王都篇・その四 名のない部屋
朝の冷気が、白い回廊の床を薄く渡っていく。
学園の鐘楼は沈黙したまま、かわりに蝶番がツ、ツッと二拍を刻んだ。
中庭の石縁に腰かけ、ユウキは両手を膝に置く。呼吸は三拍で吸い、四拍で吐く。昨夜より、胸のざわめきは浅い。
ニーヤが丸くなって、しっぽで彼の手に触れた。「主人、《あるじ》。本日は“半拍を先に握る”稽古ですニャ」
「先に、か?」
「はいですニャ。揺れは来てから整えるより、“来る前に半拍を握る”のが楽ですニャ。合図は、あーさん」
「承りましてございます」あーさんが二鈴を載せた掌を軽く持ち上げた。「合図ののち、半拍だけ、そっと握りしめてお移ろいなさいませ」
チリ……ン。
ユウキは半拍を、呼吸の手前に置くように握った。
胸の芯が、少しだけ温くなる。
「……行ける」
「うむ、顔色がよい」クリフが頷く。「本日は“帰り道”の輪を越え、その先を確かめる。隊列は昨日の案でゆくぞ」
「よっしゃ、準備は万端や」よっしーが布袋を掲げる。「無音幕、子守歌テープ三本、ラムネ、耳栓、紙コースター(急な符貼り用)、タイラップ(束ねるだけ)──1989特製や!」
「ガガ、ウタ、スグウタエルゾ」ガガは喉を鳴らして照れ笑いした。
リンクは「キュイ!」と跳ね、ブラックは低く「カー」と鳴く。
⸻
地下七層、北翼の小室。
薄い輪は、昨日よりも淡い光で回っている。
よっしーが床の揺れを測り、首を縦に振る。「共鳴低め。今なら渡れる」
「あーさん、拍を」
「皆々様、半拍をおひとつ手前に」
チリ……ン。
輪の縁が、息づくように広がった。
「中央にガガ。右にニーヤ、左は俺が」とクリフ。
「最後、俺。フォローは任せて」ユウキは自分の呼吸に半拍を重ねた。
「よろしゅうございます。鐘は鳴らさず、声も上げず、拍のみを」あーさんの声は薄青の空気に溶けた。
輪をくぐると、音がいっぺんに遠のいた。
わずかに湿り気を含んだ空間。光源のない、けれど暗くもない廊。
足裏に、紙のような手触りが一瞬かすめる。
「紙……?」
「いや、音の薄皮や。剥いだらあかん」よっしーが小声で制す。
ニーヤの耳がぴん、と立った。「前方、空気の段差ですニャ」
廊の先は、唐突にひらけて“部屋”になっていた。
四角でも円でもなく、ゆるい八角形。壁は石とも金属ともつかず、ところどころに子どもの手形のような浅い窪みがある。
中央には台。台の上に、名を刻まれていない薄い札が束ねられ、輪で押さえられている。
「ここが“名のない部屋”か」クリフが低く言った。
「札には記録の芽がある。だが、まだ“名付け”られてへん。名を急に与えると、跳ねる」よっしーが目を細める。
「ガガ、サワラナイ……イイ?」
「ええ、よい子です」あーさんがガガの肩にそっと手を置く。「見守っていてくださいませ」
ユウキは半歩引いて、胸の前で半拍をそっと握る。
視界の奥で、影が丸く巻き、ほどけた。幼い輪郭。輪郭の向こうで、別の自分が振り向く──その気配が来る前に、呼吸を整える。
(来る前に、半拍)
ふっと波が弱まる。
「……大丈夫だ」
「まずは札の“拍”を視る。ユウキ、負荷が高いなら自分の拍を優先せい。解析は俺とニーヤでやる」よっしーが札束の輪に耳を寄せる。
「主人、《あるじ》。わたくしが先に撫でるですニャ」
ニーヤが肉球で輪の端をやさしく押さえ、爪先で札の角を一枚、ほんの半分だけ持ち上げる。
ツ、……ツッ
耳鳴りほどの小さな拍が、部屋の壁に反射して戻ってくる。
「ふむ。“帰り道”よりもずっと古い“おやすみの言葉”だ。寝物語の残り香であるな」クリフが目を細める。
「寝物語……」ユウキの胸の奥に、遠い部屋の光景がよぎる。こたつ、古いカーテン、ラジオの声。
だが、記憶の縁が立ち上がる前に、彼は半拍を軽く握った。
(先に、半拍)
痛みは広がらない。視界は澄んだままだ。
ニーヤが横目で笑う。「よくできましたですニャ」
よっしーが1989ボックスからラミネート済みの薄札を取り出す。表には何も書かれていない。「“無名札”。名をこっちで受ける器や。名の暴れをここに落とす」
