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第39話 翡翠の涸れ川へ ―― 砂の接ぎ木



(主人公・相良ユウキ=“綴”の視点)


瑠璃の棚田は、朝になるとガラスみたいな淡い光を舐め、昼には白い息で辺りを冷やす。そこを抜けた先、地図歌に“翡翠の涸れワジ”と記された谷筋へ、俺たちは家ごと移ることにした。ここから先は岩と砂の複合地形――広く走れる棚は減り、代わりに“谷の糸道”が増える。クルマは大活躍するが、狭い棚の横移動ではFZRの鼻が利く。舟“いえ”は帆を半巻きにして荷車として引き、必要な場面で舳鈴へれいを擦らせて“拍”を置く段取りだ。


工程メニュー読み上げまっせ」


よっしーが短一回のクラクションを控えめに「ピッ」と鳴らし、指で空中に“戻る拍”の丸印を描く。


「一番、相棒ハチロクで主荷の搬送。二番、FZRで谷底の“糸道”先行――落石・窪み監視。三番、舟を荷車化して側道から押し上げ補助。四番、第三の糸の“布数師ぬのかずし”警戒――数の紋様で視界を奪うやつや。五番、現地の“接ぎつぎき”の礼法を守る。六番、宿営地『サフラのだん』で家印いえじるしを置く」


「接ぎ木の礼法?」と俺。


ラヤが頷く。「この地域では、異なる砂と砂を“接ぐ”とき、互いの水を一口ずつ受け合う。砂漠の“まろうど”の礼ディヤーファだ。掌の水が主役になる」


あーさんが静かに掌を合わせた。「わたくしの出番でございますね」


翡翠色の谷口 ―― 初めての香り


谷口は、砂の色がほんのり緑を帯びている。翡翠というより、潤んだ瓶の内側の色。風が低く、香りが混ざっていた。焼いた胡椒、干したミント、温めた蜂蜜――それから羊の脂の甘さ。見れば、遠い段に色とりどりの絨毯がかけて干され、青い釉薬ゆうやくの壺が陽を返し、土のかまどには円い薄餅が貼り付いている。人影は痩せているのに、動きはふしぎにゆったりしていた。


最初に声をかけてきたのは、小さな少年だった。褐色の肌に砂色のターバン、肩からは青い紐の袋をさげている。目が琥珀の粒みたいに澄んでいる。


「旅の人、喉は渇いてますか?」


あーさんが膝を折り、掌の水の盃を小さく見せる。「ええ、少し」


少年は大人顔負けの手つきで銅のヤカンを傾け、緑の葉っぱの入ったミントティーを湯気高く注いだ。三度に分け、いちばん高い位置から最後の一筋を落とす。泡が立つのが礼なのだと、横から老人が笑って教えてくれる。


「名は?」とラヤ。


老人は首を振った。「まずは呼ばずに、飲みなされ」


あーさんが盃を一口で受け、次に俺、よっしー、エレオノーラ、クリフさん、ニーヤ、ブラック(匂いだけ)……順に口を湿らせた。甘いのに、口が軽くなる。


「――“接ぎ木”の礼、授かりました。家に入れてください」


俺が頭を下げると、老人は目尻の皺を深くして笑った。


「よく知っておる。わしらは“サフラ族”。砂と歌で生きとる者だ。今日はいちの前日。宿る場を分けよう」


砂の市の前夜 ―― 縫いと音


サフラの集落は、岩棚に縫い付けられた布の街だった。ヤシの葉で編んだ垣、羊毛のテント、あいあかねの縞、幾何学の結び――模様の一つひとつが“記憶”だという。女たちは指先をヘンナで染め、男たちは弦楽器ウードや砂太鼓を抱く。子どもは人の顔をじっと見て、目を合わせる時間が長い。


ミラは針箱を開き、サフラの縫いぬいこたちに青磁糸を見せた。群れが「ほう」と小声で息を洩らし、指で糸の響きを確かめた。舳鈴の布を持ってきた老婆は、指の亀裂に油を塗ってから布を撫で、あーさんの掌の水をほんの一滴そこへ落とした。布が音を飲むみたいに沈む。


