表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

325/387

王都篇・その四 名のない部屋



 朝の冷気が、白い回廊の床を薄く渡っていく。

 学園の鐘楼は沈黙したまま、かわりに蝶番がツ、ツッと二拍を刻んだ。

 中庭の石縁に腰かけ、ユウキは両手を膝に置く。呼吸は三拍で吸い、四拍で吐く。昨夜より、胸のざわめきは浅い。

 ニーヤが丸くなって、しっぽで彼の手に触れた。「主人、《あるじ》。本日は“半拍を先に握る”稽古ですニャ」

「先に、か?」

「はいですニャ。揺れは来てから整えるより、“来る前に半拍を握る”のが楽ですニャ。合図は、あーさん」

「承りましてございます」あーさんが二鈴を載せた掌を軽く持ち上げた。「合図ののち、半拍だけ、そっと握りしめてお移ろいなさいませ」


 チリ……ン。

 ユウキは半拍を、呼吸の手前に置くように握った。

 胸の芯が、少しだけ温くなる。

「……行ける」

「うむ、顔色がよい」クリフが頷く。「本日は“帰り道”の輪を越え、その先を確かめる。隊列は昨日の案でゆくぞ」

「よっしゃ、準備は万端や」よっしーが布袋を掲げる。「無音幕、子守歌テープ三本、ラムネ、耳栓、紙コースター(急な符貼り用)、タイラップ(束ねるだけ)──1989特製や!」

「ガガ、ウタ、スグウタエルゾ」ガガは喉を鳴らして照れ笑いした。

 リンクは「キュイ!」と跳ね、ブラックは低く「カー」と鳴く。



 地下七層、北翼の小室。

 薄い輪は、昨日よりも淡い光で回っている。

 よっしーが床の揺れを測り、首を縦に振る。「共鳴低め。今なら渡れる」

「あーさん、拍を」

「皆々様、半拍をおひとつ手前に」

 チリ……ン。

 輪の縁が、息づくように広がった。


「中央にガガ。右にニーヤ、左は俺が」とクリフ。

「最後、俺。フォローは任せて」ユウキは自分の呼吸に半拍を重ねた。

「よろしゅうございます。鐘は鳴らさず、声も上げず、拍のみを」あーさんの声は薄青の空気に溶けた。


 輪をくぐると、音がいっぺんに遠のいた。

 わずかに湿り気を含んだ空間。光源のない、けれど暗くもない廊。

 足裏に、紙のような手触りが一瞬かすめる。

「紙……?」

「いや、音の薄皮や。剥いだらあかん」よっしーが小声で制す。

 ニーヤの耳がぴん、と立った。「前方、空気の段差ですニャ」


 廊の先は、唐突にひらけて“部屋”になっていた。

 四角でも円でもなく、ゆるい八角形。壁は石とも金属ともつかず、ところどころに子どもの手形のような浅い窪みがある。

 中央には台。台の上に、名を刻まれていない薄い札が束ねられ、輪で押さえられている。

「ここが“名のない部屋”か」クリフが低く言った。

「札には記録の芽がある。だが、まだ“名付け”られてへん。名を急に与えると、跳ねる」よっしーが目を細める。

「ガガ、サワラナイ……イイ?」

「ええ、よい子です」あーさんがガガの肩にそっと手を置く。「見守っていてくださいませ」


 ユウキは半歩引いて、胸の前で半拍をそっと握る。

 視界の奥で、影が丸く巻き、ほどけた。幼い輪郭。輪郭の向こうで、別の自分が振り向く──その気配が来る前に、呼吸を整える。


 (来る前に、半拍)


 ふっと波が弱まる。


「……大丈夫だ」


「まずは札の“拍”を視る。ユウキ、負荷が高いなら自分の拍を優先せい。解析は俺とニーヤでやる」よっしーが札束の輪に耳を寄せる。

「主人、《あるじ》。わたくしが先に撫でるですニャ」

 ニーヤが肉球で輪の端をやさしく押さえ、爪先で札の角を一枚、ほんの半分だけ持ち上げる。

 ツ、……ツッ

 耳鳴りほどの小さな拍が、部屋の壁に反射して戻ってくる。

「ふむ。“帰り道”よりもずっと古い“おやすみの言葉”だ。寝物語の残り香であるな」クリフが目を細める。

「寝物語……」ユウキの胸の奥に、遠い部屋の光景がよぎる。こたつ、古いカーテン、ラジオの声。

 だが、記憶の縁が立ち上がる前に、彼は半拍を軽く握った。


 (先に、半拍)


