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黄昏に鳴らぬ鐘、イシュタムの魂を宿すさえない俺  作者: 和泉發仙


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灯の湖、ほどける影




(主人公・相良ユウキの視点)


湖は、空を二度置いていた。昼の残り香みたいな薄橙が水面に滑って、波の縁が銀にほぐれる。湿った風が、ほんの少しだけ藻の匂いを連れてくる。俺たちは湖畔の小高い丘に陣を張り、焚き火を低くして“風縁ふうえん”の糸をひと結び増やした。


紙片――“名の紙”は、革袋のいちばん奥。指で触ると、うっすら体温を吸って、じきに返してくる。名を決める日は、まだ来てない。けど、心のどこかで、いくつかの音節が生まれては消えていた。


「ユウキ。油、借りる」


エレオノーラが弓の弦に油を引く。ルゥは石を磨き、よっしーは虚空庫から鉄鍋を取り出して、湖魚と山胡桃の“カツ”を揚げ始めた。じゅわっと油が鳴る。千鶴は水場で布をすすぎ、ニーヤは杖の先で焚き火の灰をならす。


「黒帽子の臭いが、風に乗ってる」


エレオノーラが湖の向こうを見ながら言った。「帝国の斥候。足音は軽いが、靴底が硬い。音が残る」


「トリス叔父上のところへ戻る気配は?」


「いまはない。けど、灰の帯は狭い。きっとまた嗅ぎ回る」


風が頬を撫でた。耳の奥の“風読み”が、針みたいに方向を指す。北東に細い笛。南には太い息。湖の中心からは――静けさ。静けさもまた音だと、いまはわかる。


「……あの灯、なんや」


よっしーが揚げ鍋の向こうを指さす。湖面に、ぼう、と柔らかな光。やがて二つ、三つと増える。小舟に提げられた灯だ。帆はなく、長い櫂で水を押している。舟縁には紙灯籠。灯は水にすっと映って、舟が動くたび、細い道を描く。


「“結いゆいぶね”だ」


クリフさんが立ち上がる。「この湖では、夜ごとに『結い流し』をする。灯に願いを託し、悪い“縁”をほどいて水に返す。――人が消えたときも、やる」


「人が、消える?」


エレオノーラが目を細めた。「最近?」


「二夜前だ。若い舟守が一人、帰らなかった」


風が少し冷えて、火が低く伏せた。湖の真ん中――さっき“静けさ”があった場所――に、うっすら黒い穴のような影が見える気がした。


「ユウキさん」


千鶴がそっと袖を引く。「わたくし、今夜の『結い流し』を手伝ってもよろしいでしょうか。ほどく儀は、糸に似ております。学びたい」


「賛成や」


よっしーが頷く。「ワイも舟、漕いでみたいわ。大阪の水路でスワンボートのったときの勘がまだ残っとる」


「スワン?」


「白い鳥の形の……ええわ、また今度」


ルゥは短く「いく」と言い、ニーヤは「水の上の風は、猫でも読めるニャ」と尻尾を立てた。


じゃあ――行こう。俺は立ち上がり、指輪を確かめてから腰帯を締め直した。


灯舟師あかりぶねしカヤ


湖畔の小さな桟橋には、紙灯籠を載せた小舟がいくつも浮かんでいた。舟の縁は薄く、その薄さが水を切る。灯籠の紙は繊維が荒く、ところどころに手の跡が残っている。紙の匂い――“紙の城”の匂いに少し似ている。


「舟を借りたい」


クリフさんが低く声をかけると、舟守たちの中から一人、短髪の女性が出てきた。頬に薄い傷。腕はしなやかだが、筋が強い。黒い外套の裾が水を吸って重くなっているのを、気にしていない。


