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水面の封(ふう)、音を喰う箱


(主人公・相良ユウキ=“綴” の視点)


オアシスの縁には、聞こえるはずの音が薄かった。水鳥の羽ばたきは絵みたいに静かで、風に揺れる葦の葉は震えているのに鳴らない。〈空結び〉で触れると、透明な布が水面を覆って“吸音”しているのが分かる。布の端――しんほこらの石蓋の真上。そこへ、赤衣が箱を沈めようとしている。


黒帽子は三人、半円に散って、弓と鎖鎌で視界と逃げ道を潰す構え。赤衣は二人、うち一人――目の下に痣のある男、名を呼ぶと“エス”が反応するはずの男――は少し距離を取り、もう一人が箱を抱えて祠に寄る。


「“綴”、道は固いの?」


エレオノーラが囁く。俺は〈地継〉で足裏に土の呼吸を通し、「固い帯、三本。真っ直ぐは危険。斜め左、足が沈みにくい」と返す。〈風縁〉の糸に短い拍子を置き、全員で呼吸を合わせる。


「よっしゃ、なら――景気づけや!」


よっしーが虚空庫に腕を突っ込み、満面の笑みで引っ張り出したのは、艶の残る白黒ツートンのハッチバック。ボンネットの“TOYOTA”のロゴ、どこか誇らしげに前を向いてる。ナンバーは大阪、昭和末の字体。――“トレノ”。AE86だ。


「ハチロクぅ!? お前、ホンマに入ってんのかよ、その箱に!」


「もちろんや! 平成元年、ワイの相棒スプリンタートレノ GT-APEX(※5MT)やで。ガソリンも満タン保存で鮮度バツグン、タイヤは……ちょい固いけどいける! ――乗りなはれ!」


エレオノーラが思わず口元を崩し、クリフさんが「これは……戦車ではないのか?」と目を丸くし、ルゥは興味津々でボディを小突き、ニーヤは「猫が乗る所は助手席ニャ」と当然のようにドアノブに飛びつく。あーさんは目をぱちくりさせて俺の袖をつまんだ。


「ユウキさん……これが、例の“自動で走る車”でございますの?」


「あーさん、これは文明の誇り、だ。中に乗ると分かるけど、揺れるから気をつけて」


「はい……あの、少し怖うございます」


「大丈夫。俺が横で支える」


言いながら、自分の心臓のほうが早い。だが、いま必要なのは“音”。黙しの布を破るには、強い“音のくさび”がいる。エンジンの鼓動は正しくそれだ。俺は指輪の内側で〈空結び〉の柱を立て直し、〈地輪〉を車輪に共有するイメージで結ぶ。


《“結び目”拡張:車輪縫しゃりんぬい/効果:路面グリップの一時的向上(微→小)、共振破り(微)/副作用:膝関節疲労(小)》


「行くで、風の糸!」


キーを捻る。セルが回る。スターターの音が一瞬遅れて、――吠えた。4A-Gの息吹。オアシスの空気がぶるりと震え、黙しの布がかすかに波打つ。よっしーが軽く空ぶかしをひとつ。音の楔がさらに深く刺さる。赤衣の視線がこちらへ。


「箱を沈めろ」


低く、エスではないほうの赤衣が命じる。黒帽子が葦の影から前に出る。矢が三本、白い鼻先めがけて走る――が、ニーヤの〈風縫い〉が意地悪く軌道を撚り、よっしーが軽いステアで車体をひらりと逸らす。俺は〈囁き手〉で「あーさん、息を合わせて」と結び、〈地継〉で左の固い帯へ誘導。砂利混じりの土が、タイヤの下でうなる。


「クリフ、上!」


エレオノーラの声。クリフさんの矢が、黒帽子のひとりの弓の上腕を正確に掠め、力を削ぐ。ルゥの投げ石が別の足首を打ち、体勢を崩させる。あーさんの指先の〈水糸〉が地面に薄い滑りを作り、敵の踏み込みを狂わせる。ニーヤが帽子のつばを押さえ、「にゃーはっは!」と謎の気合い。


