第41話 黒曜の道 ―― 数の狭間を低く抜ける
(主人公・相良ユウキ=“綴”の視点)
黒曜の窓辺を背に、俺たちは“黒曜の道”へ入った。もとは溶けた石が冷えて伸びた一本の舌。両壁が黒曜石、空は細い切れ目で、風は数字の角に当たってはね返る。枠師たちが仕掛けた“数の枠”はもうない――けれど、石そのものが持つ“枠の性分”は残っている。歩幅が勝手に揃いそうになる。呼吸の回数まで、黒い壁に数えられているみたいだ。
「ここは“低い拍”を絶やさんことや」
よっしーがFZRで先を滑り、鈴皮を指で弾いた。短一回。「ピッ」。エレオノーラが相棒の速度を落とし、エンジンを低く一定に保つ。ミラは袖の中で針を軽く叩いて“間”を刻み、ラヤは地図歌を囁きにして“拍の目盛り”だけ残す。キリアが熱瓶の蓋に指先で触れて温度の鼓動を読み、ニーヤは舳鈴を布越しに擦って黒い壁に“戻る拍”を映す。あーさんが掌の水を薄く広げ、俺は旗の〈囁き手〉で足元に暗い拍を置いた。
壁は、聞いている。数の耳ではなく、石の耳で。俺たちが“揃えない”まま進むと、壁の節くれが少しずつ緩んでいく。均質を好むものほど、わざと揃えない拍に弱い。
三つ目の屈曲点を曲がると、黒曜の床に“白い線”が現れた。貝殻の粉が帯のように伸びている。海がまだ生きていたころ、波がここまで舐めた名残だろう。
「これが“潮の目盛り”。ここから先、空気が塩っぽくなる」
ラヤが歌を一音だけ上げる。実際、鼻の奥が僅かに甘くしょっぱい。あーさんが掌の水を微笑んで見つめた。「……懐かしい匂いです」
海を知らないはずなのに。俺は頷き、旗を肩にかけ直す。黒曜の道はさらに狭まり、上空の隙間が糸の幅になった。風は糸のように真っ直ぐ通り抜け、“拍の糸”になって俺たちの胸を縫う。ミラが先に一針、布の上へ“嘘の縫い目”を置いた。俺たちの拍は、その縫い目に沿って斜めに流れ、石の耳を“外す”。
影算の罠 ―― 数を数えさせない
道の底で、黒曜が急に“鏡”になった。空の細い線が床に映り、俺たちの影が二重になって左右に揺れる。枠師の置き土産――影を自動的に“数”に変える鏡面だ。二歩歩くごとに影が三つ、四つと増え、増えた影の数だけ足が絡む。正面から突破すれば、列が乱れ、壁に“均しの返し”を食らうだろう。
「影は“数”、拍は“間”。間で影を“割る”」
エレオノーラが短く言い、よっしーが「了解」とFZRを立ち上がり姿勢で操る。ニーヤが舳鈴を三拍に変え、俺は旗で“間の帯”を足元に置いた。あーさんは掌の水で鏡面に薄い霧を作り、ミラは針先で“点”を三つ、鏡に落とす。ラヤは地図歌から“母音”だけ抜き出し、キリアは熱瓶で鏡面の温度差を作る。クリフさんは弦を軽く鳴らして“異音”を混ぜた。
影は“数えられるもの”から“割り切れないもの”に変わった。三拍の鈴、奇数の点、母音だけの歌、温度の斑、弦の震え――鏡は影を数え損ね、壁の耳は苛立つ。苛立つ壁は、返しを取り落とす。俺たちは鏡の帯を横切るように通過した。
黒曜の裂け目 ―― クルマと舟の交代
やがて道が“口”を開け、谷が少し広がった。右へは“黒曜の棚”、左へは“塩の凹み”。ここで列の役割を入れ替える。
「ここからは相棒メイン。舟は“手押し橋”」
よっしーがFZRを降り、エレオノーラと運転を交替した。ハチロクの鼻先は黒曜の棚の影に潜り、腹を擦らずに通れる傾きへ“身を作る”。FZRは左の塩の凹みに沿って斜めに走り、斜度の“嘘”を先に踏む。舟“いえ”は帆を半巻にし、舳鈴は布越しに二拍を刻む。ミラは荷の紐を増し締めし、キリアは熱瓶を砂に半埋め、温度の足を作る。ラヤが歌で“棚の番号”を砂に描き、クリフさんが踵で“返しの向き”を確認。あーさんは掌の水を“滑り水”に変え、俺は旗で暗い拍の“手すり”を段の際に置く。
