南群諸島篇 その一 潮鳴りの島ティルタ
夜の沖—潮の唄が止むとき
――夜明け前。
潮環礁ティルタの沖は、すべてが青と黒のあいだにあった。
波は低く、月は丸く、風は息をひそめ、貝殻の灯だけが小舟のへさきを揺らしている。
「聴こえる?」
少女ノアが、髪の塩を耳に払って笑う。
「この拍。潮が心臓みたいに、トン、ツッって鳴ってる」
「潮鳴りの唄だよ」
青年カイは舟の櫂を置き、空を見上げる。
「昔から、願いごとを潮に流すと叶うって、婆さまが言ってた。……だから今日、言おうと思って――」
「内緒」
ノアが人差し指を唇に当てる。「願いは、潮とふたりの秘密」
二人の笑い声が、月光に薄く溶けた、その時だった。
……潮の唄が止んだ。
風の乳白が一度だけ逆立ち、舟底を叩く。
水面の下で、何かが光る。
ノアの貝ランプがふわりと浮き、青い輪が暗闇に沈む。
「いまの、なに――」
言い終わる前に、海が割れた。
バシャァァン!
舟がひっくり返り、空と海が入れ替わる。
カイはもつれた足で水面へ出、息を吸い込んだ瞬間、視界の端を歯の列が横切った。
月の破片が刃に乗って走る。
ノアの手が水の中で伸び、何かに引かれて――
「ノアぁぁぁっ!」
叫びと同時、泡が紅に染まる。
冷たい潮の拍が一拍だけ跳ね、それから沈黙に落ちた。
……潮が、誰かを“喰った”。
1.朝と音楽と、偶然のSOS
――朝。
同じ海は人が変わったみたいに明るく、いそいそと南風を走らせていた。
航行艇モードのトレノ号が、青の上を滑る。
タッチパネルから弾けるのは、Miami Sound Machine “Conga”。
陽光とラテンのビートが、船上ディスコを作る。
「南国〜! ええなぁ〜!」
よっしーが舵を切りながら肩でリズムをとる。
「主、《あるじ》。体が勝手に動くですニャ!」
ニーヤが足先でトン、ツッ。
「ダーリン! 踊るのだぞー!」
「だから舵は誰が取るんだよ!」ユウキが笑い、ベルトを締め直す。
ブラックは窓辺で翼を広げ、潮風を掴む。淡青の羽根に細い光が宿っていた。
ミカの通信が**ザザ……**と入り、ユウキは表示をのぞき込む。
『トレノ号、付近海域で短いSOSパルス。識別はティルタ族の簡易ビーコン。座標送信』
「よっしー、針路、二度右」
「了解。……ほんまにあるで、漂流物。――誰か、しがみついとる!」
視界の向こう、壊れた小舟の板切れに若い男がしがみついていた。
顔半分が血で染まり、片腕は力なく垂れている。
「生体反応、ひと」
あーさんが二鈴を胸元に揃え、小さく鳴らす。チリン。
「……まだ間に合いますわ」
その下、青の深みに影が回る。
長い胴、巨大な尾。水が重くうなり、音のない唸りが体を叩く。
「主、《あるじ》! でっかいの、来るですニャ!」
「リーフシャーク……いや、それより悪い。潮に魔素を帯びてる」クリフが舳先をにらむ。
「非致死・ほどほどで」ユウキは短刀に指を添える。「――墜とさず、返すだけだ」
「任せぇ!」
よっしーがリングコマンドを回す。「バリア・フロート展開! 波、押さえ込むで!」
空色の膜が海面に走り、漂流者の周囲の波がふっと低くなる。
同時に、ニーヤが杖先で輪を描いた。
「《マリン・カーヴ》!」
潮の筋がなだらかなS字に曲がり、迫る影の軌道が半拍ずらされる。
「ダーリン! 行くのだぞ!」
ルフィがハッチから身を投げ、影の前でボコンと水柱を上げた。
広げた両腕、力は抜いて、コン、コンと相手の鼻先を軽くノック。
「おとなしくするのだぞー!」
影がわずかに軌道を逸らし、そこでユウキの“置いた拍”がはまった。