「突っ込むで!」


よっしーの合図で、俺は〈共振破り〉を少し深くし、クラッチの繋ぎに合わせて〈風縁〉を叩く。エンジン音が黙しの膜と干渉して、薄い亀裂が走った。祠の石蓋の上の空気がびくりと震える。赤衣の指先がぴくりと動いた。


「いま!」


エレオノーラが地を蹴る。彼女は祠に向けて一直線。俺とよっしーは少し斜めに走り抜け、黒帽子の前を「音」で荒らす役。クリフさんが後衛から援護。ルゥはよっしーの車体の後ろを“影”のように走って石を投げ、ニーヤは〈水煙〉で視界を曇らせる。そして、あーさんは――俺の手を握りながら、怖さを吞み込んで懸命に息を合わせてくれていた。


「――“空結び”、深く」


俺は胸の柱を一段沈め、祠の上の“芯”に糸を差し込む。硬い。けれど、音の亀裂が手助けしてくれる。『箱』が祠に落ちれば、こちらの結びは負ける。間に合わせる。エレオノーラが最後の数歩で跳躍、短剣で祠の蓋の“釘”を二つ弾いた。


カン、と乾いた音。黙しの布が一瞬“音”を漏らし、水鳥が一羽、驚いて小さく鳴いた。それだけで、涙が出そうになる。音が、生き返った。


「――エス!」


俺は振り向かない背中に名を投げた。痣の下の目が、わずかに揺れる。彼は手を止めない。だが、箱を持つ赤衣の肘に、ほんの短い“迷い”が生まれた。その刹那――クリフさんの矢が箱の持ち手の金具に当たり、金具が歪む。箱の重量がわずかに傾く。よっしーが車体を祠脇に滑り込ませ、俺は窓から身を乗り出して〈地継〉を箱の下の石に通した。“重心返し”。箱の重みを、半拍だけ祠から遠ざける。


「ルゥ!」


「うん」


ルゥの石が、箱の蓋の縁――十字の飾りの「結び目」に当たって、そこだけを器用に打ち砕いた。ニーヤが〈風縫い〉で蓋の隙間に風を滑り込ませ、あーさんが〈水糸〉でその風に湿り気を与える。俺は“空結び”で芯を引きはがし、エレオノーラが最後の釘を抜く。


――箱が、閉じない。


十字の段の「向き」が、初めて“ほどけ”側に傾いた。赤衣の二人の口元が同時に歪む。黒帽子が鎖鎌を回し、俺の顔めがけて鎖を投げる。よっしーがハンドルを切って車体を盾にし、鎖がAピラーで弾かれて火花を撒く。


「綴!」


あーさんの声。俺の名前が、俺を引き戻す。箱の縁から薄い“声”が漏れる。誰かのすすり泣き、呼びかけ、笑い。オアシスの水面に、小さな波紋。黙しの布が破れ、音が水へ戻り始めた。


「ここまでや!」


よっしーがクラッチを踏んでバックギア。黒帽子の二人が車の背後に回り込む前に、俺たちは祠から横っ飛びに離脱。エレオノーラは祠の蓋を半ば開けたまま、赤衣の懐から離れる。クリフさんは三本目の矢を番え、エスの背に“名”をもう一度だけ投げる。


「エス。お前の“名”は、呼べる」


彼は振り向かない。けれど――足が、ほんの少しだけ“重く”なった。土が、彼を引き止めた。短い一瞬。それで十分だった。俺たちは水の縁から離れ、葦の陰に飛び込む。旗が葦に擦れて鳴る。生きた音だ。


逃走、白と黒の影


「追ってくる!」


ニーヤの声に、俺は〈風読み〉を最大に広げる。黒帽子の足音は軽い。赤衣は祠から箱を抱え直している。エスの足音は……重い。彼自身が望んでいない重さ。十字の釘と土の呼吸が喧嘩している。


「“車輪縫”、まだ持つ?」


「いけるで!」


よっしーがハンドルを切って固い帯へ乗せる。〈地輪〉が足裏から車輪へ渡され、砂に潜りかけたタイヤがぐっと持ち直す。あーさんがダッシュボードの取っ手を握って、震えを飲み込む。「こわ……でも、ユウキさん、手、離さないでくださいませ」