「名を、受ける……?」
「部屋の“名のない札”に名前を降ろさへんためにな。先に、空の器を差し出す。名は“空いてる方”へ落ちる。バケツリレーみたいなもんや」
「うむ、理に適っている」クリフが頷いた。「やってみよ」
無音幕を台の上に薄く敷き、その上に“無名札”を置く。あーさんが二鈴を袖で包み、音を限りなく絞った。
「皆様、声は心に。拍のみを」
ガガが息を整え、小さく鼻歌を始めた。
──『かえりみち』
子どもの輪郭が、ひそやかに部屋の端に集まる。札の束の上で、“名”の気配がふるふると震え、無名札へと移ろうとする。
その時、壁の窪みのひとつから、別の拍が混じった。
ツ、ツッ、ツッ──
焦りの三連。
部屋の温度が僅かに下がる。
「まずい、ここ“怖い話”が混じっとる」よっしーが顔をしかめる。「寝物語の途中で誰か脅かしたんや。名が割れて、尖る」
「非致死・ほどほど」クリフが盾型の符を広げた。「角を落とすだけでよい」
「主人、《あるじ》、半拍を」
「握ってる」ユウキは呼吸を短く刻み、“怖い話”の音の角を目で追う。尖りは、壁の子どもの手形に繋がっている。
「ガガ、ソコ、コワイ、ウタ」
「止めよう。代わりに“帰り道”を強く」
「ガガ、オボエテル。つよく、でも、シズカニ」
ガガの声が一段落ち着いて、無名札の上に、やわらかな輪郭が降りた。
ぱたり。
札の中心に、細い線が現れる。名の始まり。
その瞬間、三連の焦りが、ひっ、と跳ねた。
影の奥から、待ち伏せていたかのように別の尖りが伸びる。
ユウキの視界が微かに反転し──来る前に、半拍。
握る。
痛みは、指の中でほどけた。
「……来ない」
「今や!」よっしーが子守歌テープを“帰り道”から“ゆりかご”へ切り替える。ふわりと低いハミング。
ニーヤが肉球で尖りを撫で、クリフの符が角を丸める。
あーさんの二鈴が、ほとんど音を立てないほど薄く震え──部屋の空気が、やわらぐ。
無名札に、名が落ちきった。
その名は、声にはならない。だが、確かに「あなたは起きなくてよい」という意味だけを宿している。
「回収、成功ですニャ」
「やった……!」
ガガが跳ね、リンクが「キュイ!」と返す。ブラックは高みに輪を描いて「カー」と鳴いた。
部屋の隅で、幼い輪郭がぺこりと頭を下げる。ほどなく、壁の窪みの影は薄れていった。
⸻
ひと呼吸置いて、台座の二層目。
最下段には、まだ輪で押さえられた札束が残っている。表の縁に、細い擦り傷。
「誰かが、ここに来た?」ユウキが指先で空気を撫でる。
「ふむ……人の手か、あるいは鳥の嘴であろう」クリフが視線を上げる。「ブラック?」
「カー」
ブラックは首を振る。
「じゃあ、人だ」よっしーが周囲を見やる。「最近や。埃の沈み方が浅い」
「あーさん、記録に」
「承りました。──“先客あり。封緘は軽微に破られ、しかし目的は不明”。」
札束は二つ。片方は“帰り道”系列、もう片方は“めざまし”系列。
「“めざまし”は触れん方がええ。鳴る気満々や」
「うむ、今は避けるべきである」
「ガガ、オキナイ、イイ」
「そう、今日は“起こさない”が正解だ。……なあ、あーさん。ここ、名を拾ったあとはどうする?」
「本日は“回廊の耳”へ返します。学園の保護層に重ねて、呼ばれぬよう静穏に」
「戻し口は?」
「北翼小室の裏。昨日は閉ざされておりましたが──」
チリ……ン。
あーさんが鈴を懐で震わせると、部屋の側壁に薄い裂け目が開いた。
「お帰りの拍にございます」
「隊列、帰還配置!」クリフの声が静かに通る。「よっしー、無名札を」
「了解。落ちた名はラミネートへ移送完了、無音幕で包む」
「主人、《あるじ》。半拍を」
「握ってる」ユウキは笑って見せた。自分で言って、自分で確かめる。その一拍が、今日はいちばん心強い。
裂け目は薄い通路に繋がり、吸い込まれる風のように彼らを迎えた。
戻る足取りは、来たときよりずっと軽い。