「お前さんたちのの『へ』、見事よ。“ためらい”は砂漠の知恵じゃ」


老婆の日本語はもちろん通じない。でも、伝わる。礼は、拍だ。俺は旗の〈囁き手〉を低くして、地面に“戻る拍”を置いた。


夜が来る頃、ウードの低音が空気を温めた。火床ほどに鉄の皿がかかり、スパイスが油に泳いで星の形を描く。羊とヒヨコ豆の煮込みの香り。丸いパンを割って差し出され、あーさんは頬を赤くして「ええ、少し」と受ける。慣れない手つきでパンをちぎる彼女を見て、若い女たちがくすくす笑って、ちぎり方を手で教えた。あーさんの耳朶まで真っ赤になるのを、俺は見ていないふりをした。


よっしーは――というと、ウードの横にちゃっかり座り、昭和歌謡を口笛で混ぜておっちゃんたちを笑わせていた。「おお、それは“サマーの風”や!」と誰かが叫ぶ。そうか、メロディーは国境をまたぐんだな。


砂の“のり”と数の影


食後、白髭の族長が絨毯の端に腰をおろし、低く語り始めた。言葉の端々だけ拾っても要は分かる――砂の法ディヤーファ。客を迎えることは海を失ったこの世界で守り継がれた最古の礼儀。水は分け合い、歌は交わし、名は軽々しく呼ばない。呼ぶのは“帰る日”のため。それまでは拍で十分、と。


「第三の“糸”の者は、名を数に変える。数は便利だが、喉を乾かす」


族長の視線の先、遠い段に灰縁の長衣が一瞬、影を落とした。布数師――布に数を縫い込んで人の視界を絡め取る手練てだれだと、ラヤが小声で教える。明日の市を狙っているらしい。


「布数師は、“幾何もよう”と“記号”のあいだを往復させ、心の“”を奪う。対処は簡単――“間”をこちらが先に置けばいい」


ミラが針先を軽く上げた。彼女の縫いは、いつも半拍遅い。それが答えになるのだろう。


サフラの隊商長 ―― 砂の羅針盤コンパス


翌朝、谷は市で賑わった。香と羊の鳴き声、鍛冶の打音、砂の中を走る小型のそり。砂色のカーン――隊商宿には、遠来の商人たちが品を広げる。藍で打った布、銅の皿、細密な幾何学の木象嵌、青い釉薬の器、塩の塊、乾いたナツメヤシ。空気の温度は上がらず、光だけが強い。


そこへ、背の高い男が現れた。白いターバン、薄い焦茶の目、鼻筋が鋭い。片手に“砂羅針盤すなコンパス”――水平の皿に砂を少し入れ、風の向きと微振動で“安全なすじ”を示す古い道具。


「お前たちが“家”を運ぶ者か」


男は日本語ではないが、親しげな低音で言った。通訳はラヤの歌。“意味の節”だけを拾って耳に通す。名は――呼ばない。彼も呼ばせない。代わりに、布を見せた。焦げ茶の布の端に、走り書きみたいな刺繍。


『砂は耳を持つ――聞け』


それは、俺たちの旗の『E』の布片と響きが似ていた。


「“聞けば落ちない”。俺たちの流儀と同じだ」


クリフさんが弦を軽く鳴らし、彼は目だけで笑った。


「ワジ(涸れ川)を案内する。代価は、家の歌ひとつと、布の『へ』の縫い方ひとつ」


ミラが針を持ち、俺は旗を肩にかけ直した。「承知した」


糸道いとみち行 ―― クルマとバイクの使い分け


翡翠のワジは、場所ごとに表情が違う。河床の砂は翡翠色に濡れた瓶のよう、岸は蜂の巣みたいに穴が空き、段の耳はときどきガラス質に硬い。クルマが好むのは“広い底”と“緩い岸”。バイクが得意なのは“斜道はすみち”と“穴の縁”。


「ここから“蛇の背”や。FZR先行な」


よっしーが顎で合図し、FZRが低く吠えて細い斜面をすべるように上る。相棒は荷を積んだままワジの底を守備的に進み、舟は側道で“座りながら押す”。ニーヤが舳鈴を擦って穴の“口”に暗い拍を置き、あーさんは掌の水で石の“滑り”を作る。エレオノーラはクルマの腹を擦らせない角度に拘り、クリフさんは踵で返しを読み、ミラは荷の紐を二重止め、キリアは熱瓶の蓋を撫でて温度差を均した。砂羅針盤の男は、片手で皿を傾けては、砂の動きで“安全筋”を示す。合図は指一本――沈黙が語る。


