々見つかるって噂。だから“調査と清掃”。危険度はE〜D帯。あなた達なら行ける」
よっしーが盾の革を締め直し、「今日は徒歩で行こか。クルマもバイクも目立つさかい」
「必要ならすぐ出せるよう準備はしておく」僕は頷く。
ラキが身を乗り出す。「先触れは任せろ。塔前の道、蝶番(支点)になりそうな場所を見て回って、チョークで◯だけ付けてくる」
「助かる。けど――ラキは塔には来ない」ジギーが先に言った。「今日は里の護衛と記録。ネーナとエンドーリオの保護が最優先」
「了解! ワイは里の影番や」ラキが胸を叩く。リリアリーナが小さくため息をつきつつ、笑った。
手続きが済むと、食堂からハッサンが顔を出す。「おーい、休め休め。レンズ豆の煮込みとハーブチキン、黒パンだ」
湯気と香りに、固かった肩が自然に下がる。席につくと、隣でリナが小さなノートをそっと開いた。
第三章 里の学び帳
表紙は粗末な革装で角がすり減り、紐は何度も結び直された跡がある。
それは、ジギーの里で最初にもらった〈学び帳〉――任務や稽古ごとに自分の言葉で記す習慣を教わった、小さな帳面だ。地図を書き写し、合図語を覚え、戦闘を振り返り、次に直す点を自分で書く。書けない言葉は絵でいい。間違いは斜線で消して上から重ねる。先生は、未来の自分。
そのページには、拙い字で列が並ぶ。
「地図/合図語/戦闘の記録/対人時・非致死」「鳴らさぬ鐘(警戒音OFF)」
欄外に小さく、「次に確認:連携→盾前→後衛詠唱」。
「あら、復習も兼ねておいでですのね」あーさんが覗き込み、目尻で微笑む。
リナは照れくさそうに頷いた。「……書くと、忘れない。こわい時でも、手を見たら思い出せるから」
「いい帳だ」クリフが短く言い、僕の襟をさりげなく直す。「汗が引く前に喉当て。外すのは朝だ」
「……ありがとう、兄貴」
ハッサンの皿が空になるころ、ジギーが卓へ戻ってきた。「診療所に話は通した。ネーナたちは今夜は里の宿舎。明日以降の仕事は市場の軽作業から。収入が要るからね」
「助かります」僕は深く頭を下げた。
「助け合いは里の規約。見返りは無事に生き延びること――それで充分」
リリアリーナが机上の鐘に指を置く。「鳴らさぬ鐘が合言葉でも、帰還の鐘は鳴らしていいの。皆が待ってるから」
僕らは笑って頷いた。鳴らすべき音と、鳴らさない音。選ぶのは、いつだって自分の呼吸だ。
終章 出立前夜
夕刻。ギルドロッジで最終確認。ロープ、クサビ、チョーク、油、保存食、薬。よっしーは**’89箱から可逆クランプとタイラップ**、ラミネを数枚出し、僕は地図の上に“◯”と矢印を追加する。
リンクは膝で丸くなり、ブラックは梁で片目を閉じ、ニーヤはフリーズ・ブリッドの詠唱を小声で反復する。
「明日は徒歩で。斥候が出ても非致死は対人だけ。モンスターは適切に討伐」
「了解」「了解」「承知でございますわ」
窓の外、石畳の尽きる角で、夕陽が斜めに落ちていく。
ジギーが扉口で振り返った。「じゃ、明朝。鍵穴じゃなく蝶番へ――鐘は鳴らさない」
「了解。……行こう。ソラリスへ」僕は木札を握り直す。掌に“はじまり”という字が刻まれたみたいに、じんと熱い。
後書き
路上劇は終わり、保護された二人には温かいスープと寝床がある。勇者と聖女は去ったが、塔は待ってくれる。
人には非致死・ほどほど、モンスターには適切な討伐。鳴らさぬ鐘と帰還の鐘。鍵穴ではなく蝶番。
次話――出立、野道、そして太陽の塔・ソラリスの入口へ。火は返し、刃は抜かず、座は崩さず。僕らのやり方で。




