風神の秘宝篇 その一 風鳴きの都《ウィンドフォール》
――空は思っていたより、うるさかった。
風の層が幾段にも重なって、目には見えない川が空に流れている。トレノ号の浮遊コイルが淡く唸り、翼代わりのフラップが細かく角度を変えるたび、耳の奥に小さな“キン”が刺さった。
ユウキはシートに背を預け、窓の外を見た。風は、雲の影を運ぶ。雲は、人の心を運ぶ。
「高度、安定。空中モード良好や」
よっしーがタッチパネルに指を走らせる。リングコマンドが幾つも回転し、画面上の機体シルエットがしなやかに姿勢を変えた。
「風圧分散を右に二度。……ふむ、ようできとる」
「ミカの子、よい道具をこしらえましたわね」
あーさんが後席の丸窓から身を乗り出し、流れる雲を眺める。「空の拍が……目に見えるようでございます」
「主、《あるじ》。この層、風の匂いがちょっと辛いですニャ」
ニーヤが鼻先をくんくんさせる。「乾いてて、速い」
「だいじょうぶなのだぞ!!」
ルフィは安全ベルトにぶら下がるようにして、両腕をひろげた。「ダーリン! 風の歌が聴こえるのだぞ!」
「落ちるなって」ユウキがベルトを引っぱると、ルフィは嬉しそうにさらに体を伸ばした。
「ガガ、空、速いダゾ!」
後部座席でガガが跳ねる。リンクが背凭れの上でバネのように弾み、二段ジャンプの予備動作を入念に繰り返した。「キューイ!」
白いカラスのブラックは窓枠にとまり、風の針を一本、車内へ小さく差し込む。カー。
「ありがと、温度下がった」ユウキが喉を鳴らす。「……空気、うまいな」
クリフは座席で目を閉じ、呼吸を整えていた。
「……ふむ。風は剣より速い。だが、一定だ」
ぽん、と隣のユウキの肩を軽く叩く。「拍を合わせれば怖くない」
「了解。……拍、合わせる」
トレノ号は風の筋に乗るように滑り、翼の影が下の雲海に揺れた。かなたに山脈が見え、その山脈の溝から、巨大な白い柱のような風が立ち上がっている。あれが――ウィンドフォール。
風車群が、丘を覆い尽くすほど林立しているはずの街。塔の上には音管のような筒が立ち、風が抜けると“歌う”のだという。
「ほな、降下……の前に」
よっしーがモニタを指で二度叩いた。
「警戒。鳥影、多数。方角、二時。……外部センサー、鳴いてるで」
ユウキは身体を伸ばした。「来たか」
雲の縁から、黒い影が三つ、五つ……十に増える。
細長い翼、尾翼に羽毛。――ハーピーだ。
風の上段を旋回し、あちらもこちらを観察している。侵入者か、遊び相手か、獲物か。
「主、《あるじ》。歌ってますニャ」ニーヤが耳を伏せる。「風で声、増幅……魅了に近いですニャ」
甘い旋律が空全体へ薄く膜を張る。頭の奥に砂糖を流し込まれたみたいに、判断が遅れる。
「非致死・ほどほど」ユウキは短く言って、仲間の顔を順に見た。「墜とさない。落とさせない。結び目だけ解く」
「任しとき。チャフ展開、無音」
よっしーの腕輪が盾へ変形し、微細粒子をほとんど音もなく拡散する。反響を吸い、魅了の面を崩す逆位相の噴流。
「あーさん、礼の輪を空に」
「承りましたわ」
二鈴冠杖《明照》が振られ、目に見えない円周が薄く空間に刻まれる。
「ニーヤ、そこに火でも氷でもない“灯り”」
「わかりましたですニャ。――《薄明》」
炎ではない、けれど暖かい。跳ねるでも凍るでもない、ただ“そこにある”光が、礼の輪に沿って灯る。
ハーピーの歌がわずかに途切れる。膜が揺らぎ、彼女たちの隊列が緩む。
「クリフ、右へ。俺は左。よっしー、機体を下げ過ぎるな――空は落差が命取りだ」
「心得た」
「了解や!」
最初の一羽が、風を鋭く蹴って突っ込んでくる。
ユウキは身を沈め、イシュナールを抜かずに柄でコツと翼の付け根――関節に軽い拍を置いた。
勢いがふっと抜け、ハーピーの軌道が少しだけ逸れる。
「ごめん、驚かせたな。……帰ってくれ」
彼女の瞳が一瞬だけこちらを見る。魅了の膜の下で、わずかに理性が揺れた。
右舷、クリフは守律剣を“押す”角度で構え、迫る個体の爪を受けて滑らせる。
「うむ。……そのまま、帰れ」
刃は鳴らない。金属同士の殺し合いではなく、ただ流路を変え、相手の“落下”だけは起こさない角度で返す。
