王都地上編・その二 着陸 ― 街の拍を拾いながら
雲を抜けると、王都はまるで朝露を含んだ楽器のように光っていた。塔の尖塔群がやわらかい陽を受け、白と金の面が順番に瞬く。空路の目印となる風標旗がゆっくり風を裂き、下層の市場通りはすでに人の波で揺れている。
「進入路、開放。王都・西端滑空レーンに入るでぇ」よっしーが指でリングUIを撫でた。「管制、聞こえるかー。トレノ号、ふわっと行くさかい、石投げんといてや!」
『こちら王都空管。……投げません。歓迎します』
乾いた声に、車内がクスッと笑った。
Toy Boyのベースが小さくなり、最後のサビが空へ溶けていく。ユウキは窓から覗く街の輪郭を目で追い、胸の奥でひとつ呼吸の拍を置いた。塔の光はもう見えない。代わりに、地上のざわめきが足元からせり上がってくる。
「うわぁ……お店、いっぱい」ガガが鼻をひくつかせる。「ラーメンの匂いは……しないダゾ」
「今日は静穏食じゃないからな。油とパンと、焼いた魚の匂いや」よっしーが笑う。
「主、《あるじ》。あれ、焼き菓子ですニャ。猫にも優しい甘さの匂い……」ニーヤが尻尾をゆさゆさ。
「ふむ。街の拍は安定しておる。嵐の層を越えた後にしては、驚くほど澄んだ風だ」クリフが目を細めた。
「宿は決めてございます」あーさんがそっと二鈴を握り、「鐘鳴らさず泊まれる“静の宿”――王都では名が通っておりますの」
「静穏ルール……よっしゃ、うちら向けや」よっしーが満足げに頷き、トレノ号は羽根を畳むように高度を落とした。石畳が近づき、風の抵抗が軽くなる。ブラックが先に降りて「カー」と一声、周囲の風拍を撫でる。リンクが“キュイ”と二段で足場を踏み、ふわりと舗道に着地した。
――着陸。衝撃、ほぼゼロ。
「ナイス着地!」ユウキが親指を立てると、よっしーがサングラス越しにウィンクした。「ほれみぃ。1989式・空陸両用は伊達やない」
宿は通りから半刻ほど。裏路地の奥、蔦が絡む灰白の建物だった。看板の金文字は擦れているが、扉枠は磨かれ、取手は手の温度を覚えているみたいにやわらかい。出迎えた女将が一礼し、囁くように言った。
「鳴らさず、お入りを」
ユウキたちは靴音を短く、呼吸を合わせて廊下を進む。部屋は広くはないが、天井の梁に小さな風鈴がいくつも吊られ、そのどれもが音を鳴らさないように結び目で止められている。静けさのための飾り。街の礼の形。
「ええ宿や」よっしーが布団を軽く叩こうとして、ニーヤに尻尾で止められた。「ダーリン、騒ぎすぎはダメですニャ」
「はいはい。ほどほどや」
荷を下ろすと、女将が薄い茶を持ってきた。藍灰の湯気が立つ。ユウキはカップを両手で包んで一口。温度も香りも、塔の茶とは違う。もっと土の匂いがする。人の暮らしの湿り。
「落ち着くな」ユウキが呟くと、クリフが頷く。「地上は、音の在り処が分かりやすい。剣の稽古もここなら捗る」
「やるん?」よっしーが眉を上げる。
「うむ。少し体を動かしたい。……おぬしも来るか?」
「今日は勘弁や。胃袋が踊り疲れとる」
「踊り疲れ……昨日のダンステリアですニャ」ニーヤがくすっと笑う。
少し休んで、昼どき。街へ出る。宿の前の石畳は陽で白く、氷菓子の露店の前で子どもたちが跳ねていた。リンクがそれに合わせて“トン、ツッ”と足拍を刻むと、子どもたちは同じリズムで笑い、やがてリンクの真似をして二段跳びに挑戦し始める。ブラックが街灯の上からそれを見守り、時折、風を撫でて転ばぬよう支える。
「なんや、王都の昼は平和やなぁ」よっしーが伸びをした。
「平和はよいことですけれど……」あーさんが目を細める。「通りの端で、少しずつ拍が乱れておりますわ」