「ここは“砂のかま”。日が高いと柔らかくなる。朝のうちに抜ける」


男の声に従い、相棒が軽く鼻を上げて“窯”を越える。棚田のガラス感とは違う、吸い込むような柔らかさ。FZRは砂を切り、舳鈴の擦れが道筋をつなぐ。帆の『へ』はたわまず、青磁糸は乾いた風を飲んで鳴らない。


布数師ぬのかずし ―― 数の呪と“


昼前、狭いかいを抜けたところに、幾何学模様を繋いだタペストリーが垂らされていた。深い藍、砂金の糸、白い楔形くさびがた。綺麗だ――と思った瞬間、視界の四隅が“数”でじわじわ締め付けられる。斜めの線が目の“”を奪い、歩幅が勝手に変わってしまう感じ。


「布数師や」


ラヤの声が低い。タペストリーの向こうに、灰縁の長衣。顔は布で覆っているが、目だけが数字の光を反射していた。左右に部下が二人、薄い板を持っている。ここを市の道と勘違いさせて、隊商から“通行数つうこうすう”を巻き上げる算段だろう。


「視界を“間延び”させるな。自分で“間”を置け」


ミラが針を構える。俺は旗の〈囁き手〉を細く、短く。あーさんは掌の水を霧にして顔の前に薄く置く。よっしーはFZRで敢えてタペストリーの真横に“短一回”。「ピッ」。舳鈴は擦れ二拍。エレオノーラは歩幅を小さく固定、クリフさんは弦を“弾かずに撫で”、音の出る直前の“間”を空気に置く。砂羅針盤の男は、砂を一匙、タペストリーの前に投げた。砂の粒が模様の上で止まり、数字の線の“滑り”が僅かに死ぬ。


「――今」


ミラの針先が藍の糸の交点に“返し縫い”を落とし、俺の旗が“暗い拍”をその返しに重ねる。あーさんの水が霧のまま視界を“湿らせ”て数字を重くする。よっしーはFZRの車体でタペストリーの端を“撫で”、エレオノーラは相棒の鼻先を少しだけ斜めに上げる。クリフさんの踵が砂の返しを崩し、男の砂羅針盤は皿をクイと傾けた。


布数師の目が一瞬だけ“数を失う”。その隙に俺たちはすり抜ける。相棒の腹が藍の布を触れずに通り抜け、舟は座って通り、FZRは砂を蹴り上げた。タペストリーの端が砂で重くなる。布数師は怒号を上げたが、彼らは“礼を知らない”。礼を知らない者は、砂漠で支持されない。サフラの若者たちが岩陰から出てきて、やじりを持つ腕を静かに見せた。戦いは要らない。布数師は、数を数え直せずに退いた。


「間を置いた者が、道を得る」


砂羅針盤の男が短く言い、俺は旗を肩に戻した。あーさんがほっと息を吐く。掌の水が盃の底で揺れ、その表面に自分の目が映った。


サフラの書記しょき ―― 結び目文字


峡を抜けた先、岩の蔭の涼しい窪みに、青いタイルのほこらがあった。壁には結び目の図が連なっている。アラベスク――いや、“結び目文字”。音の代わりに結びで意味を記す、砂漠の記憶媒体。老人が糸を一本渡し、子どもが祠の前で結びの手本を示す。ミラはすでに目で盗んでいた。彼女の針先が結び目を再現し、青磁糸の房が祠の風に揺れた。


「あなた方の“帆のためらい”を、今日の祠の結びとして残しましょう」


書記の女が微笑む。あーさんが掌の水で糸を湿らせ、俺は旗で〈囁き手〉を細くして結びの“間”に通した。音は出ない。出ないまま、祠は歌った。


市へ――砂のハカワティ(語り部)


夕方、サフラの段へ戻ると、市の真ん中に絨毯が敷かれ、語り部ハカワティが腰をおろした。手には長い棒、横には鼓。子どもが集まり、大人は背を壁に預ける。物語は砂の冷気の上に乗り、言葉の拍で温まっていく。