 痛みは広がらない。視界は澄んだままだ。

 ニーヤが横目で笑う。「よくできましたですニャ」


 よっしーが1989ボックスからラミネート済みの薄札を取り出す。表には何も書かれていない。「“無名札”。名をこっちで受ける器や。名の暴れをここに落とす」

「名を、受ける……?」

「部屋の“名のない札”に名前を降ろさへんためにな。先に、空の器を差し出す。名は“空いてる方”へ落ちる。バケツリレーみたいなもんや」

「うむ、理に適っている」クリフが頷いた。「やってみよ」


 無音幕を台の上に薄く敷き、その上に“無名札”を置く。あーさんが二鈴を袖で包み、音を限りなく絞った。

「皆様、声は心に。拍のみを」

 ガガが息を整え、小さく鼻歌を始めた。

 ──『かえりみち』

 子どもの輪郭が、ひそやかに部屋の端に集まる。札の束の上で、“名”の気配がふるふると震え、無名札へと移ろうとする。

 その時、壁の窪みのひとつから、別の拍が混じった。

 ツ、ツッ、ツッ──

 焦りの三連。

 部屋の温度が僅かに下がる。


「まずい、ここ“怖い話”が混じっとる」よっしーが顔をしかめる。「寝物語の途中で誰か脅かしたんや。名が割れて、尖る」

「非致死・ほどほど」クリフが盾型の符を広げた。「角を落とすだけでよい」

「主人、《あるじ》、半拍を」

「握ってる」ユウキは呼吸を短く刻み、“怖い話”の音の角を目で追う。尖りは、壁の子どもの手形に繋がっている。

「ガガ、ソコ、コワイ、ウタ」

「止めよう。代わりに“帰り道”を強く」

「ガガ、オボエテル。つよく、でも、シズカニ」

 ガガの声が一段落ち着いて、無名札の上に、やわらかな輪郭が降りた。

 ぱたり。

 札の中心に、細い線が現れる。名の始まり。

 その瞬間、三連の焦りが、ひっ、と跳ねた。

 影の奥から、待ち伏せていたかのように別の尖りが伸びる。

 ユウキの視界が微かに反転し──来る前に、半拍。

 握る。

 痛みは、指の中でほどけた。

「……来ない」


「今や!」よっしーが子守歌テープを“帰り道”から“ゆりかご”へ切り替える。ふわりと低いハミング。

 ニーヤが肉球で尖りを撫で、クリフの符が角を丸める。

 あーさんの二鈴が、ほとんど音を立てないほど薄く震え──部屋の空気が、やわらぐ。

 無名札に、名が落ちきった。

 その名は、声にはならない。だが、確かに「あなたは起きなくてよい」という意味だけを宿している。


「回収、成功ですニャ」

「やった……!」

 ガガが跳ね、リンクが「キュイ!」と返す。ブラックは高みに輪を描いて「カー」と鳴いた。

 部屋の隅で、幼い輪郭がぺこりと頭を下げる。ほどなく、壁の窪みの影は薄れていった。



 ひと呼吸置いて、台座の二層目。

 最下段には、まだ輪で押さえられた札束が残っている。表の縁に、細い擦り傷。

「誰かが、ここに来た?」ユウキが指先で空気を撫でる。

「ふむ……人の手か、あるいは鳥の嘴であろう」クリフが視線を上げる。「ブラック?」

「カー」

 ブラックは首を振る。

「じゃあ、人だ」よっしーが周囲を見やる。「最近や。埃の沈み方が浅い」

「あーさん、記録に」

「承りました。──“先客あり。封緘は軽微に破られ、しかし目的は不明”。」


 札束は二つ。片方は“帰り道”系列、もう片方は“めざまし”系列。

「“めざまし”は触れん方がええ。鳴る気満々や」

「うむ、今は避けるべきである」

「ガガ、オキナイ、イイ」

「そう、今日は“起こさない”が正解だ。……なあ、あーさん。ここ、名を拾ったあとはどうする?」

「本日は“回廊の耳”へ返します。学園の保護層に重ねて、呼ばれぬよう静穏に」

「戻し口は?」

「北翼小室の裏。昨日は閉ざされておりましたが──」

 チリ……ン。

 あーさんが鈴を懐で震わせると、部屋の側壁に薄い裂け目が開いた。

「お帰りの拍にございます」


「隊列、帰還配置!」クリフの声が静かに通る。「よっしー、無名札を」

「了解。落ちた名はラミネートへ移送完了、無音幕で包む」

「主人、《あるじ》。半拍を」

「握ってる」ユウキは笑って見せた。自分で言って、自分で確かめる。その一拍が、今日はいちばん心強い。


 裂け目は薄い通路に繋がり、吸い込まれる風のように彼らを迎えた。