「私はカヤ。見慣れない顔だね。……“風の糸”の者?」


「えっ」


俺が思わず目を丸くすると、カヤはふっと笑った。「灯は風の糸をよく見る。君たちの間に、細い光が渡ってる。――それ、便利そうだ」


「見えるのか」


「灯をずっと見てると、見えるようになるのさ。夜は、目が覚えてる」


カヤは手早く舟を寄せ、灯籠を二つ増しで積む。「消えたのは私の弟子だ。名はリト。灯の芯の撚りが上手い子だった。……水は返してくれない。だから、灯に頼る」


「弟子さん、どちら側で消えたか、わかりますか」


千鶴が静かに訊く。カヤは湖の中央を指さした。「『静けさ』の縁。あそこは昔から、音が吸われる。声をかけても、届かない」


届かない声。“風縁”は届くのか。試す価値がある。俺は千鶴、よっしー、ニーヤ、クリフ、エレオノーラ、ルゥに軽く結び目の合図を送り、舟に乗り込んだ。舟は驚くほど軽い。座る位置がずれると、すぐ傾く。ルゥが無言でバランスを取り、エレオノーラが前、クリフさんが後ろで見張り。ニーヤは帽子を押さえ、尻尾を器用に舟べりにかけている。千鶴は灯芯の撚り方をカヤに教わり、よっしーは虚空庫から“櫂に巻く布”を出して握りを増し、……いや、どこにそんな布が。


「昔、ボート部の先輩が巻いとったんや」


「ボート部?」


「ええわ、また今度」


灯が揺れ、舟がするりと湖に滑り出た。岸が後ろに引く。水面の黒が深くなる。星が水に落ちて、揺れて途切れる。風は……静かだ。静けさの音。耳鳴りが逆に、指針になってくれる。


「――聞こえる?」


エレオノーラが小さく囁く。俺は頷く。静けさの中に、薄い笛の音が一本、立っている。人の呼吸を真似るくらい、細い。“風読み”がその方向を揺らす。


「ユウキ殿」


クリフさんが小声で言う。「“囁きウィスパラー”を使い、名前を呼べるか」


「やってみる」


俺は“風縁”の糸に指を添え、静かに名前を置く。“リト”。水が小さく震えた気がした。返事は――ない。けれど、笛の音が一瞬、強くなって、すぐ消えた。


「届いてる」


カヤが櫂を止めた。「もう一度」


俺は今度、“呼び”を深くせず、軽く、置くように呼んだ。“リト”。笛の音がかすかに跳ねる。リズム。返る呼吸。水面に、微かな泡。


「いる」


ニーヤが帽子のつばの陰で目を細めた。「水の下、薄い膜の向こうニャ。“音の膜”ニャ」


膜。風の糸で縫い目を作れば、破れるか? いや、破るのは危険だ。中にいる“誰か”を傷つける。ほどくべきは、縫い目の“結び目”――鍵だ。


「千鶴」


「はい」


「“水糸”を貸して。俺の“結び目”に合わせたい」


千鶴はうなずき、指先で水を撚る。薄い水の糸が指の間で生まれる。俺は皮紐と“風縁”を合わせ、千鶴の水糸を結ぶ。“風水の結”。指輪があたたかく鳴った。


《“結び目”拡張:水渡みずわたし/効果:水中への“名の伝播”安定化(小)、呼吸同期(微)》


「リト」


俺はもう一度呼ぶ。今度は、胸の内側の呼吸を“結び目”に渡して。静けさが一瞬、薄くなった。水の下から、脈。弱い、でも確かに返る“呼吸”。千鶴の瞳に涙がにじむ。


「……届いております」


「引くか?」


クリフさんが櫂を握り直す。カヤは首を振る。「ここで引いたら、膜が閉じる。――“灯結ひむすび”をやる」


カヤは灯籠の紙を一枚剥がし、指で素早く折り始めた。鶴でも舟でもない。不思議な形。折り目は少なく、でも強い。最後に灯芯を通して火を移す。灯は紙の形の中で静かに揺れ、熱が折り目をなぞる。


「“灯結”は、灯の熱で結び目をゆるめる技だ。灯の折りは“片っぽ”をほどく。――もう片っぽは、君たちの“名”で」


「任せて」


俺は皮紐の結びを半分だけほどき、もう半分を、千鶴の水糸と絡め直す。風の糸が軽く鳴り、水の糸が温む。ニーヤが小さく呪を唱え、風の流れを灯へ誘導する。よっしーは虚空庫から“風よけの板”を出して灯を守り、ルゥは舟の傾きを目で制している。エレオノーラとクリフさんは、周囲の影に目を配る。


「いくよ」


カヤが灯籠を水にそっと置いた。灯は水に沈まず、薄い膜の上に浮いて、ゆっくりと縫い目に滲みる。熱で結び目がほどけ――た、その瞬間。


湖の反対側から、細い矢の音。ひゅん、と空気が裂ける。エレオノーラが先に動いた。矢を短剣で弾く。火花。油の匂い。黒い影が柳の陰から現れ、また矢を番える。帽子は黒。――帝国の“黒帽子”。


