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黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


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北光極篇・その二 凍てた誓い(後篇)

――前書き(ニーヤ)


 この街は、歩くたびに音が消えるですニャ。

 足音も話し声も、氷の壁に吸い込まれて、ほどよい形だけ残るのですニャ。

 静かで美しいのは嫌いではないですニャ。でも――

 あるじの拍が、ときどき寒さで細くなるのは、わたし、見逃せないですニャ。

 だから今日も、わたしは耳を立てて歩くのですニャ。

 差し込まれた拍が、どこから来るのか。

 そして、この街が忘れた音を、どうやって返せるのか――。





 朝のエルマグナは、薄い銀色。

 空に太陽は見えず、氷壁が光を回して“昼らしさ”を作っている。

 宿「雪ノ鈴」の炉は小さく燃え、湯気の向こうで女将が静かに粥をよそってくれた。


「塩、控えめやなぁ」よっしーが匙をくるりと回す。

「体には良いですが……香りが、やはり一つ足りませんね」あーさんが箸を揃える。

「供給が絞られている。あるいは“刺激”を一定以下に平準化しているのだろう」クリフが小さく言って、ユウキの肩を軽く叩いた。「食える時に食え」

「うん。ありがとう」ユウキは頷き、粥を口へ運ぶ。表情は落ち着いているけれど、奥に微かな強ばり。

 わたしは尻尾でそっと彼の肘を叩く。「主、《あるじ》。大丈夫ですニャ?」

「平気。……この街、やっぱ“拍”が薄いなって」


 ルフィがハッチから顔を出す。「ダーリン! 粥の上に肉をのせるのだぞー!」

「朝から暴走すな! 肉は夜や!」よっしーの即ツッコミ。

「……俺たち、完全に家来扱いじゃね?」ユウキが笑って肩をすくめる。

「まことに……恋慕とは、主従をも越えるものにございますね」あーさんがやわらかく微笑む。

「ふむ、生態的には筋が通っている」クリフ。

「そない大層なもんちゃうで!? ただのウサギ暴走や!」

「キューイ?」リンクの首かしげで、朝の輪がほぐれた。


 食後、わたしたちは冒険者ギルドへ向かった。

 目的は二つ。

 一つ、掲示から消えた“人探し依頼”の行方。

 一つ、北塔の出入り記録。


 ギルドの扉を押すと、昨日と同じ温い空気。

 受付嬢は昨日と同じ微笑を寸分違わず浮かべて、「いらっしゃいませ」。

「停止中の依頼――個別捜索の件、詳しく聞きたい」ユウキが率直に切り出す。

「現在、凍害対策のため資源の再配分が行われております。人員の割当て基準により、個別捜索は一時停止です」

「基準は誰が作った?」

「北塔行政局です」

「北塔って、何をするところ?」

「行政局です」彼女は同じ笑顔で、同じ語を返す。言葉の温度は、一定。


 よっしーが別角度からいく。「押し跡の話や。掲示を剥がしたの、誰や?」

 受付嬢の瞳が瞬き、ほんの少しだけ笑みの線が揺れた。

「……手続き上、わたくしたちが。ですが」

「ですが?」

「“転用依頼”として保管されます。該当家族には、補助が」

「補助で人は返らん」クリフの声は冷たいが、刺さない。

 彼女はうつむき、すぐに顔を上げていつもの笑みに戻った。「次の方、どうぞ」


 掲示板の陰で、南方訛りの商人がひそひそ話しかけてきた。

「耳を貸しな、旅人。ここじゃ“若ぇの”が北塔へ入って、そのまま帰っちゃ来ねえ。衛兵に聞いても“行政局の指示”で終いさ」

