王都篇・その五 逆拍の気配
王都の空は、春のように白んでいた。
学園塔の尖端では、風見がゆっくりと回っている。
あの日以来、静謐の回廊の調査隊は短い休息を与えられていた。
しかし、その静けさはどこか──“張り詰めた静穏”に近い。
訓練室の床に正座し、ユウキは目を閉じていた。
あーさんの鈴が、微かに空気を震わせる。
チリ……ン。
半拍を先に握り、揺れが来る前に整える──それが、あの名のない部屋で覚えた呼吸だった。
ニーヤが、彼の膝の上で丸くなりながら喉を鳴らす。
「主人、《あるじ》。拍がきれいに通っておりますニャ。昨日よりも乱れが少ないですニャ」
「うん。……なんか、やっと慣れてきた」
呼吸の合間に、ユウキの表情がほんの少しだけ柔らかくなった。
「イシュタムが暴れそうになる時、胸の奥が“ざらっ”と鳴るのが分かる。けど、その前に手を握ると──すっと静まるんだ」
「それが“先拍”でございます」あーさんが微笑む。「やがては、握らずとも拍があなたの中に宿るようになりましょう」
「……そんな日が来るかな」
「うむ、焦ることはない」クリフが静かに言った。「心は剣と同じだ。磨きすぎれば欠け、放っておけば錆びる。いまはただ、呼吸に油を差す時だ」
よっしーが後方でケーブルをまとめながら笑う。
「ええ言い方するやん、クリフ。そっちの方が俺らより詩人やで」
「ふむ、剣士は詩を知らねばならぬ」
「はいはい。詩的メカニックの出番はまだやな」
ガガは訓練室の隅で、壁の模様を指でなぞっていた。
「ココ、オト、スル」
「壁が鳴る?」ユウキが目を開ける。
「うん。ガガ、ウタ、チョットキコエル」
耳を澄ますと──確かに。
かすかな、低い“呼吸”のような音。
回廊の地下とは違う、もっと柔らかい音の波。
「“めざまし”か?」よっしーが機器を取り出す。
「共鳴度、0.8ヘルツ──低すぎるな。……でも、一定周期や」
「周期があるということは、鳴ろうとしておる」クリフが眉を寄せる。
「あーさん、対処を?」
「はい。まずは回廊へ赴き、確認いたしましょう。鐘は鳴らさず、声も抑えて」
⸻
地下へ降りる階段は、いつもより風が通っていた。
回廊の入り口には封鎖札がいくつも貼られ、学園の監査官が待機している。
「調査許可、特任教導官・相沢千鶴殿以下六名」
署名を確認し、門がゆっくりと開いた。
──ツ、ツッ。
蝶番が鳴く。
けれど、その音がほんの一瞬、逆だった。
ツッ、ツ。
拍が裏返っている。
ユウキの胸がかすかにざわつく。
「今の……逆拍?」
「うむ、ただの鳴きではない。誰かが“めざまし”を押しかけている」クリフの声が低くなる。
よっしーが携帯計測器を覗き込む。「地下五層目から微振動。周波、上向きやな」
「誰か、鳴らそうとしてるんや……」
「非致死・ほどほど。急ぎましょう」あーさんが杖を掲げた。
⸻
五層目。
壁の文様がかすかに光を放っていた。
その中心に、一人の人影。
黒い法衣をまとい、両手で古い金属の円盤を支えている。
──学園司書の一人、デルナ。
回廊の研究員の中でも、“音の修復”を専門としていた女だ。
だが、その瞳は焦点を失っていた。
「デルナ、やめろ!」ユウキが叫ぶ。
「“鐘は鳴らさない”……覚えてるだろ!」
女はゆっくりと振り向き、唇から低い囁きを漏らす。
「……起きなさい、“めざまし”。子守は終わりよ」
その瞬間、円盤の縁が震え、光が走った。
──ツ、ツッツ、ツッツ。
乱拍。
壁に張られた符が一枚、ぱりんと割れた。
「クリフ!」
