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黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


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鈴の木亭の夜 ― 働くということ ―


 山を越え、谷を越え、同じ景色を何度も見た気がする頃――ようやく、町が見えた。街道沿いに張り付くように伸びる家並みと、低い石壁。門というほど立派じゃないが、柵と詰所があって、人の出入りを見張る連中がいる。


 ……こういう町は、たぶん好きだ。


 学園都市みたいに何もかも整ってると、逆に“誰かの計算”が透けて見える。ここは違う。土と汗と、あと――小さな帳尻合わせで回ってる匂いがする。


 ただ、そういう匂いを嗅ぐと、俺の胸の奥に変なものがひっかかる。


 仕事とか、生活とか、働くってやつ。


 この世界に来てから、ずっとそれに追いかけられてる気がする。


 ……まあいい。今日は寝床と飯を確保して、酒でも飲んで、忘れられるなら忘れたい。


 町の名は、ユーゲルンブルク。


 入口の詰所の前で、クリフが一歩前に出た。背が高い白人の男が、無駄のない動きで外套の胸元を探る。俺は後ろからそれを見て、いつも思う。こいつ、見た目だけなら絶対「頼れる大人」枠なんだよな。実年齢は俺より下でも、立ち姿だけでそう見せちまう。


「お前ら、…入町の手続きか!?」


 詰所の男が、槍の柄を軽く地面に当てて言った。目は、俺たちの背後――ニーヤ、リンク、ブラックの方へ一瞬だけ泳ぎ、すぐに戻る。怖がっているというより、驚いている。ここじゃ猫耳の女とか、小さな鳥みたいなのとか、無表情で黒いのとかは、まだ珍しいんだろう。


