南群諸島篇 その三 潮の記憶(後篇)
岬の神殿から続く岩階を降りると、潮の匂いが濃くなった。
波が洞に息を送り、引き、残した雫が青く光る。
マハナが先頭で潮の杖を掲げると、壁の珊瑚が微かに鳴った。**チ……**と一拍、合図のように。
「ここから先が潮窟。潮の記憶が層になって眠っています」
「層、か」クリフが頷く。「乱れている層だけを撫でる……それが肝だな」
「主、《あるじ》。音がバラバラですニャ」ニーヤの耳が伏せ気味になる。
ユウキは鞘に触れた。トン、ツッ。
洞の呼吸が半拍、揃う。
入口の岩棚で一旦連携を確認する。
よっしーは盾の腕輪を泡膜モードへ。「水圧来たら、これで減圧ドーム作るで」
あーさんは二鈴冠杖《明照》の飾り紐を結び直し、「潮の拍を汚さぬよう、音を真ん中に置きますわ」
ルフィは両拳をぶんぶん回し、「ダーリン! 任せるのだぞー!」
「アホ、洞ん中で跳ねるなや!」よっしーが即ツッコミ。
「……俺たち、完全に家来扱いじゃね?」ユウキが苦笑する。
「仕方ないですニャ。あの子の中では、よっしー殿が王様ですニャ」
「あら、まことに……恋慕とは、主従をも越えるものにございますね」あーさんがやわらかく微笑む。
クリフはユウキの肩を軽く叩いて、「ふむ、生態的には筋が通っている」。
「そない大層なもんちゃうで!? ただのウサギ暴走や!」
ハッチから顔を出したリンクが首を傾げる。「キューイ?」
輪がほどけ、笑いが潮へ溶ける。
マハナがくるりと振り返り、目で合図した。「行きましょう。潮が“思い出したい”と言っています」
◆
第一層――貝歌の回廊。
天井いっぱいに小さな巻貝が張りつき、遠い昔の唄が残響になって壁を撫でている。
足を踏み入れた瞬間、カン、と乾いた異音が混じった。低い笛――あの“差し込まれた拍”だ。
「右の列、二と五が違う」クリフが即座に指差す。
「了解、角度だけ戻す」ユウキが鞘でトン、ツッと触れる。
あーさんの二鈴がチリンと追い、ニーヤが《薄明》で貝の内側に“朝”を置く。
よっしーの無音チャフが不要な共鳴を吸い、響きはゆっくり整った。
回廊の奥で、潮の記憶が像を結ぶ。
幼いノアが笑っていた。
まだ髪が短く、珊瑚の輪が少し大きい。
彼女が貝に願いを囁くと、貝は恥ずかしがるように音を丸める。
「……潮は、願いを覚えるんだ」ユウキが呟く。
「ええ。そして覚えたものを、いつか返す」マハナの声が静かに落ちる。「この先です」
◆
第二層――潮襞の広間。
幾重もの水の幕が垂れ、うっすら人影が歩く。だが近づくと、影は音を喰って消える。
「音喰いの“潮影”、昨日の弱いやつより手強いですニャ」
「非致死・ほどほど」ユウキは仲間を見渡す。「音は守る。影は落とさない」
最初の群れが迫る。
よっしーが泡膜ドームを展開して衝撃だけ逃がし、
ニーヤの《マリン・カーヴ》が水幕をS字に曲げる。
あーさんの二鈴が半拍前で“受け”、クリフの守律剣が背で角度を押して逸らす。
ユウキはイシュナールの平で撫でるだけ――影は輪郭を保ったまま、すうっと水襞の裏へ退いた。
「ダーリン! とどめは任せるのだぞー!」
「任せへんわ! とどめいらん言うてるやろ!」
ルフィの拳は寸止め、波だけがぽんと跳ねて、影の苛立ちを中和する。
リンクが二段ジャンプで幕の縁を蹴り、ブラックが淡青の羽根をひと震い――短時間だけ、泡の継ぎ目を縫う。
「無理すんなよ」ユウキが肩越しに声をかける。**カー。**短い同意。
音喰いが遠ざかると、広間の床に古い貝櫛が落ちていた。
マハナが手に取り、眉を寄せる。「ノアのものです。……潮は彼女を、まだ手放していない」
◆
第三層――潮の扉。
岩壁に巨大な円が刻まれ、無数の小孔が音口のように並ぶ。
扉の前に、黒い装束の影が四人。肩の紋は――ウィンドフォールで見た風紋に似て、だが色は墨。
口元には金具のついた潮笛。低い笛はここからだった。
「作業中。立入、不可」
抑揚のない声。
「許可は?」ユウキ。
「祈りにより、許可」
またそれだ。差し込まれた祈り。
黒衣たちは潮笛を同時に口へ当てる。
ぅ゛……
洞がきしみ、扉の音口が違う拍で鳴り始めた。
潮がざわつき、背後の水幕が荒れる。
「口だけ奪う!」
ユウキが前へ出てトン、ツッ。
ニーヤの《薄明》が管の内側に朝を置き、よっしーの無音チャフが共鳴を外す。
クリフが滑空脚(こいつら、やっぱり持っている)を背で押して体勢だけ崩し、
あーさんの二鈴が礼を置く。
潮笛は音を失い、黒衣たちは驚いたように顔を見合わせた。
その隙に、マハナが一歩進む。
「潮は“祈り”を知っています。ですが、祈りの名を使う命令は、祈りではありません」
