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黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


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夜明けの残響(星の鐘)

祭りというものは、不思議なものだ。

終わってしまえば、音も光も、あれほど確かだった熱さえ、夢のように薄れていく。

けれどその残り香は、確かに人の心に残る。


夜が去り、朝が来る。

笑い、眠り、同じ卓を囲み、静かに歩き出す。

それだけのことが、旅の中では何よりの節目になる。


これは――

星の町ステルネ・ツィフに、声を出さずに別れを告げた朝の記録である。



 


祭りの灯が静かに消えていった翌朝、ステルネ・ツィフの町はまだ深い夢の底に沈んでいた。

石畳の路地には昨夜の花弁と紙灯籠のかけらが雨上がりのように散り、広場の中央には燃え尽きたかがり火の灰が、薄く白く積もっている。

空は群青から金へと滲み、遠くの山頂には夜明け前の星が、忘れられた宝石のようにひとつだけ残っていた。


宿の窓辺に立つユウキは、冷えた空気を含んだその星を見つめながら、肺の奥を入れ替えるように息を吐いた。


「……なんか、あっという間だったな」


背後で、重い毛布がもぞりと動く。

ニーヤがまだ夢の続きを追いかけていて、小さく「もう食べられませんニャ……」と幸せそうな寝言を漏らす。

よっしーは心地よさそうにいびきをかき、あーさんは椅子に腰かけたまま、朝の祈りの姿勢で浅く眠りに落ちていた。


部屋の扉が、古い記憶を呼び起こすような音を立ててそっと軋み、クリフが入ってくる。肩にはすでに夜露を吸った旅支度の外套。


「起きてたか」


「……あんまり眠れなくて」

ユウキは照れ隠しに笑ってみせた。

「耳の奥で、まだ太鼓が鳴ってるんだ」


クリフは窓際に歩み寄り、共に夜明けの空を見上げた。

横顔に差す青白い光が、彼の刻んできた月日の深さを物語る。


「楽しい夜のあとは、少しだけ心が空っぽになるものだ。だが、それは悪いことじゃない。新しい何かを入れる余白ができたということだ」


低い声には、冬の陽だまりのような穏やかさがあった。


「兄貴みたいなこと言うなよ」


「兄貴分にはなれんが、若い奴の失敗を肩代わりするくらいはできるさ」


そう言って、クリフは手早くユウキのマントの留め金を直した。

指先は無骨だが、驚くほど迷いがない。


「紐が逆だ。これじゃ風が隙間から入って体温を奪う」


「……あ、ほんとだ」


その丁寧な手つきに、ユウキは不意に故郷の兄の背中を思い出した。

もう声の輪郭すらあやふやになりかけていたのに、胸の奥に灯火が宿ったように温かくなる。


窓の外、遠くの教会から鐘の音がかすかに届いた。

ひとつ、ふたつ――しかし三つ目は、待てど暮らせど響かない。


ユウキが不思議そうに首を傾げる。


「……鐘、止まった?」


「この町の古い風習らしい」

クリフが顎を引いた。

「三つ目は“願いの鐘”だ。あえて鳴らさずに残すんだと」


「鳴らさない、願い?」


「誰かの幸せを祈るとき、音を立てずに風に乗せる。言葉にしない願いほど、天まで届くと信じられているらしい」


その言葉に、ユウキは小さく息を呑む。

鳴らさぬ鐘――あーさんが昨夜、赤々としたかがり火の前で、伏せたまつ毛を震わせて呟いた言葉が鮮やかに蘇る。


「……なんか、わかる気がするな。言っちゃうと、消えちゃいそうな気がして」


「そうか」

クリフが短く、満足げに笑った。

「なら、鳴らさなくていい」


やがて部屋が白み、皆がゆっくりと覚醒し始めると、一階から焼きたてのパンの香ばしい匂いが階段を伝って上がってきた。


「……バターの祭りは、今日も続いてますニャ」


目をこすりながらニーヤが起き上がる。


