王都篇・その一 静謐の回廊
夜の鐘が、鳴らなかった。
ユーゲンティアラ城の高塔では、鐘守たちが息を潜め、誰もがわずかな風の音に耳をすませている。
──それでいい。
鐘は鳴らさない。それが今夜の決定だった。
前夜、二鈴と撓鈴を用いて姫の“分離”と“封緘”を済ませ、封印の結界は安定を保っている。
黒鐘の影響も鎮静化し、院医団による診察でも“外魔素の干渉なし”と報告された。
あーさんは静かな息を吐き、机上の報告書に署名を入れると、筆先をそっと伏せた。
「……以上をもって、封緘完了と致します」
淡い明りに照らされた書簡を、王の執務官レミギウスが受け取る。彼は老獪な目で書面を走らせ、ゆるくうなずいた。
「見事な手並みでした、相沢殿。王もご満足でしょう」
「光栄にございます。ですが……“鎮め”は、終わりではなく、始まりにございます」
「ふむ?」
「封じたものは、いずれまた動きます。蝶番のように、静けさの裏で回り続けるもの。──だからこそ、学びと観察が必要なのです」
あーさんの視線は、執務窓の向こう、夜明け前の王都を見据えていた。
遠く、学園の尖塔群が薄青く光を帯びている。
あそこが、次の任地──王都学術区《静謐の回廊》。
⸻
午前。
白大理石の回廊には、朝靄がまだ漂っている。
その中を、黒衣の青年が一人歩く。
クリフ・ディナード。
まだ包帯の残る左腕を軽く押さえながら、軽口のように呟いた。
「……学園所属、ねぇ。おれ、授業受けたことなんか一度もないぞ」
彼の後ろから、紙束を抱えたよっしーが息を切らせて追いつく。
「おい待たんかいクリフ! 報告書まだ王室提出済んでへんど!!」
「ジギーが夜通しでまとめてくれたじゃん。オレらは附属団の顔出しだろ? 遅れたらまたエリンさんに説教食らう」
「エリンの説教は甘い方や。怖いのはあーさんの“微笑”やで……」
「……たしかに」
ふたりのやりとりを、軽やかな尻尾が遮った。
「アレ、お二方、…何をしてるんですかニャ」
猫魔導士のニーヤが、ふにゃっと欠伸をする。
「静謐の回廊では、声をひそめるのが作法らしいですニャ。鐘の代わりに、蝶番が話すのだとか?」
「出たよ、“蝶番理論”……」よっしーが肩をすくめた。
「ふむ……あっ、いや、ほんとに鳴ってるのか」クリフは耳を澄ます。
──ツ、ツッ。ツ、ツッ。
遠くの書庫扉の蝶番が、一定の拍を刻んでいる。
それは、まるで見えぬ合図のように。
⸻
回廊の中央ホール。
黒と白の石床が交差する上に、巨大な文書掲示台がそびえる。
そこには、学園長代理の印で新規調査団の任命が掲げられていた。
【学術調査団第九号】
指揮監督:相沢千鶴(特任教導官)
調査対象:王都地下層“静謐の回廊”構造調査および残響魔素の分析
団員:クリフ/ユウキ/よっしー/ニーヤ/ブラック/リンク(補助端末)/ガガ(研修生)
先住民族の少女──ガガがぱっと目を輝かせた。
「ワ、ガガノナマエアルノカ?」
「当然やろ、うちの新入りや」よっしーが笑う。
あーさんは彼女に小さくうなずいた。
「礼節を忘れず、音に耳を澄ませること。静けさの中に答えはございます」
「オー、ガガ、ガンバルカラナ!」
「は、はいですニャ…あーさん!」
「キューイ」
その様子を眺めながら、クリフは頭をかいた。
「……で、調査対象が“静謐の回廊”ってのは何なんだ?」
「学園地下に広がる旧聖堂群の総称じゃ」ニーヤが答える。
「表向きは古代文書庫。だが、昔そこでは“音を記録する魔術”の実験が行われておった」
「音を……記録?」
「うむ。鐘の代わりに、言葉と記憶を留める術じゃ。お主らの“鎮め”も、その系譜にある」
あーさんが補足した。
「今回の任務は、その遺構の調査と修復。ですが──王室直轄ゆえ、厳重な制約が課せられています」
「制約?」
「“声”を上げないこと、です」
静かに告げるその声に、空気が一瞬張りつめた。
⸻
翌日、調査開始。
王都学園の地下七層目。
狭い石段を降りると、音が吸い込まれるような沈黙が支配していた。
照明の代わりに浮かぶ光球は淡い群青色。
