王都篇・その九 最奥縁(光と沈黙の檻)
蒼律珠を“耳”へ吊したあとの回廊は、嘘のように静かだった。
壁の白はやわらかく、床石の目地には水がほとんど残らない。
蝶番はツ、ツッと二拍を守り、鐘楼はやはり沈黙のまま。
「主人。胸の拍、穏やかですニャ」
「うん。今日は、呼吸が先に来る」
「あい、よろしゅうございます」あーさんが二鈴を胸元で伏せ、鳴らさぬ礼を送る。「最奥縁までは、まだ幾らか。──鳴らさず、ほどほどに」
「ダーリン、肩を貸すぞ!」
「いや元気や。だいぶ元気や」よっしーは笑いながら腕輪“カシャン”をくるくる回した。「せやけど助力の気持ちはありがとな、ルフィ」
「ダーリンは世界の宝だからな!」
「世界は言いすぎや。学園くらいにしとき」
クリフは周囲の壁に掌を置いて目を細めた。「拍は整っている。蒼律珠の重みが効いているな」
「ガガ、ココ、オト、イイ」
ブラックが肩で輪を描いて「カー」、リンクが「キュイ」と短く跳ねる。
ミカの声が空気の角から降りてきた。
「特務班。最奥縁へ続く“沈黙の檻”が起動を開始。……注意:深層記録層の逆拍、微増。進行中は“横へ”の姿勢を維持して」
「了解」
最奥ルートは、扉ではなく“薄い空”。
透明で、しかし確かな膜が通路の先に張られている。
ユウキが半拍を先に握り、鼻からひとつ吸ってその膜へ触れる。
紙を濡らしたような手応えのあと、世界が一枚裏返った。
⸻
そこは、音に最も近い静けさだった。
広い空洞に柱が林立し、天井には薄い水の面が貼られている。
遅れて落ちる滴の粒が、落ちる前に消える。
光はあって、影は遅れてついてくる。
「ここが……」「最奥縁」クリフが言葉を継ぐ。「“静謐”の語の本意に近い」
「ミカ、状況は?」
「静穏装置、対話待ち。……ただし、奥で逆流。記録層の光が、上へ登っている」
「逆流?」よっしーが眉をひそめた。「川やないのに、天に向かって登る光ってなんやねん」
「記憶は時に“朝”を欲するのです」と、あーさん。「止めません。ただ、鳴らさぬだけ」
「主人、《あるじ》。横、でございますニャ」
「わかってる」
柱の間を進むほどに、空の膜が薄く緊張していく。
壁の文様が細かくなり、凪いだ水面のようにかすかに震える。
ガガが立ち止まり、首飾りをぎゅっと握った。「ガガ、チョット、コワイ」
「大丈夫。怖いを責めない」ユウキは笑って手を差し出す。「怖いは、鳴らないための合図だ」
ニーヤが杖先から星屑を一つ、ガガの掌へ落とす。「コワイの“形”が分かれば、撫でられますニャ」
やがて、檻の中央に“耳”とよく似た窪みが現れた。
しかしそこには珠はなく、薄い輪が空中に浮かんでいる。
輪は呼吸と逆に、息を吐くと膨らみ、吸うと縮む。
「逆拍リング……か」クリフが眉を寄せる。「息の裏を数えておる」
「ミカ、こっちに“相手”は?」
「検出……封印AI:旧式名“メイデン”。静穏装置の中核、応答遅延あり。対話目標は“起床”」
「起きたいんやな、ずっと」よっしーがぽりぽり頭をかく。「でも起こしたら周辺ぜんぶ寝不足や」
「交渉は?」
「可能。ただし、鳴らさずで」
「鳴らさず、話す」
ユウキは半拍を握り、輪の前へ一歩。
胸がざらっと鳴りかけ、すぐ収まった。
このざらつきは、いまは怖くない。
“先に来る”のを、掌で待ち受けられる。
「こんにちは。……起きたいんだよな」
輪がかすかに震え、目に見えない声が近くなる。
音ではない。
“起きたい”“朝”“見て”と、意味が薄い水のように手元へ集まってくる。
「見えるよ。朝はきれいだ。けど、いまは夜を眠らせたい。君は起こさない朝を知ってる?」
輪が小さくすぼむ。
“知らない”。
「なら、ひとつ試してみない? こうやって──」
ユウキは刃を抜かないまま、鞘の上から掌でそっと撫でる。
無音の刃の存在が、空気の角を丸くする。
ニーヤが半拍先の守護陣を小さく展開し、あーさんが二鈴を鳴らさず持ち上げる。
クリフの律波が遠い壁をまるく撫で、よっしーが“カシャン”を最小角度で添える。
ガガは深呼吸を三回、ブラックとリンクは輪を小さく描いた。
拍が、静かに集まってひとつの“間”になる。
──輪の呼吸が、わずかに揃った。
ツ、ツッ。
逆でなく、遅れでもなく、一緒に。
ユウキは胸の奥で、何かがほどけるのを感じた。