黒衣の瞳がわずかに揺れた。
「……退いてください。潮が傷つきます」
彼らは抵抗しない。
ただ、整然と下がり、通路の陰へ消えた。
よっしーが小声で。「撤退が早いな。命令で動いとる……?」
「糸の先は海の外かも」ユウキが扉へ向き直る。「開けよう。鳴らさず置いて」
扉の前に輪をつくる。
ユウキのトン、ツッを核に、
あーさんがチリン、チリリンで音口の位相を合わせ、
ニーヤが《薄明》で“朝のバルブ”を置く。
よっしーの泡膜が圧を均し、クリフが背の押しで円周を撫でる。
ブラックが淡青の羽で縫い目を短く作り、リンクがトトンと足で拍を刻む。
扉は、潮がため息をつくみたいに開いた。
◆
第四層――潮心。
底は見えない青、天は珊瑚の天蓋。
中央に、白い潮柱が立っていた。
そこに――ノアがいた。
水の光に溶けて、目を閉じ、手を胸に置いている。
生と死の境ではない。記憶の中間だ。
「触れてはなりません。拍だけを――」マハナがささやく。
「任せて」ユウキは刃を抜かずに両手で鞘を抱える。
トン、ツッ。
潮柱に波が走り、ノアのまつげが震える。
その瞬間、柱の根がきいと軋んだ。
低い笛――さっきの黒衣とは質が違う。
もっと古く、もっと人工的な音。
柱の基底に、金属の輪が埋め込まれていた。
潮の流路を無理に増幅するための、古い機械。
誰かが起こし、誰かが使っている。
「外す」よっしーが工具を取り出す。
「押し角、三度」クリフ。
「あいよ。……ガッチリ固着しとるな。潮石と金属のサンドイッチや」
「主、《あるじ》。熱はダメ、冷やしすぎもダメですニャ」ニーヤが《薄明》の温度を生き物の体温に合わせる。
あーさんが鈴で礼を敷き、ユウキがトン、ツッ。
よっしーは緩め、締め、戻す――蝶番を“気持ちいい角度”に返す手つき。
ブラックが淡青をひと震い、泡の縫い目を一瞬だけ繋げる。
「ブラック、そこまで」ユウキが制す。カー。
輪がコトと外れた。
笛の音が止む。
潮柱の白が、ほんの少し温かい色へ変わる。
ノアの指が、かすかに動いた。
目が、ゆっくり開く。
そこに映ったのは――カイの顔だった。
「……ノア」
彼が名前を呼ぶ。潮が震える。
ノアの唇が、たしかに言った。
「……カイ?」
次の瞬間、潮柱がぐらりと傾いだ。
古い輪が抜けた反動で、溜め込まれた記憶の流れが解き放たれる。
記憶の奔流――潮が“返す”。
「受けるぞ!」ユウキが叫ぶ。「でも、誰も沈めない!」
「ダーリン! 任せるのだぞ!」
「落ち着けぇ!」よっしーが泡膜を最大展開。
あーさんの二鈴が低く輪を保ち、
ニーヤが《マリン・カーヴ》で流路をS字に、
クリフが背の押しで圧を丸め、
リンクがトトンと拍を刻む。
ブラックが最後に淡青をひと震いして、流れの縫い目を一瞬だけ留める。
「無理すんな!」ユウキ。カー。
奔流は、輪の中でほどけ、静かに磯の香りへ還った。
ノアはゆっくりと膝をつき、マハナが抱きとめる。
カイが駆け寄り、震える手で彼女の指を握った。
「……帰ってきた」
ノアは眩しそうに笑って、「ただいま」と言った。
◆
地上に戻ると、浜の風はやわらかかった。
村人が歓声を上げ、潮の火に小さな灯がともる。
シャナが深く頭を垂れる。「よくぞ……よくぞ」
ノアの頬に潮が光り、カイの肩が震える。
マハナは潮の杖を胸に当て、「潮が返しました」とだけ言った。
ユウキは肩のブラックを撫でる。
淡青の羽はまだ微かに温い。
「本当に、ありがとう」
カー。
短い、誇らしげな一拍。
よっしーが輪から外れた金属を眺める。「これ、作りが古いのに、信号が新しい。最近誰かが起こして使っとる」
「黒衣だけじゃない、もっと奥に指揮がいる」クリフが頷く。「風で見た影と同じ匂いだ」
マハナが空の色を見て、「潮は笑いました。けれど、遠い北で――光の潮が軋んでいます」と囁いた。
「光の潮?」
「夜の海に、凍った光の波が立つ……極北の現象。そこにも“差し込まれた拍”があるのでしょう」
ユウキは胸の風環に触れた。
風は置けた。潮も戻せた。
なら――次は、氷の“止まった拍”だ。
「行こう」
肩の上でブラックがカー、リンクが「キューイ!」と跳ね、
ニーヤが「準備ならおまかせですニャ」と胸を張る。
あーさんが二鈴を合わせ、「旅は、拍をつないで進むものにございますね」。
よっしーが笑う。「せやな。ほな、その前に——昼寝や。海の前で一眠りしてから行こ」
「ダーリン! 寝るのだぞー!」
「誰が合図出した! ……って、合ってるけども!」
笑いが浜に満ち、風鈴がそれに和して鳴る。
潮は覚え、風は笑い、拍は次の方角を示した。
――北極の空に、薄い光の波が立ち始めている。
(つづく)