 クリフは穏やかに頷き、身分証を差し出した。


「うむ……旅の一団だ。滞在は2日ほどで考えている。」


 男は身分証を受け取り、目を走らせた。眉が少しだけ動く。


「……クリフ・カルロベーノ?」


「うむ……旅の同行者も含めて問題がなければ」


 男が顔を上げる。視線が、クリフの顔から、俺たちの顔へ順に滑る。よっしーが、にへっと笑って手を軽く挙げた。



「まいど……たいしたもんやないけどコレ……」


 そう言って、よっしーは何の前触れもなく、手のひらを虚空に差し入れた。


 一瞬、詰所の男が目を見開く。


 次の瞬間――

 よっしーの手の中に、琥珀色の液体が詰まった小瓶が現れた。


 ずしりとしたガラス瓶。

 短い首、丸みのある胴。

 見慣れないが、酒だということだけは一目で分かる。

「こ……これは、なんて精巧な作りのガラス瓶だ……?」


 詰所の男は、思わず両手で小瓶を持ち直した。

 指先で縁をなぞり、底を透かして見る。


「気泡が……ほとんど無い。

 しかも、この均一な厚み……」


 槍を持つ手の感触とはまるで違う、

 壊れそうで壊れない重みに、眉をひそめる。


「これほどの透明度のガラスは、

 領都の工房でも滅多に見んぞ……」


 よっしーは肩をすくめた。


「そっちが本職ちゃうからな。

 中身の方が、もっと自信作やけど」


 男は、はっとして瓶の中身を見る。

 光を受けて揺れる、琥珀色の液体。


「……酒、なのか?」


「せや。

 火ぃつくで」


「……」


 男は一瞬だけ黙り込み、

 それから、喉を鳴らした。


「……仕事の後に飲むには、

 ずいぶん贅沢すぎる“挨拶”だな」


「たまにはええやろ。

 門番も人間や」


 その一言で、男の表情が完全に崩れた。


「……ふっ。

 確かにな」


 瓶を大事そうに詰所の奥へ置き、

 男は姿勢を正す。


「ユーゲルンブルクへ、ようこそ。

 旅人たち」


その言葉と同時に、

 詰所の脇に設えられた木の扉が、きい、と低い音を立てて開く。


 ――ざわり。


 先に飛び込んできたのは、音だった。


 馬の蹄が石を叩く乾いた響き。

 荷車の車輪が軋む重たい音。

 どこかで金属が触れ合い、

 別のどこかで、怒鳴り声と笑い声がぶつかる。


 次に、光。


 扉の向こうから差し込む夕刻の陽射しが、

 一気に視界を満たした。


 低い家並みの隙間を縫って射し込む光が、

 埃を含んだ空気を金色に染め上げる。

 揺れる影、動く背中、反射する金属。


 眩しさに、思わず目を細める。


 ――生きてる。


 そう思った。


 俺は、一歩踏み出す。


 開き始めた町の匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。


 俺は、開き始めた町の匂いを吸い込む。


 土と汗と、

 それから――

 今日も働いてきた人間の匂い。


 胸の奥の“ひっかかり”が、また少しだけ動いた。


 あーさんは男に向かって丁寧に会釈する。明治の匂いがするほど古風で、妙に落ち着いた礼だ。


「お世話になります。ご面倒をおかけいたしますねぇ」


 男は一瞬たじろいで、咳払いした。







 町の中に入ると、音が変わる。馬車の車輪のきしみ、荷を引きずる音、店先で呼び込みをする声。夕方に向かう時間で、人が忙しい。買い物袋を抱えた女、木箱を抱えた少年、縄で束ねた薪を引く老人。視線が、当たり前みたいに“動く手”を追っていく。


「へぇ……結構、店多いな」


 俺が呟くと、よっしーが鼻を鳴らした。


「街道町やしな。通りゃ腹も減るし、靴も壊れるし、馬もくたびれる。そら店は増えるわ」


 言い方が現実的すぎて、妙に説得力がある。


 クリフは通りを見渡しながら、必要な物を淡々と挙げていく。


「ふむ……塩と乾物。あと、靴底の修繕ができる店があれば寄りたい。――ユウキ、君の靴、踵が削れている」


「え、マジ?」


 見てみると確かに、踵が減ってる。こういうの、現代だと気づかないふりで済ませてた。いざとなれば買い替えればいいって感覚が、まだどこかに残ってる。


 ニーヤが俺の足元を見て、尻尾をぴんと立てた。


「我が主人あるじ、足の器は命の器ですニャ。すり減らしてはならぬですニャ」


「う、うん……気をつける」


 ブラックは無言で俺の靴を見て、何か言いたげに口を開きかけて、やめた。……あいつはいつも、言葉を飲む。たぶん“言わなくても通じる”と思ってるんだろうけど、俺はたまに通じない。


 

 店を二、三軒覗いた。刃物屋でクリフが短い会話を交わし、乾物屋であーさんが値段を聞き、よっしーが干し肉の匂いを嗅いで「ええ感じやな」と言う。俺はというと、並んでいる品の“生活感”に目が吸い寄せられる。


 布。糸。針。鍋。木の匙。蝋燭。油。石鹸。……俺の世界では、目を向けなくても手に入ったものばかり。


 それがここでは、ちゃんと「仕事」と「金」と「時間」で繋がってる。


「ふむ…宿は――」


 クリフが通りの端を指差した。木の看板に、鈴と木の葉の絵。文字は簡単で、俺でも読める。


 鈴の木亭。


 近づくと、扉がすっと開いた。


「いらっしゃいませ!」


 声が高い。明るい。顔を覗かせたのは、小さな女の子だった。七歳くらい。髪を二つに結って、頬に粉がついてる。パンでも焼いてたのかもしれない。


 その後ろから、もう一人。少し背が高い、十一歳くらいの子。目はしっかりしていて、こっちは“店の顔”をしている。


「お客様ですね。泊まりですか?」


 言葉遣いが丁寧で、妙に慣れている。俺が「え、子どもが受付?」と思っていると、クリフが膝を軽く折って目線を合わせた。……この対応が、自然すぎる。


「こんばんは。旅の者です。部屋は空いていますか」


「はい、ございます。お父さん呼んできますね」


 七歳の子がぱたぱたと奥へ走る。十一歳の子は、俺たちを見て――目を丸くした。


 視線が、ニーヤに止まる。猫耳。尻尾。ブラックの白い輪郭。


「わー……すごいね!」


 次に、七歳の子が奥から戻ってきた。嬉しそうに跳ねる。


「かわいい!」


「触ってもいい?」


 率直すぎる。でも、悪意はゼロだ。純粋に“珍しい”だけだ。


 ニーヤが一歩前に出て、胸を張った。口調はいつもの、どこか古い響き。


「良いですニャ」


 その一言が、やけに丁寧に聞こえたのは、ニーヤが“子ども”に対してだけ少し柔らかいからかもしれない。


 七歳の子が恐る恐る指を伸ばし、ニーヤの尻尾に触れる。ふわ、と毛が揺れる。子どもが目を輝かせた。


「わぁ……あったかい……!」


 ブラックは「カァ」と鳴いて、自分から手のひらに頭を擦り寄せた。十一歳の子が笑って、そっと背中を撫でる。


 