「え?」ユウキは耳に意識を寄せる。人の声、車輪の音、パン屋の鈴。合間に――かすかな逆拍。石の奥、縫い目の方から、ひと呼吸遅れて返ってくるような。耳の端をむずむずと掠める感触。
説明するほどの騒ぎではない。けれど、消えない。
「気のせい……じゃないよな」ユウキはこめかみに触れた。
「主、《あるじ》。塔の層で覚えた拍じゃないですニャ。地の音」ニーヤの目が細くなる。「石脈が、ちょっと緊張してる」
「ふむ。王都は大地の上に塔の真似事をしておるが、真似は真似だ。どこかに継ぎ目の緩みがあるのやもしれぬ」クリフが路地を見渡した。
「腹、減ったー!」横からルフィが両手を上げた。「ダーリン、肉! 串! 焼け!」
「お前はいつも腹減っとるな」よっしーが笑って、結局、露店で焼き串を人数分買った。香ばしい匂いが鼻に侵入する。ガガがひと口齧って「アツイ……オイシイ……!」と目を輝かせる。ニーヤは少しだけ頬を染め、尻尾をふわり。
平和な昼は、よく人を安心させる。ユウキの胸の奥にへばりついていた固い緊張が、少し溶けた気がした。ミカの声が遠く、塔の方角から思い出のように浮かぶ。Toy Boyの軽いサビが、脳裏でワンフレーズだけ跳ねる。
(太一さん。俺、ちゃんと笑えてるよ)
――そのときだ。
通りの外れ、石の下でひとつ、乾いた拍が裏返った。ユウキは無意識に鞘へ触れていた。《静穏環刀イシュナール》。抜かない。鞘越しに“トン、ツッ”。打ち消すほどでもない。探るだけ。
「ユウキ?」よっしーが顔を上げる。
「……何か、地面が一瞬だけ逆に鳴った。気のせいだといいけど」
「あいにく耳はよく利く。気のせいではあるまい」クリフが足で石畳を軽く叩く。乾いた音。戻ってくる反響が微かに波打つ。「路地の奥、三叉の下だ。――行ってみるか」
昼の賑わいを避けて、路地へ入る。洗濯物が眩しい白で揺れる。香草の束が窓辺に吊られ、猫が塀の上で日向ぼっこをしている。ブラックが先導し、リンクが低く身を構える。三叉路の中心には、小さな祠のような石枠があった。古い。縁が擦り減っている。蓋の隙間から、ひんやりした空気。
「あら……町井戸の名残ですのね」あーさんが指で埃を払う。「今は使われていないようですが」
ユウキは膝をつき、耳を近づける。暗い。低い風。――カン、と遠い金属音。すぐに静まる。けれど、その静けさが“聴いて”いる。こちらの呼吸を数えるみたいに。
「嫌な感じやな」よっしーが眉を寄せる。
「主」ニーヤが杖を軽く掲げた。「炎を鳴らさず灯しますニャ。――《微光》」
小さな光の粒が井戸の縁から落ち、ゆっくり螺旋を描いて降りていく。光は壁を撫で、底の水面に触れて、ゆらり。そこに写ったもの――。
刻印。古い式の名残。曲がった線。削られた符。人が手で隠した痕跡。けれど、その上に近年の誰かが、さらに新しい線を薄くなぞっている。
「これは……いけませんわ」あーさんの声が低くなる。「礼を外れました刻み。街の拍に、私的な式を紛れさせております」
「王都にも、こっそりやっとる奴らはおるってことや」よっしーが肩を竦める。
「いずれにせよ、ここで暴くべきではない。通報し、正規の手順で対処、だ」クリフが祠の蓋をそっと戻した。「宿へ戻る。ギルドに一報を」
「うん。深入りはしない。……“非致死・ほどほど”だ」
そのとき、空が一度だけ薄暗くなった。雲が流れ、陽が翳る。風が方向を変える。街鳴りがひゅうと細くなる。――次の瞬間、通りの方で小さな悲鳴。
「行く!」ユウキが踵を返す。路地を抜けると、露店の布がばさばさと揺れ、屋台の上の器が転がっている。人混みが割れ、その隙間で――石畳に開いた細い亀裂から、黒い影がひとつ、覗いていた。影は形を持たない。音の薄膜だ。光と影の継ぎ目が、脈打つようにきらめく。