「子どもは?」わたしの耳がぴくりと動く。

「見ねえ。笑ってるが、目が泳いでる。あんたら、深ぇとこに首突っ込む気なら、夜の回廊下を歩くといい。“低い笛”が聞こえる時刻さ」

「……礼を」あーさんが小さく頭を下げる。「教えてくださいましたからには、こちらも礼を果たします」

「いや、礼は要らねえ。あんたらのその拍に期待してるだけだ」


 ギルドを出ると、雪片が細かく降り始めていた。

 女将の宿に戻る途中、北塔を見上げる。

 針のような塔は、雲の内側に突き刺さって、音を吸っている。

「ミカ」ユウキが通信を開く。「北塔の資料、引ける?」


『都市外部からのアクセスは遮断されています。周辺マップだけなら』

「ありがと。最短で行ける回廊、印つけて」

『印を送ります。……ユウキさん、呼吸を忘れないで』

 彼は小さく笑って、肩のブラックを撫でた。**カー。**淡青の羽は、ここでは控えめに光る。


 夕刻前、宿「雪ノ鈴」に戻る。

 女将は黙って湯を出し、しばらくしてから声をひそめた。

「……あなたたち、ギルドで“剥がされた紙”のことを訊いたでしょう」

「ええ」あーさんが頷く。「掲示を止める術は、いつも上から来るものです」

「わたしが勝手にしたこと。怒らないでね」

 女将は棚の裏から小箱を取り出した。中に小さな鈴。

 透明な氷の鈴――この宿の名の元だ。

「回廊下の角を曲がるとき、これを鳴らすと音が戻るの。父が、昔――“凍る前の街”に使っていた。気をつけて。鳴らすのは三度だけ。多すぎると、嗅ぎつけられる」

 よっしーが息を呑む。「えらいもん、隠し持っとるな」

「声が凍らされてから……誰も、鈴を鳴らさないのよ」女将の指先は冷たい。「お願い。街の音を、少しだけ返して」


 夜が落ちた。

 通りに低い合図音が一度鳴り、家々の灯が一斉に弱まる。

「“就寝合図”ですニャ」

「いや、“従属の拍”だな」クリフがマントを正す。

 わたしたちは回廊下へ出た。灯りの薄い裏通り。氷の壁が人影を長く伸ばす。

 女将の鈴を、あーさんが胸の前で包むように持つ。

「一度」チリン

 通りの端で、雪の音が戻る。

「二度」チリン

 建物の縁で、誰かの寝息が戻る。

「三度」チリン

 わたしの耳に、低い笛が届く――北塔の方角から、細い針みたいに。


「来ますニャ」

 角を曲がると、二人の衛兵が無表情で立っていた。胸の印は行政局、腰には短い潮笛。

「回廊下は通行規制中です」

 あーさんが一歩進み、二鈴をごく低く鳴らす。「礼を尽くし、お通りの許しを乞うものにございます」

 衛兵の瞳がわずかに揺れ、しかしすぐに戻る。「許可は下りていません」

 よっしーが前へ。「声荒げるつもりはない。口だけ止めさせてもらうで」

 ユウキがトン、ツッ。

 わたしは《薄明》を笛の内部にそっと置く。

 クリフは背で柄を押さえ、ルフィは拳を寸止めで袖口を跳ね上げる。

 衛兵は膝を少し折り、笛を手放した。

「睡眠障害やな。目の下の影、深い」よっしーが呟く。「操られとる」

「眠らせば……良い夢を見られますかニャ」

 衛兵はうつむき、足音もなく去った。感情はどこにも落ちていない。ただ“空”だ。


 北塔に近い中心広場。

 氷像が並ぶ場所に出ると、雪が横なぐりに変わる。

 昨夜と同じ位置――白銀の狼騎士、シルヴェル・ヴォルク。

 ユウキが前へ、わたしたちが輪を作る。


「主、《あるじ》。拍はまだ、奥にありますニャ」

「ああ。……行く」

 ユウキはイシュナールを抜かず、鞘の平を氷へ当てた。

 トン、ツッ。

 氷の内側に、灰蒼の光が一拍だけ灯る。