「あたりまえだ」


ニーヤは助手席の足元で丸まり、尻尾だけがやけに立派に立っていた。ルゥは後席で窓の外に石を投げ、クリフさんはリヤハッチの隙間から矢を一矢だけ送り、エレオノーラは同乗せずに地上を並走――彼女の走りは風だ。旗は彼女の肩にある。


「前、右!」


エレオノーラの合図。俺はよっしーと同時にステアを切り、固い帯から帯へ“跳ぶ”。黙しの布が破れた分、風が戻ってきて、〈囁き手〉が通る。俺は糸で皆に短いリズムを配る。“タ・タ・ターン”。地継の拍子。車体が滑るたび、〈共振破り〉を小刻みに入れて姿勢を戻す。


黒帽子が一人、ショートカットの角度で迫ってくる。鎖鎌の鎖が車の後ろで唸る。よっしーがバックミラーでそれを見て、にやりと笑った。


「オマエ、こういうのはな――」


彼は虚空庫から“発煙筒”を取り出し、窓からしゅぽっと投げた。赤い煙が長く尾を引き、黒帽子の視界を切る。鎖は空を噛み、ザン、と虚しく砂を打った。


「昭和末のドライブテク、なめんなよ!」


「平成元年な」


「細かいことはええねん!」


馬鹿だ。だけど、その馬鹿さが今は頼もしい。俺は笑いながら〈空結び〉の柱を一本だけ残す。祠の“芯”は俺たちの手から離れた。けど、音は戻り、箱は完全には閉じない。十分だ。


赤衣は深追いしてこなかった。祠の周りで布を張り直し、黒帽子に配置を命じている。エスだけが、少しだけこちらを見ていた。彼の頬に、細い風がかかった。彼は目を細めると、踵を返した。


砂縁すなべりの高台、ささやく旗


オアシスから離れた砂の縁の高台で、俺たちはトレノを止めた。エンジンを切ると、耳がじん、と鳴った。静か――だが、“生きた静けさ”。砂の擦れる音、草の葉の触れ合う音、旗の布の鳴る音が、戻っている。


「はぁ~~~~!」


よっしーがシートに沈み込んで、両手を上に突き上げる。「やっぱハチロク最高や! エンジンが歌う! 魂が震える! 平成日本の宝や!」


「よく分からんが、速かった」


クリフさんが素直に認め、ルゥは「石より速い」と短評。ニーヤは「猫よりは遅い」と謎比較をし、エレオノーラは「音が良い」と短く褒めた。あーさんは胸に手を当て、ほっと息を吐いてから、小さく笑った。


「……わたくし、はじめてでございました。“怖さ”の上を、呼吸で越えられるのだと知りました。ユウキさん、手を握っていただき、ありがとうございました」


「俺も、あーさんに握ってもらって助かった」


そう返したら、あーさんの頬がうっすら赤くなり、よっしーが横で「青春やなぁ」とニヤニヤし、ニーヤが「“綴にゃん”!」と余計な尾を付けたので、エレオノーラが「それはやめろと言った」と即座に低音で制した。


旗を立てる。細い支柱に結び、砂に突き立てると、布が高台の風で小さく鳴った。中央の結び目――小さな刺繍の“綴”が光を受けて微かに浮かぶ。家の印。俺の印。あーさんがそれを見て、指で撫でた。


「きれい……糸は、風に生かされますね」


「うん。だから“風の糸”だ」


砂鯨の背骨、土の道を借りる


オアシスの件で長居はできない。赤衣は布を張り直し、黒帽子は獲物を執拗に追う。俺たちは高台からさらに北東へ――砂鯨の“背骨”に沿って進むことにした。砂鯨は石を食うが、碑の“味”は嫌いだ。碑の破片を目印にすれば、やがて“紙の道”の支線に合流できる、とトリスが言っていたのを思い出す。


「“車輪縫”は温存しよう。固いところだけ使う」


「了解や」


よっしーはトレノをごく低速で転がし、俺は〈地継〉で足場の硬度を前もって拾って伝える。ルゥが前走で足場を選び、エレオノーラが周囲の影を見る。クリフさんは時々矢羽根を整え、ニーヤは蝉の抜け殻を拾って帽子に挟み、あーさんは俺の隣で薄く水糸を撚って“乾き”を抑える。