「昔々、海が生きていたころ――」


ハカワティの話には、海の音が混ざっていた。波頭と、櫂と、帆のためらい。聞きながら、俺は旗の『E』の布片を指で撫でた。あーさんは掌の水を盃で少し受け、ミラは針を休め、よっしーは目を細め、エレオノーラは矢羽根を撫で、クリフさんは弦を抱え、ニーヤは尻尾で絨毯の縁を押さえ、ブラックは俺の膝で丸くなった。


「……名前は、最後に呼ぶのが礼だ」


ハカワティはそう結んで、棒で絨毯を三度、軽く叩いた。サフラの夜は深く、星は低く、香はまだ宙に漂っている。


砂の女医いしゃアミーナ ―― 水の手


翌朝、隊商宿の隅に人だかりができた。子どもが泣いている。足を棘で傷めたらしい。あーさんが躊躇なく進み出た。「診せてくださいませ」――掌の水で傷の周りを洗い、ミラから清潔な布を受け取って圧迫止血。そこへ年長の女が現れ、薬草を石で潰して軟膏にし、クミンを一つまみ混ぜた。


「あなた、水の手を持っているのね」


その女の名は――呼ばない。でも、人々は彼女を“アミーナ(信頼)”と呼んでいた。呼ぶ、というより“委ねる”響き。あーさんは小さく会釈し、掌の水を女の手に一滴渡した。手と手が、砂漠の上で静かにつながった。


「あなたたちの家は、砂に好かれている」


アミーナはそう言い、俺たちの帆の『へ』を指で撫でた。「ためらいが、砂を安心させるの」


砂の水道フォッガラ――地の下の川


サフラの若者が「見せたいものがある」と俺たちを連れ出した。谷の脇に、細い穴が点々と開いている。地の下に掘った水道フォッガラ。地上に出た水を大切にするため、地下で冷やし、冷たいまま接ぎ木の場へ運ぶ仕組みだという。


「すげえ……」


俺が漏らすと、若者は胸を張った。「先祖の知恵だ。砂の声を聞く者が道を選び、石を並べ、歌を通す。水は歌の方に寄ってくる」


よっしーが相棒のトランクから小さな懐中電灯を出した。若者が目を丸くして、笑った。「星を持ち運んでいる!」。彼らの比喩はいつも瑞々しい。


砂嵐 ―― 見えない刃


午後。風が変わった。砂羅針盤の男が皿に砂を落としてじっと見た。粒が跳ねない。跳ねずに、その場で微振動を続けている。


砂嵐ハブーブが来る。二刻で到達。――“低く”、歌を布で包め」


サフラの人々が走り出す。絨毯を巻き、壺を倒し、ヤギを囲う。俺たちも動いた。舟の帆を半分畳み、帆の『へ』の上に“名のない布”をかける。青磁糸の上にもう一枚薄布。相棒は段の陰へ鼻を入れ、FZRは舳鈴の布でヘッドライトを庇う。ミラは針と糸を布袋に、キリアは熱瓶を砂に半埋め。エレオノーラは矢を革袋に収め、クリフさんは弦を緩める。ニーヤは舳鈴を撫で、ブラックは俺の胸に潜り込む。あーさんは掌の水を盃から布へ移し、布を湿らせて口元を覆う。砂の刃は喉を裂く。水は、刃を“鈍らせる”。


「短一回!」


よっしーが合図を打つ。「ピッ」。舳鈴の擦れが重なる。旗の〈囁き手〉は、いつもより太く、低く。あれは“声”ではなく、“重し”。砂嵐の刃の間に“戻る拍”の重しを落として、家の輪郭を守る。


砂は来た。空が褐色になり、世界が砂一色に塗り潰される。音は全部、遠くなる。唇に砂が当たる音、布が擦れる音、心臓が跳ねる音――それ以外は無音。俺は旗を胸に押し当て、帆の『へ』の上に身体を投げ出した。あーさんの手が俺の肩に乗る。掌の水の冷たさが、布越しに骨へ染みる。