「身体がまだ勝手に拍子とっとるわ……」

よっしーは寝癖だらけの頭を掻きつつ苦笑した。


あーさんは衣装を整え、二鈴の紐を締め直すと、凛とした深呼吸をひとつ。


「本日も、皆さま。慎ましやかに、そして健やかに参りましょう」



宿の一階は、まだ半分眠ったままの空気を抱えていた。

木のテーブルには白布が敷かれ、黒パン、湯気を立てるスープ、蜂蜜と小さな壺のベリージャムが並んでいる。


「控えめに言って……最高ですニャ」

ニーヤが椅子に乗るなり、尻尾をぱたぱたさせた。


「祭りの翌朝は胃が重いもんや思っとったけどな」

よっしーがパンを割る。

「これは逆に“食え”言われとる味や」


「理屈はいい」

クリフはすでにスープを注いでいる。

「身体が動くうちに入れておけ」


「朝から現実的すぎるだろ」

ユウキが笑いながら席についた。


あーさんは皆が揃ったのを見て、静かに手を合わせる。


「――恵みに、感謝を」


短い沈黙のあと、食器の音が重なった。


「……あっ」

ユウキが目を見開く。

「これ、硬いのに中ふわっとしてる」


「それが黒パンや」

よっしーが得意げに言う。

「噛むほど味が出る。人生みたいやろ」


「よっしーさんの人生、噛みすぎですニャ」

ニーヤが即座に返す。


「なんやと!?」


「夢の続きですニャ」

真顔で言われ、誰もそれ以上は突っ込まなかった。


「昨日の勢いで今日も踊り出すなよ」

クリフが蜂蜜を少しだけ垂らす。


「無理やな」

よっしーが肩をすくめる。

「足がまだ祭りに置いてきとる」


「では次は“胃袋の祭り”ですニャ」

ニーヤはジャムを盛りすぎたパンを掲げた。


「それ、完全にアウトな量だろ」

ユウキが指をさす。


「儀式ですニャ」


ひとしきり笑い、湯気が落ち着いた頃。

ユウキがぽつりと言った。


「……こういう朝があるとさ。昨日がちゃんと終わったって思える」


クリフは黙って頷いた。

あーさんは二鈴に指を添え、目を伏せる。

よっしーは最後の一口を飲み込み、ニーヤはパン屑を払った。


「ええ区切りやな」

よっしーが言う。


「そして、次の始まりだ」

クリフが椅子を引いた。



すべての荷を背負い、宿の重い扉を開ける。

朝靄の向こう、鐘楼の屋根には昨夜の残り火のような雪がうっすらと積もり、鳥が一羽、鋭い羽音を立てて金色の空へ飛び立った。


クリフが先頭に立ち、一歩踏み出してから仲間たちを振り返る。


「行こう。星の町に、心で礼を言っておけ」


ユウキは深く頷き、歩き出しながら胸の前で静かに手を合わせた。

言葉にも、音にもせず。ただ心の中の最も深い場所で、ひとつだけ願う。


――どうか、この長い旅が終わる日まで。

一人も欠けることなく、また笑い合えますように。


その祈りが、見えない三つ目の鐘の音となって風に溶けた。

直後、二拍遅れて。

山の端から溢れ出した眩い朝の光が、彼らの背中を力強く押し出した。


挿絵(By みてみん)




後書き


この章では、大きな出来事は何も起きていません。

誰かが戦うことも、奇跡が起きることもない。


けれど、旅を続けるために一番大切な時間を書きました。


・祭りが「終わった」と実感すること

・鳴らさない鐘に、願いを預けること

・朝食を囲んで、昨日を笑いに変えること


これらはすべて、「次へ進むための儀式」です。


クリフの言う通り、

心が少し空っぽになる瞬間は、何かを失った証ではありません。

新しい景色や出会いを迎え入れるための、余白です。


そして――

この旅はまだ続きます。

鳴らさなかった三つ目の鐘は、いつか別の場所で、別の形で、彼らの背中を押すでしょう。


その音が聞こえる日まで。

どうか、もう少しだけお付き合いください。


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