北光極篇・その三 静音街の子ら
世に秩序というものは、ひとを和し、暮らしを整えるためにあります。
しかしときに、秩序は拍をも奪います。
たとえば――呼吸の深さを揃え、歩みの幅を揃え、笑みの角度までも揃えさせるとき。
そこには調和はあれど、生が欠ける。
わたくしは、礼の人でありたい。けれど、礼とは、誰かの声を沈めるための蓋ではございません。
礼とは、声が帰る道を守ること――
そう教えてくれたのは、主上と皆さまの拍でございました。
朝の光が氷壁をめぐり、銀の輪が通りに落ちる。
宿「雪ノ鈴」の炉は静かに燃え、女将が温い茶を差し出した。
「気をつけてお行き」
「おおきに」よっしーが帽子を押さえる。
ユウキさまは窓辺の霜に指でトン、ツッと軽く拍を置き、皆で頷き合った。
向かうは旧導管。
女将が地図の余白に描いた点線をなぞり、回廊の陰へ。
ニーヤさんが耳を立てる。「低い笛、今はお休みですニャ。今のうちに」
ブラックが淡青の羽根をふるり、カーと短く鳴く。リンクが「キューイ」と跳ねて、いつもの輪が整った。
旧導管の入口は、氷結樹の根の下、黒ずんだ鉄の蓋でふさがれていた。
よっしーが腰の工具を軽く鳴らす。「押し角三度、締め戻し二分の一――」
クリフがそっとユウキさまの肩を軽く叩く。「息を忘れるな。二息で入る」
「了解」
蓋がコトと緩んだ瞬間、冷気が肺を刺し、遠くの方で誰かの靴音が一拍鳴る――が、すぐに吸われる。
わたくしは二鈴を胸に当て、ひとつだけ礼を置いた。チリン。
道は、礼に応えて、狭いが確かな暗さを開いた。
◆
旧導管は、かつて光を運び、今は音を運ぶ。
壁に刻まれた溝は凍り、ところどころに“新しい金具”が打ち込まれている。
ニーヤさんが囁く。「ここ……後から“差し込む”ために改造されてますニャ」
「方向は北塔の地下」クリフが指で霜を払う。「流路を合わせず、押しで通している。雑だが、速い」
よっしーが舌を打つ。「近道にしては手荒いで。音は折れるし、人も折れる」
四つ角に差し掛かるたび、わたくしは三度鈴を鳴らすことを控え、一度だけ短く音を置いた。
女将の言葉――鳴らしすぎれば嗅ぎつけられる――が、背中を正す。
ユウキさまは《氷鳴子》を手に、継ぎ目へトと薄い拍を差し入れては足場を作る。
ブラックの羽が一瞬だけ縫い、リンクの小さな足がトトンと合図を返す。
それは、まるで“見えない橋”を敷いて渡る旅でございました。
◆
やがて、導管の底に柵が現れた。
鉄に氷が絡み、札には「教育棟 補助動線」と書かれている。
教育棟――なんと柔らかな言葉でしょう。
門を押し開けると、長い廊下の両側に小さな部屋が連なっている。
窓はなく、代わりに天井から“合図音”が規則正しく落ちる。
そのたびに、部屋の中の子どもたちが、同じ角度で首を上げ、同じ角度で首を下げる。
「……拍を均しておる」クリフの声が低く落ちる。
「主、《あるじ》。匂いが薄いですニャ」ニーヤさんが眉を寄せる。「涙の匂いも、汗も、消されてますニャ」
よっしーが歯噛みする。「なんやねん、この“優しい地獄”は」
「言葉を選んでおりますのよ」わたくしは自分の声が震えぬよう、二鈴を握り直した。「“教育”“補助”“均し”。どれも、ひとの心を撫でる言葉……ですが」
片方の部屋で、ひとりの少女が目を瞬かせた。
年の頃はガガさまより少し上か。首元に小さな鈴が下がっている。
しかしその鈴は、鳴らない。
少女は合図音に合わせて手を動かし、紙に丸を書いては消す。
丸の大きさは、合図音に決められているようだった。
「……合図が強くなる」ユウキさまの声。
天井の管が震え、ぅ゛と低い笛が廊下に広がる。
別の部屋で、少年が立ち上がりかけ――膝が折れ、椅子に戻る。
その動作も、同じ角度。
わたくしは胸がひやりとし、二鈴をチリンと短く鳴らした。
音は床をなで、壁を撫で、子らの指先で止まる。
合図音が、わずかに迷う。
「今や」よっしーが壁際へ滑る。
ユウキさまは《氷鳴子》を天井の継ぎ目へ――ト。
ニーヤさんが《薄明》を管の内側に置き、クリフが背の押しで床の傾斜を整える。
ブラックの羽がひと震いだけ縫い、リンクが「キューイ」と拍の標を置く。
合図音が一拍、遅れる。
その隙に、わたくしは礼を足した。
「お帰りなさい――ここは、あなたの家ではありません」
鈴の少女が、こちらを見た。
目は不思議なほど澄み、けれど音が薄かった。
彼女の鈴は鳴らない。鳴らぬように、ひもが固く結ばれている。
女将の鈴と同じ意匠――かつて、街に満ちていた帰りの音。
⸻
「だれ?」少女が口を開く。
合図音が、すぐにその声を均そうとする。
ユウキさまのトン、ツッがそれを先回りし、少女の前に薄い空気の手を差し出した。
「通りすがり。――返しに来た」
少女の目がほのかに揺れ、縋るように頷く。
彼女の鈴のひもに、わたくしは二鈴の礼をやさしく置いた。
「許しを。結び目だけ、ほどかせて」
氷の街では、音は単なる響きではなく、“心の向き”そのものを縛る位相の鎖にございます。
合図音に合わせて人が動くとき、ひとつの拍へ揃う代わりに、自由な音は“誤差”として凍りつく。
この子の鈴も、その均しの位相で固められておりました。
正面から力を加えれば、共鳴してさらに締まる。
ですから、わたくしは半拍ずらして音を置くことにしたのです。
拍を外せば、鎖の“山”と“谷”が噛み合わず、音の結び目が自然にゆるむ。
わたくしは二鈴をチリンと鳴らし、半歩退く。
ユウキさまがト。ニーヤさんが《薄明》。ブラックが羽で一針。リンクが「キュ」と短く足を打って標。
拍が交わるたび、音の鎖目がひとつずつ外れていく。
――ほどけた。
鈴が、かすかに鳴った。り。