どのくらい続いたか分からない。砂の刃が鈍り、風の背が丸くなる。世界が輪郭を取り戻す。布の上の砂をそっと払うと、青磁糸は無事だった。帆の『へ』も、生きている。


「……よく守った」


砂羅針盤の男がぽつりと言い、俺は砂まみれの顔で笑った。よっしーは相棒の屋根を叩き、FZRのミラーを拭い、舳鈴を撫で、短一回。「ピッ」。サフラの人々も生きていた。互いに肩を叩き、目を見る。名前は呼ばない。ただ、目で“戻る拍”を確認する。


市の再開 ―― 砂の民のしぶとさ


砂嵐が去ってしばらくすると、誰からともなく火が起こされた。砂の上に薄餅が貼り付き、ミントが湯に泳ぎ、デーツが皿で光る。ハカワティは棒で絨毯を三度叩き、子どもが笑う。壊れたものは少し、失われたものは少し。けれど、歌は残った。礼も、残った。


「お前たちの帆の『へ』、砂に愛されたな」


族長が言った。アミーナが頷き、若者が胸を張り、老婆が舳鈴に新しい布を巻いた。名のない布――数にならない布。あーさんは掌の水を彼らの手に一滴ずつ渡し、彼らはそれを額に触れさせた。


砂の約束 ―― 名を呼ぶ日


出立の朝、サフラの段に人々が集まった。砂羅針盤の男が砂を一匙、俺の旗の上に落とし、指で小さく“丸”を描く。戻る拍の印。ラヤは地図歌に“サフラ節”を加え、ミラは袖に砂の文様を縫い込み、キリアは熱瓶の蓋にヘンナで小さな点を打つ。エレオノーラは矢の一本に翡翠の欠片を巻き、クリフさんは弦の結び目を一つ増やした。ニーヤは舳鈴の布を撫で、ブラックは鼻をひくひくさせる。よっしーは相棒のフロントに飾り紐を結び、「ええ子や」と撫でた。


族長が、初めて名に触れた。


「“つづり”よ」


俺の胸が一瞬、熱くなる。呼ばれた。ここで、今。これは“門出の名”。呼ばれて、俺は頭を垂れた。


「そなたらは、砂の“接ぎ木”を正しく行った。ゆえに、砂はそなたらの家を覚える。いつでも戻れ」


「はい。必ず戻る拍を持って帰ります」


あーさんが掌の水を俺の胸に置き、俺は旗の『E』を撫でた。よっしーが短一回。「ピッ」。舳鈴が擦れる。相棒が低く喉を鳴らす。FZRが息を吸う。帆の『へ』が、ためらいのまま揺れる。


砂羅針盤の男が、去り際にだけ名を言った。


「俺は“バシール”。“良き知らせ”の意だ。――名を呼ぶのは、また会うためだ」


「バシール」


呼んだ。呼んで、彼は笑った。名の交換は、帰る約束だ。


次の地平 ―― 黒曜の窓辺へ


翡翠のワジを抜けた先に、黒い縁の高台が見えた。“黒曜こくようの窓辺”。風が束になって吹き、空が四角く切り取られる場所――ラヤの地図歌がそう告げる。そこは、第三の糸が得意とする“フレーム”の領分。数で囲い込む術にけた連中が、窓の縁で人を“数える”。避けるには、こちらが先に“縁”を決めるしかない。


「縁取りは、名のない布で」


ミラが言い、あーさんが掌の水で布を湿らせる。俺は旗の〈囁き手〉で“暗い拍”の帯を作り、エレオノーラは矢を“窓の内側”に置く準備。クリフさんは弦の結びを一つ増やし、ニーヤは舳鈴の擦れを三拍に変える。キリアは熱瓶の本数を数え直し、よっしーは相棒とFZRの役割を切り替える。「窓の縁の上はバイク。窓の縁の陰はクルマ。――状況次第や」


砂は今日も耳を持つ。俺たちは、その耳に“戻る拍”をそっと置いてから、走り出した。


低く、遠くへ。

家は背に、名は胸に、拍は足に。

砂の歌を、綴りながら。


――


(つづく/次話:「黒曜の窓辺」――数で囲い込む“枠”の街へ。名のない布で縁を先取る攻防、隊列の車両運用切替(バイク先導→クルマ牽制)、布数師の上位職“枠師わくし”との対峙、そして“窓のこちら側”に取り残された古い灯台の欠片。)

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