北光極篇・その一 凍る街エルマグナ(前篇)
――前書き(クリフ)
音のない風というものがある。吹いているのに、衣の裾ひとつ鳴らさず、ただ視界だけを白くする風だ。あれは無音ではない。拍を奪われた風だ。
街にも、そういう種類がある。通りは整い、灯は明るく、人は笑う。けれど歩みの律が、どこか薄い。まるで深い雪に靴底を埋め、靴音が吸われるように。
我々が北海を抜け、この氷壁の都へ入った朝――私はそれを、はっきりと嗅ぎ取った。凍てついた美しさと、呼吸を忘れた静けさ。その両方が、ここにはあった。
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トレノ号は氷海仕様の外装に変わり、薄い霜を纏って白の平原を滑っていた。空は透明な鉛色、吐く息は白く、窓際に寄ったリンクが息で丸を描くと、すぐに“キューイ”と自分で笑って消す。
よっしーが操縦桿を微妙に押し込みながら言う。「いやぁ……冷蔵庫どころちゃうな。冷凍庫通り越して、業務用や」
「ダーリン。外に出たら凍るのだぞー!」ルフィが後部ハッチから半身を出しかけるのを、よっしーが慌てて引き戻した。
「出るな言うとるやろ! ウサギ機能でも耳から凍るで!」
「……俺たち、完全に家来扱いじゃね?」ユウキが肩を竦める。
「仕方ないですニャ。あの子の中では、よっしー殿が王様ですニャ」ニーヤが毛を逆立てないように、首元のマフラーをきゅっと結ぶ。
「あら、まことに……恋慕とは、主従をも越えるものにございますね」あーさんが二鈴を胸に当てて微笑む。
私はユウキの肩を軽く叩いた。「ふむ、生態的には筋が通っている」
「そない大層なもんちゃうで!? ただのウサギ暴走や!」
「キューイ?」リンクが首を傾げ、車内にいつもの笑いが流れた。氷の世界の入口でも、我々の拍は変わらない。
やがて、白い壁が現れる。氷で築かれた、透きとおる城郭。外からの光を導く管が網の目のように走り、壁の内側――エルマグナは昼のように明るかった。
「うわ……」ユウキが窓に額を寄せる。「きれい、だけど……」
「音が薄ゅうございますね」あーさんが小さく言う。
門をくぐると、整然とした通り、過不足なく並ぶ屋台、規則正しく回る雪車。人々は微笑んでいる。だが、彼らの笑みは、どこか“力を節約した笑顔”のように見えた。
「主、《あるじ》。子ども……見当たりませんニャ」ニーヤの耳が伏せる。
「老人も、少ない」私は周囲を見回す。「通りの賑わいに、人生の高低がない。……平均化されすぎている」
トレノ号を氷壁内の駐機場に預け、まずは街の把握だ。
目抜き通りには、氷を削って作った彫刻が立ち並ぶ。氷上舞踏の女、雪を運ぶ少年、角笛を吹く衛兵――。どれも見事だが、光の反射がやけに冷たい。
「ようできてるけど、なんや……心が遠いな」よっしーが腕を組む。
角を曲がれば市場。干した極北魚、根菜、氷蜜。売り手は朗らかな声を出すが、値切り合いの熱がなく、拍が一定だ。
「……会話の抑揚が、狭いですニャ」
「うん」ユウキが囁く。「怒るでも笑うでもない、決められた幅で喋ってるみたい」
ひとまず、冒険者ギルドへ。
氷結樹の根の下、青銀の看板に「白氷の鷹」と刻まれている。扉を押すと、内側は驚くほど暖かく、おだやかな暖流が足下を撫でた。
受付に歩み寄ると、青い制服の女性がすっと姿勢を正す。「ご来訪、ありがとうございます。ご用件は」
「滞在許可、それとこの街の依頼状況を見たい」ユウキが答える。
「承りました」女性は微笑み、手元の水晶板になめらかに触れた。笑顔は美しい。けれど、その笑顔には余白がない。
「滞在許可は三日。延長は審査が必要です。依頼掲示は、向かって右手」
掲示板はびっしり埋まっていた。
《凍獣の駆逐》《氷導管の清掃》《雪精サンプリング》《北塔への資材搬入護衛》……。
ユウキが眉を寄せる。「……人探しが、ない?」
よっしーが小声で言う。「張り出されへんのか、張り出させてないんか、どっちかや」
私は指で列を追い、空いたスペースの押し跡を見つけた。紙を剥がした痕だ。
「剥がされている。最近、かなりの数が」
「主、《あるじ》。受付の後ろの棚、封筒に“父”“母”の文字が見えましたニャ」ニーヤの声は低い。
視線に気づいたのか、受付の女性は申し訳なさそうに微笑んだ。「個別の捜索案件は、現在停止中です。事情がありまして」
「事情?」ユウキ。
「該当部署へお尋ねください」微笑みは崩れない。答えの手前で止まる笑顔。
それでもギルドは、ギルドだ。
掲示板の端に、小さな紙切れがひっそりと貼られていた。《氷窟で拾った櫛 持ち主を探しています 連絡:宿雪ノ鈴》
「ノアの櫛と似ておる……」マハナが小さく呟き、すぐ口を閉じた。ここでは潮の名は慎重に扱うべきだ。
我々は紙を写し取り、受付で宿の場所を訊ねた。女性は寸分違わぬ笑みで教えてくれる。「雪ノ鈴は北門通りから二本目、回廊裏です」
ギルドを出ると、氷の空が淡く光った。昼と夕の境界が曖昧で、時刻の拍が掴みにくい。