「主、《あるじ》。一群、後方から!」
「リンク、準備!」
「キューイ!」
リンクが後部棚から背伸びして、フラップの上に飛び乗る。二段ジャンプ――空中で一度“虚空”を踏み、さらに高い位置へ。
ブラックがそれに合わせて疾風の矢をふっと吹き、リンクの着地地点に水のクッションを作る。
「見事ですニャ!」ニーヤがぱちぱちと短く拍手。
跳躍したリンクがハーピーの鼻先でくるりとサマーソルトを決め、彼女は驚いて方向を変えた。
「遊びに来たんなら、こっちは追いかけっこで返す。それがほどほどだ」
上層――リーダー格らしい一羽が、喉元を震わせて高波のような旋律を吐く。魅了の帯域が一段、上がった。
「あかん、音が強うなった!」よっしーが眉を寄せる。
「主、《あるじ》、膜が厚いですニャ」
「なら――“爆ぜる”音でなく、“置く”音で破る」
ユウキはイシュナールの鞘を指でトン、ツッ。
あーさんが二鈴をふわりと合わせ、ニーヤの《薄明》が倍音をつける。
軽く、短く、しかし揺るがない二拍が、風の層に“節”を作った。
歌が割れ、ハーピーたちの隊列が一斉にほどける。
リーダーが訝しむように首を傾げ、やがて翼を傾けて高みへ去った。
残りも、顔を見合わせるようにして、次々に風へ溶ける。
「……行ったか」
ユウキは肩の力を抜く。「ありがと。墜とさずに済んだ」
「ふむ、空の“鎮撫”は地より難しい。だが、面白い」
クリフが剣をおさめながら、少しだけ笑った。
「主、《あるじ》。ねえ、《エクスプロージョン》試したかったですニャ」
「やめろやめろ空でそれはダメだろ」
「了解ですニャ……次の地上で」
「空で爆発はアカン」よっしーが額を押さえる。「まずは着陸や」
よっしーの指がパネルに走り、トレノ号は降下姿勢へ移る。
「ウィンドフォール管制塔へ識別信号送信。……応答来たで」
『こちら風鳴き管制。異国仕様の飛行車両、登録は学園調査団で確認。着陸は風車丘三番リングに指定します。速度および高度、当方の風信号に合わせてください』
「了解。風信号、受信。……ほな、合わせてこか」
街が見えてくる。
丘という丘に巨大な風車が並び、回転する羽が朝日を切って眩しい。高い塔の上、無数の管状の装置(風管塔)が唇のように開き、風が通るたびに“ホォー”とか“キイィン”とか、いろんな高さの音を生む。
街全体が、風楽器だ。
「……きれい」
ツグリが窓に手を当てる。
あーさんがうっとりと目を細め、二鈴をそっと合わせる。チリン、チリリン。
塔群の上、何本かの風管が、鈴に合わせるように微かに音高を変えた気がした。
「ここが――風鳴きの都」
ユウキは呟いた。「風が歌ってる」
「歌いながら話しかけてくる街やな。……ちょっと怖いくらいやけど」
よっしーが汗をぬぐい、誘導灯に合わせて機体を傾ける。
「風車丘三番リング着陸……いくでぇ」
リング状の着陸台は、回転する風に合わせてわずかに角度を変えていた。トレノ号のコイルがふっと息を抜き、脚が降り、コトンと柔らかく接地する。
「ナイス着陸!」ユウキが親指を立てる。
「空の蝶番、上手く回ったですニャ」
「ふむ、よくやった」
ルフィが後部ハッチを開き、風を胸いっぱいに吸い込む。「ダーリン! ここ、好きだぞ!」
ガガは目をきらきらさせて、回る風車の群れを数え始めた。「いーち、にーい、さん……たくさんダゾ!」
リンクは着陸台の縁で軽い跳躍のリズムを取り、ブラックは風管塔の方角へカーと短く鳴いた。
出迎えは、風布のマントを羽織った役人たちだった。胸元には風紋の徽章。
「遠路ご苦労。学園調査団と聞いている。私は評議室のラショウ」
先頭の若い男が、風に髪を揺らしながら会釈する。「街に招待したいところだが――先にお詫びを。今、都は少し苛立っている」
「苛立ってる?」ユウキが首を傾げる。
「風が合わぬのだ。いつも鳴る“基音”が、どこかで揺らいでいる。風車は回るが、歌が乱れる。……風鳴きの都にとって、それは痛みに等しい」
あーさんが眉を寄せる。「拍の乱れ、でございますのね」