足音が一つ鳴るたび、光が波紋のように広がる。
「すげえな……まるで海の底みたいだ」
「感圧石や。魔素の流れを音に変換しとる。今はほぼ静止やな」よっしーが計測器をかざす。
リンクの青いレンズがきらりと光る。
《残響濃度、基準値の二十二%。安全圏内デス》
「了解。ニーヤ、前方頼む」
「心得たのじゃ」
猫影がすっと闇に溶ける。
やがて、軽い音がした──ツ、ツッ。
同じ拍だ。
あーさんが立ち止まり、二鈴を指先でかすかに鳴らす。
チリ……ン。
呼応するように、壁の一部が滑らかに開いた。
「鍵穴ではなく、蝶番へ」
クリフが口の中でその言葉を反芻した。
扉の向こう、薄青い空間が広がっている。
円形の大室。中央には、金属の柱が一本──
そこに無数の音符のような光が絡みついていた。
よっしーが低く笛を吹く。
「……残響核や。封じきれんかった音がここに溜まっとる」
「封じきれなかった?」
「姫の夢の中で“誰かが歌ってた”って話、覚えとるやろ?」
「まさか──」
「ああ。あの旋律、こっから漏れたんや」
あーさんが静かに杖を構えた。
「皆様、非致死・ほどほどでお願いいたします」
「了解!」
「承知ッ!」
⸻
次の瞬間、音が弾けた。
柱からこぼれた光の粒が、無数の声を伴って渦を巻く。
──“聞かせて……”“まだ……鳴らないの?”
囁きが重なり、空気が震える。
クリフが咄嗟に結界符を投げるが、音は壁を越えて忍び込む。
よっしーが1989アイテムボックスから取り出したのは、古い携帯用カセットプレイヤー。
「まさかのウォークマン対抗策や!」
スイッチを入れると、磁気テープの回転音が唸りを上げた。
──♪PERSONZ “BE HAPPY”──
懐かしいギターリフが流れ、周囲の残響が一瞬たじろぐ。
「音には音や。アナログで上書きしてまえ!」
ニーヤが跳躍し、爪先で光の紋を切り裂く。
「ほれ、“ほどほど”にな!」
リンクの光線が粒子の流れを制御し、ブラックが無音の衝撃波で散布を押し戻す。
あーさんが二鈴を鳴らす。
チリ……ン。
響きが全ての音を包み込み、静寂へと帰した。
──しん、と。
ただ一つ、残響核の中心で微かな拍だけが残った。
ツ、ツッ。ツ、ツッ。
それはまるで、“まだ続く”と告げるかのように。
⸻
調査後、地上の学園棟。
夕暮れの回廊で、クリフが報告書をまとめていた。
「……結論、“核は安定。ただし発信源不明”。これでいいか?」
「ええ。続きは私が陛下に奏上いたします」あーさんが微笑む。
「にしても、“声を上げない”って掟、何の意味が?」
「声は力。呼べば応じるものもございます。だからこそ、慎みが要る」
そう言って彼女は二鈴を胸に寄せた。
その瞬間、彼女の指輪が淡く灯る。
──ユウキの“静穏輪”が応じたのだ。
遠く離れた塔の方角で、同じ光が半拍だけ瞬いた。
まるで、互いの存在を確かめるように。
⸻
その夜。
学園の屋上で、よっしーとクリフは並んで街灯を見下ろしていた。
「なんか……平和すぎて落ち着かねえな」
「せやな。けどこういう時ほど、次の蝶番が動くんや」
「また“蝶番”か」
「鍵穴をこじ開けるより、丁寧に蝶番を油す方が早いんやで。な、Aさん風に言うと」
ふと、風が吹いた。
遠くの鐘楼から、誰かが試しに紐を引いたのだろう。
カン──という音が夜空に吸い込まれ、すぐ消えた。
代わりに、蝶番がひとつ鳴った。
ツ、ツッ。
よっしーが目を細める。
「……やっぱり、鳴っとるやろ?」
「“鐘は鳴らさない”。けど、蝶番は生きてる」
「そういうこっちゃ」
クリフは笑い、手を伸ばした。
夜風の中に漂う微かな旋律──あの“誰かの歌”が、また聞こえた気がした。
それは、新しい導線の始まり。
静謐の回廊で、まだ知らぬ扉が待っている。
⸻
【後書き】
今回から王都「静謐の回廊」篇へ。
“鎮め”の後も音は残る──それを学ぶ章です。
次回は、学園内部での任務編成と、回廊に隠された“音の記録装置”の正体へ。
鐘は鳴らさず、拍をつないで参りましょう。