「――ッ!」
ユウキはイシュナールの刃を水に触れさせるだけで滑らせる。切らない、押さない、ただ撫でる。
刃の周りに静かな渦が生まれ、魔素の棘が絡みを解かれるみたいにほどけていく。
クリフが守律剣の背で潮圧の角度を押し直す。
あーさんの二鈴がチリン、チリリン――海流の蝶番ができ、影は本能のまま深みへ退いた。
泡が静まる。
ユウキは息を吐き、よっしーが漂流者をフックで引き上げた。
「大丈夫か!」
若者は海水を吐き、かすれ声でつぶやく。
「……ノアが……彼女が……海に……」
瞳はまだ闇に捕まっている。
「落ち着いて。今は君を戻す」
あーさんが額を撫で、ニーヤが体温を守る薄い《霧息》を置く。
ガガが手を握り、「だいじょうぶダゾ!」と胸を張った。
ブラックがカーと短く鳴き、肩で風を送る。淡青の羽根が、少年の呼吸に拍を合わせた。
「村へ運ぼ」
よっしーが舵を切る。「座標、最寄りの集落な」
『ティルタ南湾、潮風の村。接岸桟橋の許可降りました』ミカが誘導する。
「ノア、ね」ユウキは海をふり返る。「……海が、返してくれますように」
2.潮風の村と、昼の塩味
潮風の村は、珊瑚で組まれた白い家並みが緩やかな弧を描く、美しい場所だった。
貝の風鈴がどこでも鳴り、干した海草の匂いが日差しと混ざる。
桟橋にトレノ号が着くと、潮布の上着を来た青年たちがわっと集まってくる。
「カイ!」
抱き起こされた若者は、かろうじて笑ってみせた。
「……帰った」
「よく戻った」老人が頷く。「……ワシが村長のシャナ。旅の人、礼を言わせてくれ」
「ウチらは通りすがりや」よっしーが帽子を軽く上げる。「困っとる人は見過ごせん、ただそれだけや」
「主、《あるじ》。拍を置いただけですニャ」ニーヤが杖を抱きなおす。
「……拍、か」シャナがその言葉を噛みしめるように言った。「よい言葉だ。潮は拍を好む」
村長の案内で、みなが浜の食堂へ招かれた。
焼き魚の串、海葡萄のサラダ、ココナッツの水。
ルフィはすでに三本目の串を片手に「ダーリン! うまいのだぞー!」
「お前、骨も食うな!」
「ふむ、骨はカルシウムだ」クリフが真顔でかじり、ニーヤが「やめるですニャ」と眉をひそめる。
あーさんは店の老婆に丁寧に頭を下げ、礼式を学ぶ。
「潮へは右手で。音を立てずに、真ん中へ置く。……覚えましたわ」
ガガは子どもたちと砂浜へ飛び出し、貝殻を並べて拍を打つ。「ラ、ラ、ラゾ!」
ブラックは屋根の梁で風の糸をたぐり、淡青の羽根をひと撫で、カーと短く鳴いた。
やがて落ち着いたころ、シャナが静かに切り出す。
「……昨夜も、潮が誰かを連れていった」
視線がカイに落ちる。
「ノアという娘だ。潮は彼女をまだ手放していない。巫女様がそう言った」
「巫女?」ユウキが身を乗り出す。
「潮の巫女マハナ様。岬の神殿にこもり、潮の狂いを鎮めておられる。近頃、潮の唄が狂ってね。……村の者には、低い笛のように聴こえる」
低い笛。
ユウキとよっしーが顔を見合わせる。
「風でもあったな」
「空でも地下でも、同じ“差し込まれた拍”や」よっしーが短く言う。「ここも誰かが、潮に無理な音を差し込んどる」
「巫女に会わせてください」ユウキが言う。
「願いは分かるが、儀礼は必要だ」シャナは首を横に振り、「今夜、潮の火を囲み、潮へ願いを流す。その祈りが受け入れられたら、明朝、巫女の使いが来る」
「承知」クリフが頷く。「理にかなっている。潮の家には潮の秩序がある」
昼下がり、ユウキたちは村のあちこちを歩いた。
風鈴が鳴り、槍を磨く老漁師が、ニーヤに古い話をしてくれる。