 あーさんが鈴で礼を置き、クリフが「二息、待て」。

 よっしーの泡膜が風圧を抑え、ルフィは跳ねたくなる身体を必死に抑える。

「ダーリン! 叩くのは任せ――」

「任せん! 見とき!」

 リンクが「キューイ」と囁き、ブラックが淡青の羽をひと震い。――いまは使いすぎるなという合図に、カーと短く返す。


 氷の下で、心音が微かに鳴った。

 ドゥン――

 ただ一度。けれど確かに。

 ユウキの指が震える。彼は深呼吸し、もう一度だけトン、ツッ。

 灰蒼の瞳が、瞬く。

 その直後、北塔の方角から低い笛が鋭く――三度。


 氷像の周囲の空気が急に重くなる。

 広場の端から、黒い外套の人影が六。足取りは静か、手には管。

「回廊下での私的な祈りは禁止です」

 抑揚のない声。祈りと呼ぶには、あまりに命令の響き。

 わたしは耳を伏せ、杖を握る。「主、《あるじ》。合図の位相が、潮とも風とも違いますニャ。氷ですニャ」

「……“止める”祈り、だな」クリフが剣に手をかける。「封じ、凍らせ、素材化する祈り」

 ユウキは一歩も引かない。「俺たちは返す祈りをやってる」

「祈りは上申の後に」黒衣が笛を上げる。「……吹け」


 同時に、ぅ゛――と低い不協が押し寄せる。

 氷像の表面に細かな霜が走り、灰蒼の瞳が再び閉じそうになる。

「させませんニャ!」

 わたしは《薄明》を笛の中空に置き、よっしーが無音チャフで共鳴だけずらし、あーさんが礼で音の入口を狭める。

 ルフィは寸止めの拳で笛の角度を変え、クリフが背で足の開きを押して“踏ん張れない姿勢”へ。

 ユウキのトン、ツッが核になり、黒衣の音は氷壁に吸い込まれて消えた。

 黒衣は抵抗せず、一歩下がる。

「……命令、停止。撤退」

 六人は同じ角度で振り返り、同じ速度で回廊下へ消えた。


「戦う気、ないね」よっしーが肩を回す。「音だけ差し込んで、様子見や」

「上に、もっと“冷たい”指揮がいる」ユウキが氷へ手を戻す。「――続ける」


 トン、ツッ。

 シルヴェルの胸の中で、二拍目が鳴る。

 氷の表面に、髪の一本分ほど細い亀裂が入った。

 あーさんが鈴を鳴らす。チリン

「拍が、眠りから帰りたがっております」

 クリフが小さく笑い、「うむ。目覚めの礼は、軽く叩くものだ」

 ユウキが頷く。「非致死・ほどほど。鳴らさず置く」


 そこへ、北塔から鐘ではない音が落ちてきた。

 ――合図。街じゅうの灯がさらに下がる。

 通りの人影が一瞬止まり、また同じ歩幅で動き出す。

「これ以上ここでやれば、街が来る」よっしーが周囲を見渡す。

「いったん退く。道具がいる」クリフが静かに言う。「氷を壊さず、拍だけを起こす道具が」

「道具、なら――」女将の鈴が、あーさんの掌で冷たく光る。「もうひとつ、心当たりがございます」


 女将に教えられたのは、氷工房。

 昼間は氷彫の道具を売るが、夜は裏で“昔の調律具”を貸すらしい。

 回廊の角を三つ曲がる。鈴は鳴らさない。

 工房の扉は細い。叩くと、老職人が片目だけ覗かせた。

「……旅人か」

「氷を壊さず、音だけ起こしたいの」ユウキ。

「昔の客に、似ている」

「昔の客?」

「“狼の若造”さ」老職人は笑いもせずに言った。「あいつは、凍った拍を守るために来た。お前は――返すためか」

「返す」ユウキは迷いなく答えた。

「なら、貸すがいい。返す時は、拍で返せ」

 老職人は棚から細い棒を二本出した。

「《氷鳴子》――氷に触れず、隙間に音を置く道具だ。叩くな、撫でろ」


 戻る道すがら、わたしは耳を立て続けた。

 遠くで、子どもの泣き声がした気がする。

 でも、次の角で消える。