 戻る足取りは、来たときよりずっと軽い。

 輪の縁をくぐる直前、ユウキはふと振り向く。

 名のない部屋は、黙ったまま彼らを見送っていた。

 カン、ではなく、ツ、ツッ──

 短い拍だけが、確かに響いた。



 地上。

 学園の審査室。

 書記官が淡々と彼らの報告を聞き取り、無名札に落ちた名を封筒に移し替える。

「本件、第一段階“帰り道・名おろし”を完了と認む。次段“最奥確認”は、必要器具整備ののち、別命にて」

「ガガの審査は?」ユウキが思わず前のめりになる。

「臨時評価、良。同行時の拍安定・歌の強度、可。……“正式構成員審査・一次通過”」

「ガガ、イチジ、ツウカ!」

 ガガが飛び上がる。リンクが「キュイ!」、ブラックが「カー!」

 よっしーが頭をくしゃりとかいた。「やるやないかい!」

「おめでとうございます」あーさんが、いつもより少しだけ声を明るくした。「ただし、次段では“めざまし”系列の可能性がございます。油断は禁物にございます」

「うむ、その通り。心して準備を」クリフが引き締める。


 ふと、書記官がユウキを見た。「相良殿──」

「はい」

「あなたの“半拍操作”は、記録に値する安定度でした。学園付属の“静穏訓練室”の利用許可を出します。任務外、個人の鍛錬として、いつでも」

「……いいんですか」

「良い。『鐘を鳴らさず、拍を整える』は、学術区の基礎であるので」

 ユウキは小さく笑って、礼をした。「ありがとうございます」



 訓練室。

 床は柔らかい石、壁は布のように音を吸う。

 部屋の中央に、細い灯。

 ユウキは座り、呼吸を整える。

 (先に、半拍)

 来る前に、握る。

 イシュタムの名は呼ばない。ただ、遠くに置く。

 胸の内側で、氷の層が薄くなる。

「主人、《あるじ》。よくできましたですニャ」

 いつの間にか入ってきていたニーヤが、背中にそっと額を当てる。

「……ありがと」

「揺れは悪ではありませぬ。揺れを知り、扱える者が、他の揺れを抱けるのですニャ」

「そうだな」

 ドアの陰から、よっしーが顔を出す。「おーい、差し入れ。ラムネ追加。あと……」

 紙袋から、古いカセットと小さなポータブルの再生機が出てきた。

「“雨だれ”のテープ。一定の拍、ええんや。寝る前用に」

「気が利くな」

「せやろ?」

 クリフも入ってきて、壁にもたれる。「うむ、良い表情になった」

「あーさんは?」

「こちらにおりますよ」あーさんが静かに現れ、二鈴を胸に当てる。「皆々様が整っておいでならば、今宵は短き祝を」

「祝?」

「鐘は鳴らさず、拍で祝うのです」

 チリ……ン。

 鈴の音が、雨だれのテープに寄り添い、訓練室は柔らかな静けさに満たされた。



 その夜遅く。

 屋上で、ユウキは空に掌を上げ、半拍を握って、そっと開いた。

 あの“名のない部屋”を思い出す。

 名に頼らず、拍で繋がっていた空間。

 そこへ戻る道は、まだ続いている。


「ユウキ」

 クリフの声。

 「次は“最奥”だ。うむ、怖れは要る。だが、お前はもう“先に半拍を握る”ことを覚えた」

「……ありがとな」

「礼は要らぬ。仲間であろう?」

 ニーヤが肩に飛び乗り、しっぽで頬をくすぐる。「主人、《あるじ》。次は“起きないように起こす”稽古ですニャ。むずかしい、でも、できますニャ」

「よっしゃ、機材リスト増やしとくわ。“めざまし”対策の消音枠と、アナログの“間抜きメトロノーム”持ってくる」よっしーが笑う。

「ガガ、アスモ、ガンバル」

「うん。一緒に行こう」


 遠くの鐘楼は、今夜も鳴らない。

 かわりに、回廊の蝶番が静かに応える。

 ツ、ツッ。

 拍は、整っている。

 少しずつ、よくなっている。

 それが、今夜の確かな実感だった。



【後書き】


ユウキは「先に半拍を握る」ことで、揺れの前に自分の拍を用意できるようになりました。

“名のない部屋”では、名を無理に付けず「無名札」に受けることで、回廊を荒らさずに一段進展。

次回、“めざまし”系列に触れず最奥を確認する準備回(器具強化・役割の再割り当て)から、いよいよ「最奥の縁」へ。

鐘は鳴らさず、拍を護って進みます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