「潮はなぁ、忘れんのだ。おめえさんの杖が鳴らした拍も、潮はきっと覚えとる」
「うれしいですニャ……海はやさしい」
ユウキは浜辺でイシュナールの鞘をトン、ツッ。
波がほんの少し、音を変えた。
――覚えた、という返事に聴こえた。
3.夜の潮鳴り――火を囲む輪
太陽が赤く沈み、浜に潮の火が点った。
村人たちは輪になり、それぞれの願いを貝殻に託す。
シャナが静かに口を開いた。
「潮よ、今日も誰も喰うな。返してくれ。……返すべきものだけを、返してくれ」
ルフィは首をかしげ、「潮もお腹すくのだぞ?」
「食うことと奪うことは違う」よっしーが笑って頭をぽんと叩く。「今は“返す”時間や」
あーさんが二鈴をチリン、チリリンと合わせ、ユウキが鞘拍をトン、ツッ。
ニーヤが《薄明》を火の周縁に置き、クリフが剣の背で丸い“押し”を輪に繋ぐ。
ブラックが淡青の羽根を震わせ、カーとひと声、夜風の蝶番を縫った。
その時だ。
海の暗がりから、低い笛が忍び込んだ。
自然の潮鳴りではない、どこか角張った、差し込まれた拍。
ユウキの背を冷たいものが走る。
「来たな……」
「主、《あるじ》。東の岬のほうですニャ」
シャナが顔を強張らせる。「巫女様の神殿がある方角だ」
笛は長くは続かず、すぐに風にちぎられて消えた。
しかし、潮の拍は一段、重くなる。
――潮が、何かを“忘れさせられている”。
「明朝まで待とう」クリフが低い声で言う。「秩序を踏み外すな。潮の家では、潮に従う」
「……そうだな」ユウキはうなずき、火の輪へ視線を戻した。
火の向こう、カイが貝殻を抱きしめる。
ノアの名を、潮に流すために。
4.翌朝――巫女の招き
東の空が白み、波頭が小さな金の歯を並べ始めた頃。
潮風を切って、二人の若者が村に駆け込んだ。
潮衣の青が朝日に濡れ、胸には珊瑚の印。
「村長! 巫女様が――」
息を切らせた使者が膝をつく。「“潮を鎮めた者たち”に会いたい、と」
輪がざわめく。シャナはゆっくり頷き、ユウキたちに向き直った。
「潮はお前たちを試して、受け入れた。……行こう。岬の神殿へ」
浜を渡る朝の道。
潮は昨日より柔らかく、けれど奥の方でまだ低い笛がくすぶっている。
ブラックが肩の上で羽根を震わせ、カーと短く鳴いた。
「大丈夫だ。無理はさせない」ユウキが小声で言うと、淡青は安心のようにひときわ光った。
岬の突端、白い石段の上。
海に向かって開いた半円の神殿が、波と風を招くかたちで建っている。
潮の杖が二本、入口に交差して立てられ、貝の風鈴が低く鳴る。
石段を上がりきった先――
波間と陸との境に、一人の少女が立っていた。
褐色の肌に潮の刺青、瞳は海の色。
胸元には白珊瑚の輪。
彼女は、足首を洗う波に微笑み、ゆっくり振り向いた。
「ようこそ、潮環礁ティルタへ」
声は、潮の引く音のように柔らかい。
「潮があなたたちを呼びました。……マハナと申します」
ユウキは、深く一礼した。
「相良ユウキ。――潮の拍を、鳴らさず置きに来ました」
マハナの目が、たしかに光る。
彼女は静かに頷き、潮の杖を胸に当てた。
「海が忘れかけた“歌”を、取り戻しに行きましょう。
まず、昨夜の娘――ノアを、潮から返してもらわなければ」
岬に、波が高く打った。
潮鳴りが、確かに応えた。
――――――――――
つづく:南群諸島篇 その二 潮の記憶
巫女マハナの導きで、ユウキたちは岬下の潮窟へ。
潮は覚え、命を返す。だが“差し込まれた拍”が、その記憶を蝕んでいた――
非致死・ほどほどの“海の鎮撫”が、いま始まる。