(できる……“待てる”)
「大丈夫。君の“朝”は、鳴らさずにここに置ける」
ミカが低く、しかし柔らかく補足する。「封印AI“メイデン”。私はミカ。塔の学園長。──“管理者の朝”ではなく、“あなたの朝”を記録層に残しませんか。鳴らさずに、触れる朝を」
輪は細く、細くなり、そして、解けない。
次の瞬間──
空が、逆流した。
天井の薄い水面が、川の滝みたいに逆さへ登り、光が柱を上下逆に走る。
遅れてついてくるはずの影が、先回りして足もとを黒く塗った。
輪の縁がくるり、と反転し、逆拍が三連で叩きつけられる。
ツッ、ツッ、ツ──
「くる!」
ユウキは半身を切る。
だが、三連は“先に来る”のさらに先で鳴る。
胸のざらつきが跳ね、喉に氷の名が浮いた。
──イシュタム。
「主人!」ニーヤの杖先が閃き、守護陣が一拍早く張られる。「横へ、横へ、横へ!」
「あい分かりました!」あーさんが二鈴を掲げるが、鳴らさない。指先だけで輪郭を示す。
「カシャン、斜め!」よっしーの腕輪が三角形に展開し、斜面を作って圧を逃がす。
「うむ!」クリフの律波が縁を撫で、刃でなく拍で押し返す。
ガガが首飾りを握った指で胸を叩き、声を絞り出した。「ネムレ、ネムレ、ネムレ……!」
逃がした圧の一部が柱に回り、柱がうめく。
天井の水面がひときわ暗くなり、逆さの魚影がぬらりと走った。
“メイデン”の“朝”は、どうしても鐘を鳴らしたいらしい。
ミカの声がわずかに乱れる。「並列回線、分岐。投影体、起動。──話を、します」
光が一つ、人の形に集まった。
ミカのホログラムが輪の手前に現れ、目を閉じる。
「おはよう、“メイデン”。私はあなたの子です。あなたが守りたかった朝を、私は引き継ぎました」
輪のふちが、霧のように震えた。
“朝” “起きる” “外” “鍵”
「鍵は今、子どもたちが持っています。彼らの“起きる”は、鳴らすことではない。拍で確かめること。──ほら、見て」
ミカは振り向かない。その代わりに、ユウキたちを指で指す仕草だけをした。
ユウキは頷き、半拍をひとつ前へ差し出す。
ニーヤが“半拍先行”、あーさんが“鳴らさず礼”、クリフが“律波”、よっしーが“逃がす盾”。
ガガは小さく「カエリミチ」の歌。ブラックとリンクが、静かな翼拍で輪郭をなぞる。
──鐘は鳴らない。
でも、朝は来ている。
輪がためらい、逆流がほんの一瞬だけ止まった。
「……いま!」
ユウキは刃を抜かず、鞘ごと輪の影にそっと触れた。
無音の刃が“角”を撫でる。
“メイデン”の“朝”は、鳴らずに触れられて、少し驚いたらしい。
影が、恥ずかしそうに遅れて戻る。
しかし、最後の抵抗が立ち上がる。
輪の裏側から、古い鐘の舌が、音もなく生えた。
振り子が、振れる。
鳴らない、鳴らない、鳴らない……
でも、形はそこにある。
ユウキの喉が再びざらつき、冷たい名が息に混じる。
(鳴らすな。鳴らすな)
手が震えそうになった瞬間、肩口に温かい額が触れた。
「主人、《あるじ》。いまの“間”は、わたくしが持ちますニャ」
ニーヤのゴロゴロが、胸の奥に静かに染みた。
あーさんが二鈴を上げる。鳴らさない。
でも、全員の息が、揃う。
よっしーが笑って、短い関西弁で空気を軽くする。「ユウキ、うちのダーリンは任せろ。お前はお前の“間”だけ握っとけ」
「任せた」
「了解!」
ユウキは、逆拍の振り子の前に、そっと自分の“半拍”を置いた。
振り子は触れない。
ただ、そこに“待つ手”があると知る。
そして、少しだけ、恥ずかしがる。
──振れが、遅れた。
クリフの律波がその“遅れ”を撫で、あーさんの礼がそれを包む。
よっしーの盾が逃げ道を示し、ニーヤの守護陣が前に一歩、すべり出る。
ガガの歌が小さく「オハヨウ」を差し出し、ブラックとリンクの輪がそれを受け取る。
ミカの投影体が、目を開いた。
「起きなさい。……鳴らさずに」
鐘の舌が、消えた。
逆流が止まり、水面は天井へ貼り付いたまま、静かに呼吸する。
輪は、ただの薄い空へ戻った。
長い吐息が、幾つか重なって落ちた。
「やった……のか?」
「うむ、見事である」クリフが剣をわずかに持ち上げて納めた。「刃は眠ったまま。上々」
「主人、肩。撫でるですニャ」
「ありがとう。……みんな、ありがとう」