「……拍、喰ってますニャ」ニーヤの耳が寝た。
「だが、まだ“形”には至っておらぬ」クリフが一歩前へ。「非致死で払う。ユウキ」
「うん。――鳴らさず、導く」
ユウキは鞘に指を置き、“トン、ツッ”。薄い波が亀裂の周りに広がり、黒い薄膜が一瞬だけ弱まる。あーさんが二鈴を“鳴らさず掲げ”、静けさの形を置く。よっしーが腰のユニットから“無音式チャフ”を投げ、空気の粒子が粉雪のように舞って音の輪郭をぼかす。ニーヤが囁く。
「微温で包むですニャ。……さむさ、きえろ」
黒い薄膜は寒気のような抵抗を見せ、一度だけ身をよじらせた。次の瞬間、リンクが前へ跳び――“キュイ!” 足先の軽い拍。地のリズムに合わせ、亀裂を“踏む”。ブラックが上空から一拍の風を落とす。影はすうっと狭まり、やがて細い線になって、収束。石畳が“ぽん”と小さく鳴り、何事もなかったみたいに静まった。
周りの人々が「おお……」と息をつく。ユウキは胸に手を当てた。心臓が、静かに二度、打つ。大事ない。けれど、これはただの街の綻びではない。井戸の刻印。影の出現。偶然が重なるには出来すぎている。
「宿へ戻る」クリフが短く言い、よっしーが頷く。「ギルドに情報共有や。王都の案件や、勝手はアカン」
歩き出すと、通りの向こうから、駆ける靴音。砂埃を巻き上げながら、若い伝令が彼らの名を呼んだ。
「相良ユウキ殿、木幡良和殿、一行の皆様! ギルドより至急のお呼び出しです!」
「……早いな」ユウキが目を細める。
「内容は?」クリフが尋ねる。
「詳細はギルドで。――ただ、『街の下で拍が鳴っている。調査を』と」
「やっぱり、気づいとったか」よっしーが肩を竦める。「行こか。昼寝はまた今度や」
「主、《あるじ》。おにぎり、持ってくですニャ」ニーヤが宿の包みを抱えて離さない。
「お前、準備ええな」ユウキが笑った。
宿で荷を軽く整え、女将に「すぐ戻ります」と頭を下げる。女将は何も聞かず、「鳴らさず、お気をつけて」とだけ言ってくれた。
街の中心へ向かう道は緩やかな坂になっていて、石畳の目地に乾いた草が揺れている。空は澄んで、鳥が遠くで円を描いている。塔の有線はもう届かない。音楽はない。ただ、歩くだけ。人の靴音と、遠くの市場の呼び声と、風。
ユウキは歩きながら、さっきの薄い影の感触を思い返した。鳴らさずに消せる程度のもの。だが、あの感触は“予告編”の質を持っていた。誰かが、どこかで、意図的に拍をいじっている。昨日、塔で笑ったばかりなのに、もう次の拍が始まってしまう。
「顔、固いですニャ」ニーヤが覗き込む。「主人、《あるじ》。肩、こう――」
猫の掌が肩に触れ、ちいさく“トン”。クリフが歩きながら同じタイミングでユウキの背を、ぽん。リズムが合う。よっしーが口笛を――吹こうとして、すぐにやめた。
「……王都やった。静穏忘れるとこやった」
「あなたも、だいぶ“塔の人”になりましたわね」あーさんが微笑む。
「うるさいわ」
ギルドの建物が見えてくる。石造りの壁に、拍を象った紋章。扉の上に揺れる旗。中からは紙の擦れる音、羽根ペンの走る音、低い話し声――すべてが、仕事の拍だ。
ユウキは深呼吸をして、仲間たちを見渡す。よっしーの肩は軽い。ニーヤの瞳は明るい。クリフの姿勢は真っ直ぐ。あーさんの二鈴は静か。ガガは緊張の中でも好奇心で半歩前へ。ブラックは梁へ。リンクは足先で“トン、ツッ”。
「――行こう」
扉を押す。
ギルドの空気が、こちらの呼吸を一拍飲み込んで、返した。
旅はつづく。
鐘は鳴らさず。
だが、拍は確かに、次を告げていた。