黒曜の裂け目は狭い。けれど、低い。低いところは、家の通り道だ。相棒が息を吐くみたいに身を沈め、段間を二つ越える。鈴皮が軽く鳴り、舳鈴の擦れが返る。黒曜の耳が“家の拍”を覚えたらしい。道は少しだけ柔らかくなった。
“塩の譜” ―― 海の底の平原
黒曜の道を抜けると、視界が開けた。やわらかい白がどこまでも続く。砂ではない。塩。けれど、ただの塩の平原でもない。高低差のない一面の上に、薄い波形の線が幾重にも走っている。遠目には五線譜。近づけば、塩の粒が音符のように並んでいる。
「ここが“塩の譜”」
ラヤが静かに告げた。「海の底だった時代の“波の譜面”。風が吹けば、譜は歌い出す。けれど――歌は封じられている」
「誰に?」
「“鈍い塔”――古灯台の沈黙」
視線の先、塩の譜の真ん中に、鈍色の塔が立っていた。鉄でも石でもない、海と風で擦れて鈍い光を持つ材料。塔の上部は失われ、胴には穴が空き、基礎には“円い枠”。枠の内側は、塩が奇妙に“剥けて”いる。
「……機械の匂いや」
よっしーが鼻を鳴らす。相棒のボンネットを撫で、FZRのミラーを直してから、塔へ視線を戻した。「ここは“クルマよりも手”。けど最後に“クルマの拍”が要る気がする」
接近 ―― 封じ歌の境界
塔へ近づくほど、塩の譜は“無音”になった。風は吹いている。なのに、譜が揺れない。音符の並びは完璧すぎて、かえって音にならない。譜は“数”になってしまっていた。
「封じ歌が塔から出て、譜を“数”に変えてる」
ミラが足元の塩をひとつまみ取って、指先で潰す。粒に微かな“角度”が刻まれている。歌の角度ではなく、数字の角度。枠師の仕事に似ているが、もっと古い。
「塔そのものが“枠”。でも、枠は悪ではない。元は海のための“枠”。――灯りと拍を合わせて、船を家に帰すための」
ラヤの声に、あーさんが掌の水を盃で受け直した。「だったら、拍を戻しましょう」
俺は旗の〈囁き手〉を低くして譜に触れた。暗い拍は塩に吸われるが、少しだけ弾かれて戻ってくる。塔の基礎の円枠が、それを“測っている”。測る――数えるではなく、“確かめる”。この枠は敵ではない。眠っている。
鈍い塔の機構 ―― 灯りのためらい
塔の根元に、手押しの“ハンドル”があった。錆びているが、まだ動く。側には刻印。言葉ではない。波線と円、点と短い縫い目。ミラが針でなぞり、ラヤが歌で読み替える。
「“三拍 ためらい 一拍返し 波に渡す”」
「ためらいは――帆の『へ』」
俺は思わず笑ってしまった。こんなところでも“ためらい”が鍵だなんて。よっしーが肩をすくめる。
「世界の上手いこと行く法則は、だいたい“ためらい”。踏みとどまるんが、次の一歩の滑りをよくするんや」
「では、やってみましょう」
エレオノーラがハンドルに手を置き、俺は旗を塔の刻印に沿わせた。ニーヤが舳鈴を二拍、三拍、と撫で、あーさんが掌の水をハンドルの軸にそっと落とす。キリアは熱瓶を根元に置き、金属の温度を均す。ミラは針で“返し縫い”を刻印の線に沿って風へ向け、ラヤは歌を“ためらい節”に変えた。クリフさんは弦を緩く張り、よっしーはFZRのエンジンを点火して低い回転を保つ。相棒はアイドリングで“心拍”を合わせる。
「三拍」
舳鈴――しゅ、と擦れる。
「ためらい」
帆の『へ』――俺は旗を半拍止めて、塔の刻印の“間”へ空白を置く。
「一拍返し」
エレオノーラがハンドルを一度だけ、確実に回す。
「波に渡す」
ラヤの歌が風の高さに乗る。あーさんの水が軸で光る。
鈍い塔の内部で、逡巡していた何かが“解けた”。金属音ではない。波が一度だけ、見えない舌で塩を撫でた音。塔の口から、目に見えない“光の拍”がふっと漏れる。塩の譜が――息を吸った。
塩の譜、動く ―― 封じ歌のほつれ