「拍?」ラショウが反芻するようにその言葉を口の中で転がし、やがて頷いた。「……そうだ。あなたたちの言い方が、美しい。拍が乱れている」
「原因、何か見当あります?」よっしーが肩を回す。
「二つ」ラショウの指が空に描く。
「ひとつは“高空層”の乱流。急にできた目に見えぬ風の断層だ。もうひとつは、“風管塔の基底”にある古い共鳴炉。そこから周期の合わぬ音が漏れている」
視線がトレノ号のメンバーを一人ひとり撫でて、最後にユウキで止まる。
「非致死での鎮撫ができると、王都から伝わっている。……我らは誰も傷つけたくない」
「任せて」ユウキはうなずく。「風は落とさない、塔は壊さない。――蝶番だけ回す」
ラショウの表情がすこしだけ緩んだ。「ありがとう」
評議室の案内で街へ入ると、足もとから脈打つような微振動が伝わってきた。
道の両脇では、風の糸を紡ぐ職人たちが細長い糸車を回し、風管職人がレンチで音口の角度を直している。そのたびに街のどこかの“鳴り”がほんの少し変わり、全体の響きが僅かに整う――が、すぐにまた揺れる。
乱れは街の奥、心臓へつながっている。
「にぎやかやのに、どこか“落ち着かへん”街や」
よっしーがぽつりと言う。
「主、《あるじ》。風の神経が逆立ってるですニャ。なでるといいですニャ」
「なでる風……」ユウキが笑う。「やってみよう」
中心広場に巨大な風管塔が立っていた。根元は地下へ深く潜り、骨のように幾筋もの梁が地中の共鳴炉へ繋がっている。塔のふもとに、祈祷師のような衣の老人が座していた。
ラショウが紹介する。「祭司長のソエンだ。風の子守歌を知る人」
ソエンは頷き、ユウキたちを見上げる。「遠くの音がする。……水の剣のひだりに立つ、静かな鞘音」
言葉はゆっくり、しかし正確に。
「風は怒っておるのではない。迷っておるのだ。導きを――“置く”のだ」
「置く。……わかりました」
ユウキがイシュナールに触れ、鞘を指でトン、ツッ。
あーさんが二鈴をふわり、ニーヤの《薄明》が塔の基底に“朝”を灯す。
クリフは守律剣を刀身でなく“背”で塔の梁へ押しを置き、よっしーは盾を開いて微弱な逆相を流す。
ルフィは少し離れた場所で両腕を広げ、「抱えるのだぞ。風を!」
ガガは目を閉じて、祭司長の鼻歌を真似した。「ら、ら、ラゾ……」
リンクが足もとでトトンと二段の拍を刻み、ブラックが風の針をきゅっと絞る。
塔の中を風が通り、音がわずかに変わる。
ソエンが静かに頷いた。「……いい。だが、まだ下だ。地のほうから、別の風が吹き上がっておる」
「地から風?」よっしーが首をひねる。
「共鳴炉の奥に古い風洞がある」ラショウが顔をしかめた。「最近、誰かが封鎖を解いた形跡があった。そこから、周期の合わぬ拍が出ている」
「誰が?」
ラショウは短く首を振る。「まだ掴めない。だが、風の敵は風の中に潜む。……頼めるか」
「行く」ユウキは即答した。「地下の蝶番、見てくる」
地下へ降りる通路は、風車小屋の床下から伸びていた。スパイラル状の階段を降りるごとに、冷たい流れが頬を撫でる。
深部、共鳴炉の前――古い石の門が半ば開き、暗い風が低く唸っている。
ニーヤが耳を伏せた。「……嫌な風ですニャ。誰かの指笛みたいな、押しつけの音ですニャ」
「閉じよう。――でも、鳴らさず」
ユウキが鞘拍を置く。トン、ツッ。
あーさんの二鈴がチリンと応え、クリフが“押し”の角度を扉に与え、よっしーが逆相の静音を流す。
門はぎぎ、と抵抗の拍を見せたあと、しぶしぶ従うように閉じていく。
その瞬間――風が逆流した。
地の奥、別の風洞から、甲高い風切り音が突き上がる。
ハーピーたちの歌に似ているが、もっと硬い。
金属の口笛。
「伏せて!」
ユウキが叫び、ニーヤが即座に《シェルター》を立てる。
盾に見えない刃が当たり、火花の代わりに風の火が散った。
「誰かおるで」よっしーが低く言う。「この風、人工や」
「装置か――それとも、人か」クリフが目を細める。
風洞の影から、細長い影が二つ三つ、すべるように現れた。
顔を布で覆い、胸元には小さなΩの刺繍。
王都地下で遭遇した“神学研究区”の作業服に似ているが、その肩のエンブレムは風紋だ。
