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黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


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北光極篇・その三 静音街の子ら

世に秩序というものは、ひとを和し、暮らしを整えるためにあります。

 しかしときに、秩序は拍をも奪います。

 たとえば――呼吸の深さを揃え、歩みの幅を揃え、笑みの角度までも揃えさせるとき。

 そこには調和はあれど、生が欠ける。

 わたくしは、礼の人でありたい。けれど、礼とは、誰かの声を沈めるための蓋ではございません。

 礼とは、声が帰る道を守ること――

 そう教えてくれたのは、主上あるじと皆さまの拍でございました。




 朝の光が氷壁をめぐり、銀の輪が通りに落ちる。

 宿「雪ノ鈴」の炉は静かに燃え、女将が温い茶を差し出した。


「気をつけてお行き」

「おおきに」よっしーが帽子を押さえる。

 ユウキさまは窓辺の霜に指でトン、ツッと軽く拍を置き、皆で頷き合った。


 向かうは旧導管。

 女将が地図の余白に描いた点線をなぞり、回廊の陰へ。

 ニーヤさんが耳を立てる。「低い笛、今はお休みですニャ。今のうちに」

 ブラックが淡青の羽根をふるり、カーと短く鳴く。リンクが「キューイ」と跳ねて、いつもの輪が整った。


 旧導管の入口は、氷結樹の根の下、黒ずんだ鉄の蓋でふさがれていた。

 よっしーが腰の工具を軽く鳴らす。「押し角三度、締め戻し二分の一――」

 クリフがそっとユウキさまの肩を軽く叩く。「息を忘れるな。二息で入る」

「了解」


 蓋がコトと緩んだ瞬間、冷気が肺を刺し、遠くの方で誰かの靴音が一拍鳴る――が、すぐに吸われる。

 わたくしは二鈴を胸に当て、ひとつだけ礼を置いた。チリン。

 道は、礼に応えて、狭いが確かな暗さを開いた。



 旧導管は、かつて光を運び、今は音を運ぶ。

 壁に刻まれた溝は凍り、ところどころに“新しい金具”が打ち込まれている。

 ニーヤさんが囁く。「ここ……後から“差し込む”ために改造されてますニャ」

「方向は北塔の地下」クリフが指で霜を払う。「流路を合わせず、押しで通している。雑だが、速い」

 よっしーが舌を打つ。「近道にしては手荒いで。音は折れるし、人も折れる」


 四つ角に差し掛かるたび、わたくしは三度鈴を鳴らすことを控え、一度だけ短く音を置いた。

 女将の言葉――鳴らしすぎれば嗅ぎつけられる――が、背中を正す。

 ユウキさまは《氷鳴子》を手に、継ぎ目へトと薄い拍を差し入れては足場を作る。

 ブラックの羽が一瞬だけ縫い、リンクの小さな足がトトンと合図を返す。

 それは、まるで“見えない橋”を敷いて渡る旅でございました。



 やがて、導管の底に柵が現れた。

 鉄に氷が絡み、札には「教育棟 補助動線」と書かれている。

 教育棟――なんと柔らかな言葉でしょう。

 門を押し開けると、長い廊下の両側に小さな部屋が連なっている。

 窓はなく、代わりに天井から“合図音”が規則正しく落ちる。

 そのたびに、部屋の中の子どもたちが、同じ角度で首を上げ、同じ角度で首を下げる。


「……拍を均しておる」クリフの声が低く落ちる。

「主、《あるじ》。匂いが薄いですニャ」ニーヤさんが眉を寄せる。「涙の匂いも、汗も、消されてますニャ」

 よっしーが歯噛みする。「なんやねん、この“優しい地獄”は」

「言葉を選んでおりますのよ」わたくしは自分の声が震えぬよう、二鈴を握り直した。「“教育”“補助”“均し”。どれも、ひとの心を撫でる言葉……ですが」


 片方の部屋で、ひとりの少女が目を瞬かせた。

 年の頃はガガさまより少し上か。首元に小さな鈴が下がっている。

 しかしその鈴は、鳴らない。

 少女は合図音に合わせて手を動かし、紙に丸を書いては消す。

 丸の大きさは、合図音に決められているようだった。


「……合図が強くなる」ユウキさまの声。

 天井の管が震え、ぅ゛と低い笛が廊下に広がる。

 別の部屋で、少年が立ち上がりかけ――膝が折れ、椅子に戻る。

 その動作も、同じ角度。

 わたくしは胸がひやりとし、二鈴をチリンと短く鳴らした。

 音は床をなで、壁を撫で、子らの指先で止まる。

 合図音が、わずかに迷う。


「今や」よっしーが壁際へ滑る。

 ユウキさまは《氷鳴子》を天井の継ぎ目へ――ト。

 ニーヤさんが《薄明》を管の内側に置き、クリフが背の押しで床の傾斜を整える。

 ブラックの羽がひと震いだけ縫い、リンクが「キューイ」と拍の標を置く。

 合図音が一拍、遅れる。

 その隙に、わたくしは礼を足した。

「お帰りなさい――ここは、あなたの家ではありません」


 鈴の少女が、こちらを見た。

 目は不思議なほど澄み、けれど音が薄かった。

 彼女の鈴は鳴らない。鳴らぬように、ひもが固く結ばれている。

 女将の鈴と同じ意匠――かつて、街に満ちていた帰りの音。



「だれ?」少女が口を開く。

合図音が、すぐにその声を均そうとする。

ユウキさまのトン、ツッがそれを先回りし、少女の前に薄い空気の手を差し出した。

「通りすがり。――返しに来た」

少女の目がほのかに揺れ、縋るように頷く。

彼女の鈴のひもに、わたくしは二鈴の礼をやさしく置いた。

「許しを。結び目だけ、ほどかせて」


氷の街では、音は単なる響きではなく、“心の向き”そのものを縛る位相の鎖にございます。

合図音に合わせて人が動くとき、ひとつの拍へ揃う代わりに、自由な音は“誤差”として凍りつく。

この子の鈴も、その均しの位相で固められておりました。

正面から力を加えれば、共鳴してさらに締まる。

ですから、わたくしは半拍ずらして音を置くことにしたのです。

拍を外せば、鎖の“山”と“谷”が噛み合わず、音の結び目が自然にゆるむ。


わたくしは二鈴をチリンと鳴らし、半歩退く。

ユウキさまがト。ニーヤさんが《薄明》。ブラックが羽で一針。リンクが「キュ」と短く足を打って標。

拍が交わるたび、音の鎖目がひとつずつ外れていく。

――ほどけた。

鈴が、かすかに鳴った。り。


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