 その様子を見て、クリフが小さく息を吐いた。笑っている。あいつ、こういうの好きだろ。


「……お前、対応が自然すぎるだろ」


 俺が小声で言うと、クリフは同じくらい小声で返した。


「うむ…子どもは……苦手ではない。礼を失う方が嫌だ」


 なんだその、正論の塊みたいな言い方。


 奥から、宿の主人らしい男が出てきて手続きを引き継いだ。部屋代と夕食の時間、風呂は樽で順番、朝は粥と黒パン。クリフが淡々と支払い、鍵を受け取る。


 その間も、子どもたちは手を止めない。七歳の子は机を拭き、十一歳の子は帳面に名前を書き込み、空いた器を運ぶ準備をする。まるで“当たり前”の流れ。


 俺の胸の奥が、また引っかかった。


 よっしーが、その様子を見て言った。


「おー見てみいや!!……あんな子らでもちゃんと手伝いよるんやで!!!」


 口調はいつもの関西弁だけど、どこか誇らしげだ。働くことを、美徳として見てる目。


 あーさんは穏やかに頷く。


「微笑ましいですねぇ。ご家族の中で、役目が回っております」


 俺は、言葉が勝手に出た。


「……なんか強制労働じゃね」


 空気が一瞬止まる。


 よっしーが目を細める。「は?」って顔だ。


 俺は続けた。止まらなくなった。


「だってさ、子どもだぞ? 七歳とか十一歳とか。親に“やれ”って言われたら逆らえないだろ」


「嫌だって言ったらどうなるんだよ。虐待とか、そういうの――」


 言ってから、俺自身が気づく。俺の頭の中には、ニュースで見た言葉がそのまま残ってる。児童虐待。労働搾取。強制。保護。


 この世界に、それがあるかどうかも分からないのに。


 あーさんが、俺を見る。責めない。けど、目は優しくもない。事実を測る目だ。


 クリフが先に口を開いた。


「ユウキ。君が心配するのは分かる」


 優しい声だ。兄貴分っぽい。……そういうところが、余計に刺さる。


「だが、今は推測だ。まずは宿の主人と話し、子どもたちの様子を見てから判断しよう」


「……」


 よっしーが鼻で笑った。


「お前、すぐ“最悪”に飛ぶよな」


 俺は反射で言い返しかけて、やめた。言い返す言葉が、俺の中で薄っぺらいのが分かったからだ。


 手続きが終わり、荷を部屋に置く。窓からは、街道の灯りが見える。人がまだ動いている。町って、こうやって回ってるんだな――当たり前だけど、改めてそう思う。


 夕食まで少し時間がある。俺たちは約束通り、酒場へ向かった。宿の主人に教えてもらった、角の「樽と火」の看板の店。中は温かく、煙と肉の匂いがする。


 現地の男たちが、粗い声で笑っている。女たちもいる。隅で疲れた顔の青年が、黙って麦酒を飲んでいる。


 俺は、席についた瞬間から落ち着かなかった。


 子どもが働くのが、悪いと言いたいわけじゃない。俺だって、子どもの頃は手伝いをした。けど、それは「手伝い」だった。ここで見たのは、手伝いというより――“仕組み”だ。