一筋の風が、譜の一行を撫で、音符が片端から“拍”に変わっていく。塩の粒が小さく跳ね、五線の間に微かな空白ができる。空白が“ためらい”だ。ためらいができると、譜は音になる。音は歌になる。
「でも、まだ足りない」
ミラが汗を拭いながら言う。「封じ歌が塔の上でまだ絡んでいる。上部に“枠”が残ってる」
塔の中腹、ちぎれた踊り場に黒い“数の輪”が二つ、三つ。枠師の手ではない。古い。けれど、数の考えは同じ。灯りの“帰る拍”を測る枠が、そのまま封じに転じている。
「上、行けるか?」
クリフさんが塔を見上げる。階段は崩れ、踊り場は穴だらけ。FZRでは無理。相棒はもっと無理。舟は――舳鈴で“拍の梯子”を作れるが、体を預けるには心許ない。
「ここは“クルマの拍”を塔に渡す」
よっしーが相棒の助手席から“牽引ロープ”を取り出した。昭和の車載品。先端はフック。塔の根元の“楕円の耳”に引っかけ、反対端を崩れた踊り場の“枠鉄”に掛ける。
「相棒に“心拍”を上げてもろて、ロープに拍を渡す。塔の中で“淫れ拍”にならんよう、FZRの“呼吸”で制御する。ニーヤ、舳鈴は二拍・三拍・二拍。ユウキは旗で“空白”。あーさんは水で“滑り”。ミラは“返し縫い”で枠をずらす。エレちゃんはスロットル。クリフは矢じゃなくて弦で“戻る拍”」
全員、頷いた。ラヤが“拍名”を唱えて配置を確認。キリアが熱瓶の位置を調整。ブラックが俺の肩に乗る。
「いくで」
相棒のエンジンが低く唸る。FZRが横で同じ回転数を拾って“呼吸”を合わせる。舳鈴――二拍、三拍、二拍。旗――空白。掌の水――滑り。針――返し。弦――戻る。
ロープが“震え”になり、塔の中腹の枠鉄が微かに動く。動きが“揺れ”になり、揺れが“拍”に変わる。古い数の輪が、その拍に“合わされる”。数は拍に弱い。数は、拍がないと立っていられないのに、しばしば拍を壊す。拍を返してやれば、数は自分で自分をほどく。
一つ目の輪が解け、二つ目がほどけ、三つ目が――固い。ミラの針先が止まり、汗が光る。あーさんの水が乾き、キリアの熱瓶が冷え、エレオノーラがスロットルを微調整する。よっしーが歯を食いしばる。FZRの息が浅くなる。
「……空白、もう一枚」
俺は旗を大きく開き、塔と空の間に“影の空白”を置いた。舳鈴がその空白を擦り、弦が空白の輪郭を撫でる。あーさんの水が空白の縁を冷やし、ミラの針が空白の内側に“返し”を刺す。ラヤが空白の名を歌い、キリアが熱瓶を空白の下に置く。エレオノーラの手が空白の上でスロットルを止め、よっしーが空白に短一回。「ピッ」。
三つ目の輪が“ほどけた”。
海の拍、目覚める ―― 鈍い塔の灯
塔は鳴らない。鳴らないのに、海が鳴った。塩の譜の一行一行がためらいを得て、風がそれを拾い、音になり、歌になり、遠くの塩の地平へ流れて行く。鈍い塔の上に、灯りはない――けれど、“灯の拍”が立ち上がった。目に見えない灯。帰る拍だけが確かに空に昇り、地に降り、塩の譜にしみ込む。
「……戻る拍が、海を懐かしがってる」
あーさんが掌の水を胸に当てた。彼女の目に、涙の粒が一瞬だけ光った。名は呼ばない。呼んだら、涙が数になる。呼ばないまま、涙は拍に混ざる。
よっしーが相棒の屋根をぽん、と叩いた。「お前も、灯台や。道を照らす鉄の箱」
相棒が低く鳴り、FZRが短く応えた。舳鈴は布越しに擦れ、弦は“弓なり”に戻る。ミラは針を収め、ラヤは歌を畳む。キリアは熱瓶を砂に半埋め、冷却の拍を保つ。ニーヤは尻尾をゆっくり振り、ブラックは帽子の影で目を細めた。
塩の譜の市 ―― 歌の取引
夕方、塩の譜の端に小さな市が立った。サフラの人々とは違う、白い布をゆるくまとった民――“サリーフ”。彼らは歌を“束”で持ち運び、塩の譜に“縫いつけ”て保存する技を持つという。商品は食べ物と道具のほか、“歌の束”。束は名のない布で包まれ、銀や塩や礼で取引された。