「昼飯にしよか。寒いと腹、減るねん」よっしーが通りの煮込み屋を見つけ、指をさした。
鍋から白い湯気が立ち上る。根菜と凍魚のスープは塩が控えめで、身体の芯にじんわり広がる。
「うむ……うまい。だが、香りがひとつ、欠けている」私は匙を置いた。
「香味草、ですニャ」ニーヤが鼻を鳴らす。「使ってないですニャ。いや、使えない?」
「供給制限か、または感覚の平準化政策……」よっしーがスプーンを回した。「味の幅、狭めとるで」
宿「雪ノ鈴」は回廊裏の小路にひっそりと在った。白木の扉、凍りついた鐘、窓辺の小さな花。
女将が出てきて、私たちを見渡すと、ほんの少しだけ表情の余白が動いた。「旅人さん。……掲示の紙を見て?」
ユウキが頷く。「櫛を拾ったって」
女将は奥から布包みを持ってくる。白い櫛。珊瑚ではなく、凍樹の芯で作られている。歯の間に、短い黒髪が一本。
「北の短い洞で見つけてね。持ち主を探してるけど……」
「人探しの依頼は、出せない?」
女将は目を伏せた。「出せば、消されるの。掲示板の紙は、翌朝には無くなる。……声を上げると、声が凍る」
室内の空気が、わずかに重くなる。
「北塔って、どこにありますか?」ユウキの問いに、女将は躊躇し、それでも小さく答えた。
「……この街の“真ん中”。見上げれば、わかるわ」
外へ出ると、薄い霧が降りてきた。
見上げれば、街のど真ん中に、針のように細い塔が一本、天へ伸びている。氷でも石でもない、光でできた柱のような塔。
「ありゃ、ただの飾りやないな」よっしーが目を細める。「送導管、もしくは……」
「拍の柱、ですニャ」ニーヤが毛を逆立てる。「音が、あそこへ吸われてますニャ」
日が落ちる。あるいは落ちたふりをする。
通りに静かが降りると、氷壁の内側で鈍い歌が鳴った。鐘ではない、風でもない。一定の合図。
私は耳を澄ます。――人々の歩幅が、その音に揃う。
「……拍が外から差し込まれている」
「空でも、潮でも、あったね」ユウキが低く言う。「差し込まれた拍」
広場に出ると、氷の彫像が規則正しく並んでいた。氷王賛歌の展示と銘打たれた、街の中心。
女、男、兵、賢者、商人、子ども――いや、子どもの像は、ない。
「主、《あるじ》。胸が……冷たくなりますニャ」ニーヤが杖を抱きしめる。
その時、ルフィが遠くの像を指さして跳ねた。「ダーリン! オオカミなのだぞ!」
「おい、走るなって!」よっしーの声が響くが、ルフィはもう像の前に立っていた。
近づく。私たちも、息を飲む。
そこに在ったのは、白銀の狼の騎士。
片膝をつき、剣を地へ突き立て、薄く顔を伏せる。氷結鋼の鎧は細かな霜の花で覆われ、髪は白金。耳は兜の内に隠され、背の大剣には風の結晶が埋め込まれている。
ただの像ではない。氷の中、指の節ひとつひとつに“造形以上の情報”が宿っている。筋肉の流れ、呼吸の位置――。
「……氷漬け、や」よっしーが呟く。「彫ったんやない。凍らせて置いたんや」
「この拍……生きております」あーさんが二鈴をチリンと鳴らす。音が氷に吸われ、そして微かに返ってきた。
ブラックが私の肩から飛び、像の肩口で羽を震わせる。カー。
淡青の羽が、縫い目のように一瞬ひかり――すぐに光は沈む。
「……今、瞬いた?」ユウキが息を呑む。
私は頷いた。「起きている。 眠りの底で、拍だけが」
像の台座には、古い文字で名が刻まれていた。
《シルヴェル・ヴォルク》
白銀の狼騎士。北氷宮第一護騎。
風が吹く。氷でできた風鈴が、かすかに震えた。
広場の隅、黒い外套の人物がこちらを一瞬だけ見て、群衆に紛れる。
よっしーが目で追い、「今の、ギルドの印ちゃうで。取引人の動きや」
「追う?」ユウキが視線を交わす。
私は首を横に振った。「今は街の拍を外さない。最初の夜は、見るだけだ」
「ふむ。慎重は、凍てる場では徳だ」あーさんが頷く。
広場の灯が少し落ちる。
人々は決められた歩幅で帰路につく。笑顔は薄れ、足音は雪に吸われる。
我々は最後にもう一度、氷の騎士を見上げた。
氷の下、灰蒼の瞳が――ほんのわずか、こちらを見たように思えた。
宿へ戻る道すがら、ユウキが小さく言う。
「クリフ。……どう思う?」
「氷は、止めるためにある」私は答える。「奪うためではない。拍を留め、暴れを休ませるためにある。……あの騎士が守るべきものは、いま街のどこかで“素材”にされている」
ユウキは唇を噛む。
「殺さず、鳴らさず、取り返す」
「うむ」私は頷き、彼の肩をもう一度軽く叩いた。「それが我々の拍だ」
遠くで、細い笛のような低い合図音が一瞬だけ鳴った。
風でも鐘でもない――差し込まれた拍。
北の街は、静けさの底で、音を隠していた。
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つづく
北光極篇・その二 凍てた誓い(後篇)
冒険者ギルドでの“停止中の依頼”の裏側、北塔の正体、
そして氷像シルヴェルへ届く最初の“叩き”。
拍は薄く、けれど確かに、目覚めへ向けて集まり始める。