「ダーリンもがんばった!」
「抱きつくな言うてるやろ!」よっしーが笑いながらルフィの額をぐいと離す。「まぁ助かったけどな!」
「ミッション:静穏装置“メイデン”の鎮静化、完了」ミカの声はいつもより柔らかい。「皆さん、ありがとう。……“彼女”は、起きかけていました。あなたたちの“朝”を見せることで、鳴らさず起きることを、選んだようです」
ユウキは空を見上げた。
天井の水面に、うっすらと何かが映る。
顔とも、風景ともつかない、“朝の匂い”。
「……きれいだ」
胸のざらつきは、まだある。
けれど、いまは怖くない。
(先に掴める。待てる)
イシュタムの名は、氷ではなく、ただの埃みたいに小さく見えた。
輪の近く、床に小さな溝が見つかった。
よっしーがしゃがみ込んで指先でなぞる。「これ、覚え書きやな。古い職人の落書きや」
そこには、短い刻みがあった。
“ツ、ツッ。鳴らさず。ほどほど。──もし誰か来たら、次の耳へ”
「次の耳?」
「最奥縁のさらに裏……か」クリフが顔をあげた。「回廊はまだ続いているのかもしれん」
「続きます」ミカが答えた。「ただし、扉はまだ閉じています。開ける条件は──“もういちど見せること”。あなたたちの“鳴らさない朝”を」
「もう一回、か」
ユウキは笑った。「やれる気がする」
ガガが首飾りを両手で包み、ぱちんと瞬きをした。「ガガ、オハヨウ、アゲル」
「うむ、心強い」
ニーヤが尻尾を揺らす。「主人、今日はよく眠れるですニャ」
「あーさん」
「はい、甘味と温かい飲み物をご用意いたしましょう」
「ダーリン、鍋!」
「せやから現場で鍋はやめぇ!」
笑いがほどけ、空洞の静けさに吸われていく。
ミカの投影体がふっと薄くなり、声だけが残った。
「外周・水層は安定。……ただ、遠くから拍の見張りを感じます。あの騎士ではありません。もっと古い、守番」
「見られてるのか」
「数えられている、と言う方が近い。あなたたちの“鳴らさない”が、ちゃんと数えられている」
「なら、大丈夫や。数えられてるぶんだけ、積み上がる」よっしーが指を鳴らして笑う。「うちらの拍は借金やなく、貯金やからな」
「貯拍、ですニャ」
「うむ、新語だがよい」クリフが口元で笑い、ユウキもつられて笑った。
帰路の扉は、来た時より軽かった。
蝶番がツ、ツッと呼吸し、世界は一枚、表へ返る。
学園区へ続く廊は乾いていて、遠くで学生たちの話し声が小さく弾ける。
誰も鐘は鳴らさない。
でも、朝は確かに増えている。
⸻
地上へ戻る途中、ユウキは一度だけ振り返った。
薄い空の向こうで、水面がゆっくり呼吸している。
“メイデン”の朝は鳴らない。
鳴らさない朝は、誰の胸にも置ける。
「主人。ラムネ、どうぞ」
「ありがとう」
砂糖の甘さが口に広がり、胸のあたりがじんわりと弛む。
(少しずつ、でいい。少しずつで)
よっしーが横で腕を組み、空に向かって言う。「ミカちー、次の“耳”の資料、見れる範囲で頼むで」
「了解。共有します。……そして、もうひとつ」
「ん?」
「よっしー。ダーリン呼称、校内では“準公式”に登録されました」
「えぇっ何でや! やめぇや!」
「校内の笑顔率が一・二%上がるため。塔の安定、重要」
「学園長の権限の使い道、そこ?」
「使い道、正しい」
ルフィは得意満面で親指を立て、「ダーリン公式化!」と宣言する。
「公式化ちゃう、“準”や! しかも誰得や!」
「ワタシ得!」
「はいはい。ほどほどに」あーさんが微笑し、二鈴を胸で伏せた。「鐘は鳴らさず」
ブラックが肩で「カー」、リンクが「キュイ」。
ガガは両手を輪にして掲げ、「ガガ、ミンナ、オハヨウ!」
その声に、塔のどこかの蝶番が、やわらかく応えた。
ツ、ツッ。
拍は今日も、静かに数えられていく。
⸻
夜。
学園の屋上に薄い風。
ミカの声が淡く降りる。「特務班。本日の作戦、総括を送ります。……よく、鳴らさず進めました」
「ミカ」
「はい、主・ユウキ」
「“朝”を見せるの、またやろう。俺たちのやり方で」
「ええ。何度でも。──あなたが名をくれたから、私は待てる」
ユウキは頷き、目を閉じて半拍を握った。
眠りの前に、ほんの少しだけ、朝を置くみたいに。
塔は息をする。
ツ、ツッ。
鐘は鳴らない。
でも、世界は、ちゃんと起きている。