「歌を買うのではない。“借りて、返す”。返すときは、ためらいを添えて」
サリーフの老人がそう言い、束を一つ差し出した。包みを開くと、乾いた風の匂い、深い水の匂い、遠雷の匂い――混ざり合って一本の帯になっている。
「これを塔に渡すのが礼や」
よっしーが頷き、俺は束を抱えて塔の基礎へ向かった。ミラが針で“仮留め”をし、あーさんが掌の水を一滴だけ帯に落とす。舳鈴が短く擦れ、弦が一音だけ鳴る。束は音もなく“拍”に変わって塔に吸われ、塔は無言で“返礼”の拍を塩の譜へ返した。譜は喜んで、遠くで微かに笑った。
砂上に灯る名 ―― 呼ぶことと呼ばないこと
夜、塩の譜の上で、俺たちは低い祝いをした。薄いパン、塩漬けの魚、ナツメヤシ、ミントの湯。星は低く、塔は鈍く、風は歌を運ぶ。サリーフの子がハカワティの真似をして棒を叩き、笑いが走る。
「綴」
不意に、背で名を呼ばれた。振り返ると、砂羅針盤の男――バシールが立っていた。砂に足を取られない歩き方で、インクのような夜を背負っている。
「黒曜を越えたと聞いて、来た。塔は動いたな」
「拍が返り始めた」
俺が答えると、バシールは短く頷いた。名を呼ばれたことの重さが胸に残る。名は、門と同じだ。開けられたら、次の門を開け返す番だ。
「バシール」
呼ぶ。彼は笑った。名の交換は、道を織る。
枠師の“枠舟” ―― 数で浮く舟
翌朝、塩の譜の北の端に“浮かぶ影”が見えた。舟――だが、帆も櫂もなく、四角い縁だけが塩の上に浮いている。中に人影、灰縁の長衣。枠師の“枠舟”。数の枠で浮力を作り、塩の譜の“数”の上をすべる。
「封じ歌が解けつつあるのを止めに来た」
エレオノーラが矢を取らず、視線だけで射た。枠舟は近づき、縁から数字の板が差し出された。塩の譜に“枠の座標”を打ち込む板だ。座標は拍を“固定”し、譜のためらいを奪う。
「枠を先に置けるか?」
ミラが針を握り、ラヤが歌を“縁取り節”に変えた。あーさんは掌の水で塩の譜に円を描き、俺は旗で暗い拍の帯をその円の外に置く。ニーヤは舳鈴を三拍に刻み、よっしーはFZRで枠舟の周りを“呼吸”でぐるりと走る。相棒は遠巻きに低いアイドリングで拍を供給し、キリアは熱瓶で塩の表面に“温度の縁”を作る。クリフさんは弦を“縁の内側”で鳴らし、バシールは砂を一匙、枠舟の縁に投げた。砂の粒は数字の線を嫌い、縁で“ためらい”になって止まった。
「今!」
ミラの針が塩の譜に“縁”を縫い付け、ラヤの歌が縁を“名のない名”で呼ぶ。あーさんの水が縁を潤し、俺の旗が縁に空白を重ね、ニーヤの鈴が縁を擦り、よっしーの呼吸が縁を廻らせる。相棒の拍が縁の下で響き、キリアの温度が縁を固め、クリフさんの弦が縁を弾く。バシールの砂が縁に耳を与える。
枠舟の“枠”が、塩の譜の“縁”に絡まれた。枠は“数”として振る舞えず、ただの“縁”になった。縁は悪くない。縁は、拍を落とさないためにある。
枠師は舌打ちし、灰縁の長衣の影を塩に落とした。「歌を数に戻すのは、数の仕事だ」
「歌は帰る。数も帰れ」
バシールが静かに言い、枠舟は遠ざかった。塩の譜はしばらくざわめき、やがて穏やかなためらいを取り戻した。
“灯下”の蔵 ―― 古い記憶の箱
鈍い塔の基礎の円枠の内側、塩に埋もれていた“蓋”をサリーフの若者が見つけた。円い金属、中心に小さな鍵穴。鍵はない。けれど、刻印がある。波線、点、短い縫い目――塔の側面と似た記号。
「開ける鍵は“ためらい”」
ミラが言い、針で刻印の“返し”を軽く撫でる。俺は旗で“空白”を置き、あーさんが掌の水を鍵穴に一滴。ニーヤが鈴を一拍、よっしーが短一回。「ピッ」。エレオノーラは息を止め、クリフさんは弦を抑え、ラヤは歌を“無音”に畳む。キリアは熱瓶を外へ置き、バシールは砂を掌で温めた。