 よっしーが、最初の杯を受け取って一口飲んだ。


「……うま」


 あーさんは香りを確かめるように、ほんの少し口に含む。クリフは水を頼んだ。ニーヤは俺の隣に座り、ブラックは壁側、いつもの位置。


 俺は、ぐだぐだと口を開いた。


「いやさ……別にさ、手伝うのが悪いって言ってるんじゃなくて……」


「でも、あれってさ、逃げ道なくね? 子どもに選択肢なくね?」


「俺らの時代って、結局そういうのばっかだった気がするんだよな。氷河期とか、派遣とかさ」


 言葉が勝手に積もっていく。自分でもうるさいと思う。けど止まらない。酒が入ると、もっと止まらない。


 よっしーが、黙って聞いていた。俺の言葉が途切れたところで、ふっと息を吐いた。


 よっしーが、しばらく黙って酒を飲んでいた。

 杯を置く音が、思ったより重く響く。


「……なぁユウキ」


 低い声だった。


「正直に言うで」


 俺は顔を上げる。


「お前の話、最初から聞いとったらな」

 一拍。

「言い訳にしか聞こえへん」


 胸の奥が、ぎゅっと縮む。


「時代が悪い、運が悪い、環境が悪い。

 そら全部、事実なんかもしれん」


 よっしーは肩をすくめる。


「せやけどな。

 それ並べ始めた瞬間に、人は動かんようになる」


 俺は反射で言い返そうとして、言葉が出なかった。


「酒飲んで愚痴って、

 “しゃあない”って言うて終わらせとるだけや」


 ぐさり、と刺さる。


「……でもさ」


 声が、少し掠れた。


「オレらの時代は、最初から不利だったんだよ。

 就職氷河期とか言われてさ。

 仕事もなくて、派遣ばっかで――」


 よっしーは、そこで首を振った。


「分かっとる」


 短い一言。


「厳しかったんも、しんどかったんも、分かっとる」


 俺を見る目は、怒っていない。

 むしろ、妙に真っ直ぐだ。


「せやけどな」


 声が、少しだけ低くなる。


「厳しい時代でも、やるやつはやっとる」


「時代のせいにしたら、

 そこで全部、止まるんや」


 俺は、何も言えなかった。


 あーさんが、静かに口を挟む。


「どの時代にも、

 “逃げてよい理由”は、いくらでもありました」


 杯に口をつけ、そっと続ける。


「ですが……

 それを選び続けた方は、

 いつの時代でも、後悔を残しております」


 沈黙が落ちる。


 その中で、クリフが小さく息を吐いた。


「……ユウキ」


 穏やかな声だった。


「逃げていると、自分で分かっている者は、

 まだ立ち直れる」


 俺は、俯いた。


 酒の匂いが、強く鼻を刺す。

 いつもなら、ここで流していた。


 でも――

 今日は、流れなかった。


 グラスを手に取って、口に運ぶ。

 苦い。


 逃げ道だった酒が、

 逃げ場じゃなくなっていた。

後書き


この回では、「異世界」「冒険」「国家」から一度距離を置き、

あえて酒場の片隅での、どうでもよさそうで重たい会話を描きました。


大きな事件も、派手な戦闘もありません。

あるのは、働くこと、生きること、逃げることについての、噛み合わない視線だけです。


ユウキは、この世界に来てからずっと「まともに生き直そう」としています。

けれど、その“まとも”が何なのか、自分でも分かっていません。

だから酒に逃げ、言葉に逃げ、時代や環境の話に逃げます。


それは、弱さでもあり、人間らしさでもあります。


一方で、よっしーは逃げません。

決して立派な理想論を語るわけでもなく、

「努力すれば報われる」などとも言いません。


ただ――

「言い訳して止まるな」

それだけを、乱暴な言葉で突きつけます。


この二人は、どちらも間違っていません。

ただ、立っている場所が違うだけです。


あーさんが語る明治の話も、

「昔は大変だった」という美談ではありません。

制度も保護も薄い時代で、人はどう生きていたか。

そして、それでも“考えることをやめなかった人”がいたという事実です。


この世界では、子どもが働きます。

それは現代の価値観から見れば、簡単に「問題」にできます。

ですが、問題と断じる前に――

そこにある生活、役割、覚悟を見なければならない。


この回でユウキが直面したのは、

異世界でも帝国でもなく、自分自身の逃げ癖です。


酒はまだあります。

逃げ道も、言い訳も、これからも出てくるでしょう。


けれどこの夜、

ユウキは初めて「酒を飲んでも消えない感覚」を抱えました。


それだけで、このエピソードは十分だと思っています。


次の回から、物語はまた動き出します。

国家の話も、使節団も、帝国の影も、再び前に出てくるでしょう。


ですがその前に――

一度、足元を描いておきたかった。


人がどんな理由で立ち止まり、

どんな理由で、もう一度歩き出すのか。


この夜の会話が、

その小さな分岐点になれば幸いです。


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