 差し込まれた拍が、泣き声を均してしまう。


 広場へ戻る。

 雪は止み、空は薄い青。昼でも夜でもない、時間の拍が決まらない空。

 ユウキが《氷鳴子》を握り、そっと氷と氷の継ぎ目へ差し入れた。

 トン、ツッではない。

 もっと小さく、トだけ。

 わたしは《薄明》で朝を足し、あーさんが礼で輪を作る。

 クリフが背の押しでわずかに角度を合わせ、よっしーが圧を抜く。

 ブラックが淡青の羽で一瞬だけ縫い、リンクが「キューイ」と拍の合図。


 ――ドゥン、ドゥン。


 二拍、戻ってきた。

 氷のひびが髪の毛から、指の幅へ広がる。

 灰蒼の瞳がはっきりこちらを見る。

 そして、氷越しに、低い声がかすかに落ちた。


「……凍てた風は、命を奪うために吹かぬ」

 声だ。

 わたしたちは顔を見合わせる。

 ユウキが、笑った。

「はじめまして。俺たちは、返すために来た」

 氷の中で、白銀の狼騎士がほんのわずか頷いた。

 次の瞬間、北塔の合図音が二度鳴る――近い。

「退く!」よっしーが叫ぶ。

 わたしたちは足場を崩さず、拍を乱さず、その場の音を残して回廊下へ溶けた。



 宿に戻ると、女将が窓の外を確かめてから、扉に閂を下ろした。

「……鈴の音が、街の端まで届いた。久しぶりに」

「ありがとう」ユウキが鈴を返す。「おかげで“二拍”戻せた」

 女将は小さく笑って、鈴を握りしめる。「昔はね、夕暮れになると、この鈴の音で子どもたちが走って帰ったのよ」

 あーさんが目を伏せ、「いつか、また――そうなります」

 女将は頷かず、否定もせず、ただ炉の火を少し強くした。


 夜更け、寝台に横になっても、街の低い笛は、ときどき鼓膜の裏を掠めた。

 わたしは目を閉じ、耳だけを立てる。

 北塔の合図は、三つの層に分かれている。

 一つは、人の歩幅。

 一つは、家の灯り。

 そしてもう一つは、地の下を流れる搬送路――素材が運ばれる音ですニャ。


「主、《あるじ》」

 囁くと、ユウキはすぐ目を開けた。「……起きてるよ」

「搬送路、分かりましたニャ。明日、回廊下と旧導管で辿れるですニャ」

「頼りになるな」

「当然ですニャ。主の肩は、わたしの定位置ですニャ」

 ブラックがその肩でカーと短く鳴く。リンクが布団の端から「キューイ」。

 よっしーは寝返りを打って「肉……夜……」と寝言を言い、あーさんは安らかな寝息、クリフはいつでも起きられる姿勢のまま、ただ目を閉じていた。


 北塔の方角で、もっと低い音が一つ。

 街じゅうの氷がわずかに鳴り、灯が細く揺れた。

 誰かが、次の段階へ進めた合図。


「……急がなあかんな」よっしーが目を開けて天井を見た。

「うむ。明日、扉を見つける」クリフが短く言う。

「扉?」ユウキ。

「凍結の祈りは、必ず入口と出口を持つ。出口を見つければ、素材は帰路を思い出す」

 あーさんが小さく二鈴を鳴らす。チリン

「拍を置き、道を戻す……非致死・ほどほどで」

「ダーリン! 明日は叩くのだぞー!」

「叩かん言うとるやろ!」

 笑いが、炉の火より小さく、でも確かに部屋を温めた。


 遠く、氷の広場で、白銀の瞳が再び薄く開いていた。

 ――返す拍を、聴いている。



つづく


北光極篇・その三 静音街の子ら


旧導管と回廊下を抜けて辿り着く地下層。

そこには“教育棟”の名を借りた搬送路、

そして差し込まれた拍を運用する者たちの影――。

「声が凍る前に」

彼らは扉を見つけ、帰路を置き始める。

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