蓋は“ためらい”の拍で、静かに回った。中から出てきたのは、薄い板の束。青緑の金属、縁に孔、面には“点字のような突出”と“細い溝”。音を刻む板――けれど、奏機はない。
「機構を探さな」
よっしーが塔の根元を撫で、エレオノーラが基礎の影を探る。ミラは板の孔に糸を通して“順序”を確かめ、ラヤは板の溝を歌に読み替える。あーさんは掌の水で溝の塩を流し、俺は旗で“拍の順序”を塔の刻印に照らす。ニーヤが舳鈴を、キリアが熱瓶を、クリフさんが弦を――みな、静かに。
塔の内側、崩れた踊り場の下に“回転の心臓”が残っていた。軸、歯車、薄い膜。奏機の“死体”。けれど、完全には死んでいない。膜はまだ風を覚えている。軸は錆びているが、回る意志を捨てていない。
「相棒、最後の出番や」
よっしーが微笑む。牽引ロープをもう一度、軸へ。相棒は低く唸り、FZRは横で呼吸を合わせる。ミラが板を順に差し込み、ラヤが溝を歌い、あーさんの水が軸を潤し、俺の旗が空白を置き、ニーヤが鈴を擦り、キリアが温度を整え、エレオノーラはスロットルで微調整。クリフさんは弦で余計な振動を“食べ”、バシールは砂で風の筋を示す。
回った。心臓は、回った。鈍い塔の上に、灯りは生まれない――けれど、灯の“拍”は濃くなり、塩の譜の線が一斉に“ためらい”を深くした。封じ歌は、もう封じではない。歌は、ただの歌。海は、もうここにはない。けれど、帰る拍はここにある。
家印 ―― 海の底の“へ”
夜。塩の譜の上で、俺たちは“家印”を置いた。帆の『へ』の裏に、鈍い塔の金属片を一筋、名のない布で縫いつけ、青磁の糸で返し縫い。刻印はしない。名は呼ばない。ただ、ためらいの糸だけを見えるように。
「綴さん」
あーさんが小さく呼ぶ。いや、名を呼んではいけない――そう思った瞬間、彼女は続けた。「……戻る拍、置きますね」
掌の水が胸に冷たく触れた。俺は旗の『E』を撫で、短く目を閉じた。
「ありがとう、あーさん」
名ではなく、約束の呼び名で。彼女は微笑み、小さく頷いた。
次の地図歌 ―― 紅玉の峡と青銅の都
ラヤが地図歌をひらく。塩の譜の端から、道は二つ。ひとつは“紅玉の峡”――紅い石が折り重なった狭間。もうひとつは“青銅の都”――古い機械の街。第三の糸は、どちらにも影を伸ばしている。けれど、拍の道は“紅玉”へ曲がっている。青銅は、拍を食う。紅玉は、拍を透かす。
「紅玉へ。――ただし、青銅の都でしか手に入らん部品もある。相棒の“心拍計”、FZRの“息の管”、舟の“舳鈴の心”。いつか行く。今は行かない」
よっしーが地図の端に指で小さく“へ”を描いた。帆の『へ』みたいな小さなためらい。ミラが針で袖に“紅印”を縫い、エレオノーラは矢に赤い糸を巻き、クリフさんは弦を一つ緩め直す。キリアは熱瓶の配分を変え、ニーヤは鈴の布を点検し、ブラックはあくびをした。バシールは砂羅針盤を一度だけ振って、「東南」と呟いた。
「綴、また会う」
「バシール、また」
名の交換。灯の下では、名が濡れて重くなる。塩の譜はそれを笑って見ている。
出立 ―― 塩の譜を背に
朝。鈍い塔は黙って立ち、塩の譜は低く歌い、風はやさしい。俺たちは荷を積み直し、列を組む。先行偵察はFZRとニーヤ、主軸は相棒とエレオノーラ+クリフさん、舟は“座り橋”として帆半巻。ミラとラヤは中央、キリアは熱瓶の影、あーさんは掌の水と救いの布、ブラックは帽子の端。
「短一回」
よっしーが鳴らす。「ピッ」。舳鈴が擦れ、旗が風を抱き、帆の『へ』がためらう。塩の譜は道を開き、鈍い塔は“見えない灯”で背を押す。
低く、遠くへ。
紅玉の峡へ――。
――
(つづく/次話:「紅玉の峡」――紅い石の狭間で反響する“二重の拍”、峡を“声の足場”で渡る術、青銅の都から伸びる第三の糸の“運搬枠”との駆け引き。そして、相棒の“心拍”に宿る小さな癖が、隊の命綱になる。)