砂鯨の“古傷”の帯に沿って進んでいると、前方に低い雲のような砂煙。砂が水平に走っている。背骨が移動中だ。よっしーが速度を落とし、ルゥが手を上げて停止の合図。砂の丘が、まるで呼吸するように膨らんではしぼみ、少しずつこちらに近づいてくる。


「飲まれる前に、向こうの石帯へ」


エレオノーラが指す。俺は〈重心返し〉で“地面の重さ”を鯨と反対側へ送る。足元の砂が少し固くなり、車輪が取られにくくなる。よっしーがステアを切り、ルゥの示した固い帯へ乗せる。鯨は追わない。背を見せて砂の海へ戻っていく。背に刺さった古い釘が、太陽に一瞬鈍く光った。


「いまの釘、十字やないな」


よっしーがバックミラー越しに呟く。エレオノーラが矢で拾い上げた金属片を指で撫でる。「帝国の印。黒帽子の道具だ」


「赤と黒、別々に見えて、同じ“黙し”の網を編んでる」


俺は旗の糸を軽く弾いた。ここから先、あの二色の影は、ますます重なってくる。だからこそ、俺たちの結び目を太くしておかなくちゃいけない。


紙の道・支線、刻まれた“綴”


夕暮れどき、小高い丘の切れ目――風に削られた岩のアーチの下に、薄い紙の匂いがした。エレオノーラが手で岩肌を撫で、長い一息で「ここ」と言う。俺が指をかけると、空間が紙をめくるみたいに薄くひらいた。支線の“紙の道”だ。


「トレノ、入るか?」


「幅ギリやけど、いけるで。擦っても泣かへん」


「泣け」


「いやや」


番犬みたいなやり取りに、あーさんがくすりと笑う。俺たちはトレノごと紙の道に滑り込み、入口を閉ざした。中はひんやりして、耳が休まる。壁には“ほどく言葉”と古い記号。ところどころに、旗に似た印が刻まれている。――そのひとつに、見覚えのある字が紛れていた。


“綴”


「――俺の字?」


俺は無意識に手を伸ばし、指でなぞった。形は粗いけど、俺が今朝書いた“綴”と骨格が似ている。エレオノーラが少し目を丸くした。


「ここを使った“器”が、いた。……君と似た“名”を持っていたのかもしれない」


「前にも、“風の糸”が通った?」


「かもな」


胸の奥がざわりとした。先達。俺は壁の“綴”の印に、自分の小護符“結び灯”をそっと触れさせた。紙が柔らかく温み、護符が小さく鳴く。道が歓迎してくれている。


《“家の印”刻印:風の糸/“綴”の共鳴+微/紙の道での雑音耐性+微》


紙の道の夜は早い。火は使わず、灯りは小さく。交代で眠る。よっしーはハチロクのボンネットを撫でてから寝袋にもぐり、ニーヤはフロントガラス越しに外の紙壁を見張り、ルゥはトレノの屋根上で丸まって寝た。エレオノーラは弦を緩め、クリフさんは矢筒に布をかける。あーさんは俺の隣で、細い糸を撚ってから胸の前で結び、目を閉じた。


「……あーさん」


「はい」


「ありがとう。今日、呼んでくれて」


「わたくしも、呼んでもらえて、嬉しゅうございました」


紙の静けさに、〈囁き手〉の最小の振動だけを残して、眠りに落ちた。


夢の縁、赤の影と白い部屋


夢は白かった。見知らぬ天井。いつかの最初と同じ。けれど、今回は俺ひとりじゃない。旗の影が、白い天井に薄く映っている。紙の光。風の糸。――その上を、赤い裾が横切った。