「うむ!」盾を構え、円盤に当たる波を受け止める。
空気が歪み、無数の囁き声が押し寄せる。
「“起きる”“朝だ”“呼んで”」
ユウキの胸の奥がざらつく。
イシュタムの呼吸が反応しそうになる。
(やばい……また来る)
「主人、《あるじ》、先拍ですニャ!」ニーヤが叫ぶ。
ユウキは即座に指を握る──ツ。
次の拍を、あえて遅らせた。
(逆拍には、逆で返す)
あーさんの鈴が呼応する。
チリ……ン。
波が一瞬、止まった。
その隙に、よっしーがテープを入れ替える。
──BOØWY”Dreamin”のイントロ。
荒いベースが回廊に響き、囁き声の拍を奪う。
「音で上書き、実施!」
クリフが踏み込み、円盤の縁を叩いて押さえつける。
ガガが駆け寄り、震える手を添える。
「ネムレ、“めざまし”。 ガガ、ウタウ」
子どもの声が、あの“帰り道”の旋律を重ねた。
低い歌声が波を溶かし、囁きは次第に静まる。
デルナの身体から力が抜け、円盤が床に転がる。
ユウキは彼女を受け止め、ゆっくりと寝かせた。
顔色は青いが、呼吸はある。
「……なぜ、“めざまし”を?」
女の唇がかすかに動いた。
「“子らが……帰らないの”」
その言葉だけを残して、彼女は眠りに落ちた。
⸻
静けさが戻る。
あーさんが小さく息をつく。「一歩、遅れておりましたら……回廊全体が目を覚ますところでした」
「目を覚ます、って?」ユウキが問う。
「“めざまし”は“夢を終わらせる術”にございます。長く眠る者の記録を、強制的に表に引き上げる……」
「つまり、子どもたちの“夢”を無理やり現実に戻す?」
「はい。夢が現実に混ざれば、現実は壊れます」
「……あぶなかったな」よっしーが額をぬぐう。「もしデルナが完全に鳴らしてたら、王都の学園が丸ごと寝不足地獄や」
「ブラック、巡回を。リンク、見張りだ」クリフが命じる。
「カー」「キュイ」
ニーヤがユウキの膝に飛び乗り、目を覗き込んだ。
「主人、《あるじ》。今の拍、とても良かったですニャ」
「……ほんとに?」
「はいですニャ。揺れの波が来ても、すぐに掴めた。昨日より、ずっと穏やか」
ユウキは小さく笑う。「そうか。ありがと、ニーヤ」
「あーさん」クリフが尋ねる。「この“めざまし”は、もう封じたか?」
「ええ、回廊の“耳”が再び閉じました。けれど──」
「けれど?」
「どこかに、もうひとつ“逆拍”がございます。ほんの微かな揺らぎですが、耳が覚えております」
⸻
夕刻。
地上に戻る途中、ユウキは一度振り返った。
地下の闇は、もう光を放っていない。
だが、耳の奥でかすかに鳴る。
ツッ、ツ。
順でも逆でもない、曖昧な拍。
「……“誰か”が、まだ起きたがってる」
「うむ。次はその“誰か”を見つけねばならぬ」クリフが言う。
「ガガ、サガスゾ!」
「もちろん、一緒に」
ニーヤが尾を揺らす。「主人、《あるじ》。揺れを怖れず、聴くのですニャ」
「分かった」
あーさんが鈴を鳴らす。
チリ……ン。
音は短く、澄んで、どこかに潜む逆拍の気配に返礼するように消えた。
鐘は鳴らさない。
だが、世界のどこかで──誰かが拍を裏返している。
⸻
【後書き】
デルナによる“めざまし”未遂事件は、静謐の回廊のもう一つの顔を示しました。
ユウキの心は少しずつ整い、半拍の制御が自然になってきています。
次回は「王都篇・その六 眠る者と目覚める者」──
逆拍の発信源を探り、回廊最奥で“誰が夢を終わらせようとしているのか”を明らかにします。
鐘は鳴らさず、拍を護って進みましょう。