「作業中。立ち入り、不可」
機械的な声。
「許可は?」
「祈りにより、許可」
「はい出た、勝手許可」よっしーが肩を竦める。「話、通じへん系やな」
彼らは風笛のような器具を構え、口元へ当てる。その瞬間、空気が刃になる。
ソエンの言った“別の風”――差し込まれた拍だ。
「非致死・ほどほど。――口を奪う」
ユウキが床を踏む。トン、ツッ。
礼の輪が狭い通路に敷かれ、ニーヤの《薄明》が器具の内側に“朝”を置く。
よっしーの無音チャフが管の共鳴をずらし、クリフの“押し”が関節の角度だけを変える。
口笛は音を失い、風はただの風に戻った。
男たちは抵抗するでもなく、淡々と別の笛を取り出す。
冷たい。
命令に拍がない――矯正だ。
「……やっぱり、同じ連中ですニャ」ニーヤが低く唸る。
「眠ってて」
ユウキは一歩踏み出し、柄で喉元の蝶番を軽く叩く。
呼吸がふっと緩み、男は力なく座り込んだ。他の数名も同様に“ほどかれ”、床に横たわる。
「祭司長に引き渡そう」
共鳴炉の脇に、古い風洞が口を開けていた。中は狭く、斜めに続いている。
「ここや。下に“風の鍵”がある」よっしーがヘッドライトを点ける。
「鍵穴じゃなく蝶番を」ユウキが笑って、狭い通路へ身を滑らせた。
風洞の底は、小さな空洞になっていた。
床に据え付けられた風環――古代の回転装置が、半ば錆び、半ば誰かの手でこじ開けられている。
一定の角度からしか回せないはずの“蝶番”が、無理にこじられて歪んでいた。
「痛かったやろな……」よっしーがレンチを取り出す。
「直せる?」
「回るもんは直る。回らんとこを回してただけや」
クリフがひと息で状況を把握する。「押しの角度は三度。……あーさん、礼を」
「はい。音を立てずに、真ん中へ」
二鈴が空洞に輪郭を描く。
ニーヤが《薄明》を置き、ユウキがトン、ツッ――
よっしーが緩め、締め、戻す。
ほんのわずか、蝶番が気持ちよく鳴る角度に帰った。
風が柔らかくなった。
上の方で、街の風管塔の歌がひとつ、正しい高さに戻る。
次の瞬間、別の塔が追随し、さらに別の塔が応える。
風が――笑った。
「戻った、のですニャ?」
「あぁ。まだ全部じゃないが、基音が帰ってきた」ユウキが息を吐く。
クリフが鞘を軽く叩く。「……よし。上がろう」
地表へ出ると、風の街は明らかに呼吸を変えていた。
風車の回転音が落ち着き、風管塔の音が散らからない。広場で祭司長が子守歌をうたい、子どもたちが手を繋いで輪になっている。
ラショウが駆け寄った。「どうだ?」
「蝶番を直した。地下の“差し込まれた拍”はほぼ止まった。ただ――」
ユウキは顔を上げ、空を指す。「**上**がまだだ」
高空層。
見えない断層が、陽光の筋にうっすら線を引いている。
ニーヤが目を細めた。「風の薄皮、剥がれてますニャ」
「空戦、第二幕、やな」よっしーがトレノ号を振り返る。「テスト飛行、本番突入や」
そのとき、風の都のはるか外輪で、長い影が走った。
山脈の稜線をなぞるように、巨大な風の鰭が空を切る。
ハーピーの女王ではない。
翼竜でもない。
もっと速く、もっと薄く――風そのものが形を取ったみたいな巨影。
ルフィが吸い込まれるように一歩出た。「ダーリン……」
ソエンの顔色がわずかに変わる。「……古い名で呼べば、“ガルーダ”」
ユウキとよっしーとクリフの視線が合う。
言葉はいらなかった。
「非致死・ほどほど」
それだけ。
トレノ号のドアが開く。
翼のように展開するフラップ、リングコマンドが一斉に点灯。
ニーヤが杖を抱き、あーさんが二鈴を握り、ルフィが後ろから抱える準備を整える。
ガガはソーダ瓶を祭司長に預けて、胸を張る。「ガガ、行くダゾ!」
ブラックが空へ舞い、リンクが背でトン、ツッ。
風が、彼らを迎えに来る。
街の風管塔が低く鳴り、風車群が一斉に拍を揃えた。
ユウキは窓の外、遠い青の断層を見つめる。
(鳴らさない。置くだけだ――風にも、歌を)
「いくぞ」
「おう」
「はいですニャ」
「承知いたしましたの」
「ダーリン!」
――トレノ号、上昇。
風鳴きの都の空が、第二の章を開く。
(つづく)