「器」


ヤンではない、痣のない赤衣。声は柔らかいのに、芯は氷。彼は白い部屋の真ん中に箱を置く。蓋は開いていない。十字の段は二重。金具は新しい。


「君は“名”を得た。おめでとう」


「お祝いに来たのか」


「祝いは、管理の始まりだ」


赤衣は微笑んだ。「君の“綴”は、美しい。だからこそ、枠に収めよう。――規格の“綴じ”に」


「お断りだ」


俺は旗の影に手を伸ばし、糸をひとつ撫でた。白い部屋の空気が微かに鳴る。赤衣の笑みは薄れない。けれど、裾の端が少しだけ揺れた。


「君は夢で強い。だから、現で会おう」


赤衣は箱を軽く叩いた。「この箱は、夢では開かない」


「現でも、開ける」


「見せてもらおう。――紙の道の北、石と紙の境で」


目が覚める直前、赤衣の裾の内側に、薄い“土の埃”がついているのを見た。碑の原の土。やっぱり、奴らはここを通ったんだ。


紙と石の境、風の門


翌朝。紙の道は北で徐々に薄くなり、石の通路へとつながっていった。出口は“風の門”――岩が風に穿たれてできたアーチ。外に出ると、草が増えて、鳥の声が濃かった。旗が嬉しそうに鳴る。遠くには低い林。その手前に、石の祠に似た――けれど紙の意匠を持つ建物が見えた。


「“紙祠かみほこら”。紙の道の管理者の小さな宿やど


エレオノーラが目を細める。「ここなら、一息つける」


祠の前には、紙を編んだような文様の垂れ幕。入口には、年配の男が座っていた。髭は短く、指先は紙の粉で白い。トリスの書に似た匂い。


「おや。風の糸。そして……“綴”」


男は俺の指輪の護符に目をやり、穏やかに笑った。「紙は君を知っていたよ。よく来たね」


「ここ、赤と黒が嗅ぎ回ってる」


エレオノーラがすぐに用件を告げる。男は頷き、祠の奥を手で示した。「紙の奥に、短い逃れ道がある。けれど、その前に――受け取ってほしい」


男は小箱を取り出した。木でも石でもない。紙を幾重にも重ねて固めた“紙木しもく”の箱。蓋には細い糸の文様。俺が触れると、指輪が鳴った。


「“綴”のための


男は箱を開ける。中には、細い紙の針と、糸。糸は紙の繊維で撚ってあるのに、指に触れると水のように滑らかだ。


《魂片の転写具:“紙針しばり”/効果:結び目の固定(小→中)、〈囁き手〉の“名の飛沫”の散逸防止/副作用:集中時の周辺感覚低下(微)》


「“黙し”の箱をほどくとき、名は飛び散る。紙針で“飛沫”を綴じながら解けば、失われにくい」


「ありがとう」


箱を受け取った瞬間――祠の外の風が、少し冷えた。十字の段の気配。赤衣。俺は旗を握り直す。よっしーがトレノのキーを握り、ニーヤが帽子を深くかぶり、ルゥが石を三つ、指の間に挟む。クリフさんは矢を一本選び、エレオノーラは半歩前。そして、あーさんが俺の袖をそっと引いた。


「ユウキさん」


「あーさん」


「“怖れ”は、今も、わたくしの裾に絡みます。けれど――」


彼女は深呼吸し、胸の前で糸をひとつ結んだ。


「呼ばれたい時に、呼んでくださいませ」


「呼ぶ」


頷くと、祠の外に赤い裾。痣のない赤衣――昨夜の夢の声の持ち主だ。彼の後ろに黒帽子が二。遠巻きに、人々の影もある。市から流れてきた“音”の商人たちが、息を潜めている。