輪の縁をくぐる直前、ユウキはふと振り向く。
名のない部屋は、黙ったまま彼らを見送っていた。
カン、ではなく、ツ、ツッ──
短い拍だけが、確かに響いた。
⸻
地上。
学園の審査室。
書記官が淡々と彼らの報告を聞き取り、無名札に落ちた名を封筒に移し替える。
「本件、第一段階“帰り道・名おろし”を完了と認む。次段“最奥確認”は、必要器具整備ののち、別命にて」
「ガガの審査は?」ユウキが思わず前のめりになる。
「臨時評価、良。同行時の拍安定・歌の強度、可。……“正式構成員審査・一次通過”」
「ガガ、イチジ、ツウカ!」
ガガが飛び上がる。リンクが「キュイ!」、ブラックが「カー!」
よっしーが頭をくしゃりとかいた。「やるやないかい!」
「おめでとうございます」あーさんが、いつもより少しだけ声を明るくした。「ただし、次段では“めざまし”系列の可能性がございます。油断は禁物にございます」
「うむ、その通り。心して準備を」クリフが引き締める。
ふと、書記官がユウキを見た。「相良殿──」
「はい」
「あなたの“半拍操作”は、記録に値する安定度でした。学園付属の“静穏訓練室”の利用許可を出します。任務外、個人の鍛錬として、いつでも」
「……いいんですか」
「良い。『鐘を鳴らさず、拍を整える』は、学術区の基礎であるので」
ユウキは小さく笑って、礼をした。「ありがとうございます」
⸻
訓練室。
床は柔らかい石、壁は布のように音を吸う。
部屋の中央に、細い灯。
ユウキは座り、呼吸を整える。
(先に、半拍)
来る前に、握る。
イシュタムの名は呼ばない。ただ、遠くに置く。
胸の内側で、氷の層が薄くなる。
「主人、《あるじ》。よくできましたですニャ」
いつの間にか入ってきていたニーヤが、背中にそっと額を当てる。
「……ありがと」
「揺れは悪ではありませぬ。揺れを知り、扱える者が、他の揺れを抱けるのですニャ」
「そうだな」
ドアの陰から、よっしーが顔を出す。「おーい、差し入れ。ラムネ追加。あと……」
紙袋から、古いカセットと小さなポータブルの再生機が出てきた。
「“雨だれ”のテープ。一定の拍、ええんや。寝る前用に」
「気が利くな」
「せやろ?」
クリフも入ってきて、壁にもたれる。「うむ、良い表情になった」
「あーさんは?」
「こちらにおりますよ」あーさんが静かに現れ、二鈴を胸に当てる。「皆々様が整っておいでならば、今宵は短き祝を」
「祝?」
「鐘は鳴らさず、拍で祝うのです」
チリ……ン。
鈴の音が、雨だれのテープに寄り添い、訓練室は柔らかな静けさに満たされた。
⸻
その夜遅く。
屋上で、ユウキは空に掌を上げ、半拍を握って、そっと開いた。
あの“名のない部屋”を思い出す。
名に頼らず、拍で繋がっていた空間。
そこへ戻る道は、まだ続いている。
「ユウキ」
クリフの声。
「次は“最奥”だ。うむ、怖れは要る。だが、お前はもう“先に半拍を握る”ことを覚えた」
「……ありがとな」
「礼は要らぬ。仲間であろう?」
ニーヤが肩に飛び乗り、しっぽで頬をくすぐる。「主人、《あるじ》。次は“起きないように起こす”稽古ですニャ。むずかしい、でも、できますニャ」
「よっしゃ、機材リスト増やしとくわ。“めざまし”対策の消音枠と、アナログの“間抜きメトロノーム”持ってくる」よっしーが笑う。
「ガガ、アスモ、ガンバル」
「うん。一緒に行こう」
遠くの鐘楼は、今夜も鳴らない。
かわりに、回廊の蝶番が静かに応える。
ツ、ツッ。
拍は、整っている。
少しずつ、よくなっている。
それが、今夜の確かな実感だった。
⸻
【後書き】
ユウキは「先に半拍を握る」ことで、揺れの前に自分の拍を用意できるようになりました。
“名のない部屋”では、名を無理に付けず「無名札」に受けることで、回廊を荒らさずに一段進展。
次回、“めざまし”系列に触れず最奥を確認する準備回(器具強化・役割の再割り当て)から、いよいよ「最奥の縁」へ。
鐘は鳴らさず、拍を護って進みます。