「会いに来たよ、“綴”」


赤衣は祠に近づきすぎない距離で止まり、薄く笑った。「君が“綴じ”たものを、こちらにも見せてほしい」


「箱の中身を“返し”に、だろ」


「言葉は上手い」


赤衣の指が、袖の内側で二度、小さく動く。十字の段の釘の合図。黒帽子が左右に散って、祠の両脇の岩陰をとる。風が少し止み、旗が一拍、静かになった。


「――“風の糸”」


呼ぶ。家の名。旗が鳴り、糸が緊張する。祠の紙が内側から柔らかく膨らむ。紙と石の境で、俺たちは立った。紙針は軽く、しかし確かに指に馴染んだ。


「“黙し”をほどくのは、君たちの趣味になりつつある」


赤衣が薄く笑う。「なら、競争しよう。どちらがより“綴じ”、より“管理”できるか」


「競争じゃない。これは家の仕事だ」


俺は一歩、前へ。赤衣の目が、わずかに冷えた。彼は裾を少し広げ、十字の段を一段、深く踏み込む。空気が固くなる。けれど、祠の紙の匂いが、その硬さを吸って薄める。


「――行こう」


エレオノーラが矢を上げる。クリフさんが弦を鳴らす。ルゥが石を握る。ニーヤが杖の先を地に軽く当てる。よっしーがエンジンキーを捻る。旗が鳴る。あーさんが俺の手を握る。俺は深く息を吸い、紙針を“箱”に向けて掲げた。


箱は――昨夜祠から退かせたものとは別。だが、構造は似ている。十字の段が二重。蓋の縁に古い“結び目”。まず、そこから。


「“綴”、頼む」


「任せろ」


紙針の先に〈囁き手〉の糸を通し、飛び散る“名の飛沫”を拾いながら、十字の結び目を“逆撚り(ぎゃくより)”でほどく。エレオノーラの矢が黒帽子の鎖の起点を打ち、クリフさんの矢が赤衣の側の石に釘の“影”を作って足を止める。ルゥが投げた石が箱の角を正確に叩き、よっしーのエンジン音が“黙し”の膜に楔を打ち続ける。ニーヤが〈風縫い〉で飛んでくる矢を逸らし、あーさんが水糸で紙針の滑りを助ける。


「――開け」


蓋が、音もなく、半ばまで上がった。箱の中から、薄い光と声。紙針で“飛沫”を綴じ、縁へ送る。祠の紙がそれを受け取り、道の壁に吸い込む。赤衣の笑みが一瞬、消えた。


「君は、本当に“綴じ”が上手い」


彼は言い、十字の段をさらに踏み込もうとして――踏み込めなかった。祠の紙が、彼の足の“釘”を拒んだのだ。紙は、管理を嫌う。


「ここは、家だ」


俺は箱の残る結びをほどきながら言った。「俺たちの家。“風の糸”の」


赤衣は目を細め、裾を払って後退する。黒帽子が二歩、三歩、影に戻る。祠の前の空気に、鳥の声が戻ってきた。


「覚えておくよ、綴」


赤衣は最後にそう言って、踵を返した。痣のない横顔は、怒りではなく――興味。嫌なタイプだ。だが、今日は退いた。


旗に刻むとき、家の歩幅


箱を祠の紙に返し終えると、紙の壁に新しい文様が現れた。小さな“綴”の字と、結び目。その横に、あーさんの細い糸の模様。よっしーが「猫耳も」と主張し、ニーヤが「当然ニャ」と得意になり、エレオノーラが「控えめに」と調整し、クリフさんが「目立ちすぎないように」と余白を取り、ルゥが石の印を二つ、そっと置いた。


「さ、進もか」


よっしーが肩を回す。「燃料は、節約モードで“紙の道”を中心に、必要なとこだけ出すわ」


「頼む。あれだけ“歌う”と、また黙しの布も寄ってくるからな」


「歌うんや。車は歌う。魂が共鳴する」


「詩人め」


笑い合いながら、俺たちは旗を畳み、紙の道の奥へ進む準備をする。あーさんが俺の袖を軽く引いた。


「ユウキさん」


「うん」


「“綴”の名。やはり、とても素敵です」


「ありがと。あーさんが“呼んで”くれるから、強くなる」


「では、何度でも」


彼女は微笑んで、小さく「綴」とささやいた。旗が、祠の中でやさしく鳴った。家の音だ。


――そして俺たちは、紙と石の境を抜け、さらに東へ。次の魂片、次の“ほどき”へ。赤と黒が編む“黙し”の網は厚くなるだろう。けれど、俺たちの“綴じ”もまた、太く、確かになっていく。


風は、今日も背中を押してくれる。旗は、それに応える。


家の歩幅で。家の拍子で。

“風の糸”は、歩いた。

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