「狙いは灯か。いや、“灯結”だな」


エレオノーラが低く言った。黒帽子は三人。足場が悪いのに、軽い。湖岸の葦の中を、ほとんど音を立てずに移動する。矢は灯の縁、結び目の“温み”を狙ってくる。ほどける前に、封じ直す気だ。


「狙わせへん!」


よっしーが立ち上がって、虚空庫から――網。目の細かい投網をひょいと取り出し、黒帽子の足元へ投げる。網は水際で半分沈み、足に絡む。黒帽子が体勢を崩した一瞬、クリフさんの矢が音もなく飛ぶ。矢は足元の石に当たって跳ね、石片が目に入る。黒帽子の動きが鈍った。


「ニーヤ!」


「任せるニャ!」


ニーヤが杖を振り、〈風縫い〉の呪を短く編む。風が細くねじれ、矢の軌道をわずかにそらす。エレオノーラがその隙に舟を押し、“灯結”の位置を守る。


俺は――“ほどく”ほうに全てを寄せる。皮紐、水糸、風糸。名。“リト”。灯の熱。胸の呼吸。――ほどけ。


膜が、音もなく裂けた。水が一度、沈んで、すぐに戻る。灯の下から、手。白い、痩せた手。カヤが両腕を伸ばして掴む。千鶴が水を支える。ルゥが舟を安定させ、俺は結び目を緩め続ける。


水から顔が上がる。咳。呼吸。目。――生きてる。


「リト!」


カヤの声が震えた。弟子の青年は水を吐き、薄い声で「師匠……」と呼んだ。声が“風縁”に乗って、俺たち全員の胸に届く。返る“結び”。俺は一つ、結び目をほどいた。灯は静かに小さくなり、水に溶けた。


「撤収!」


エレオノーラが短く言う。黒帽子は二人目が網を避けて射程に入りかけていたが、クリフさんの矢が葦の根を打ち、足場を崩す。ニーヤが〈水煙〉を立てて視界を遮り、よっしーが虚空庫から“濡れても滑らない布”を出して舟べりに巻き、ルゥが櫂を渡す。カヤが舵を切り、俺たちは風下へ滑った。


湖岸に戻るまで、矢は飛んでこなかった。黒帽子は追わない。狙いは“灯結”を壊すことだった。壊せなかったから、引いた。


桟橋に舟をつけると、村人たちが息を飲んで集まり、リトを抱え上げる。カヤは膝をつき、額を舟に押し当てた。肩が震える。千鶴がそっと背を撫でる。よっしーは「よかったなあ」と鼻を啜り、ルゥは少し遠くで空を見て、エレオノーラは矢羽根を一本ずつ整えて、クリフさんは湖を振り返って長く息を吐いた。ニーヤは帽子を脱ぎ、胸に抱いた。


「ありがとう」


カヤが顔を上げ、俺たちを見た。「灯は、君たちにもついた」


「ついた?」


「『結い流し』の灯は、助けてくれた者に一つ残るんだ。――“ほどく手”に」


カヤは紙灯籠の余りを一枚ちぎり、器用に折って、小さな結びの形を作る。灯芯は通さず、かわりに細い麻糸を結び目に通して、俺の指輪の鎖に軽く結んだ。紙の結びは軽いのに、不思議と温い。


《小護符:“結びむすびび”/効果:結び目の安定(微)、夜間の“風縁”強度+微》


「こっから先、灰の帯を抜けるなら、南岸はやめとき。聖務局が夜営を移した。北西の古い石橋を渡るといい。橋の下に“紙の道”の続きがある」


カヤの声は、舟の上と違って、地に足がついていた。俺は頷き、護符にそっと触れた。


石橋の下、紙の道の続き


北西の石橋は、古い巨人が積んだみたいな大きな石でできていた。欄干は崩れ、苔が盛り上がっている。橋を渡る旅人は少なく、下を流れる川は浅く速い。月が川面に砕けて、白い鱗みたいに光る。


「ここだ」


エレオノーラが足を止め、橋の基底の陰に手を差し入れる。指が空をつかむ。空気が、紙の匂いになる。薄い入り口。紙をめくるみたいに、空間が開いた。中は狭いが、清潔だ。足音が吸われる。壁に細い“ほどく言葉”が書かれていて、触ると少し熱い。トリスの手か、その祖の手か。


「叔父上、ありがとう」


エレオノーラが小さく呟く。俺たちは一列になって、その“紙の道”を進んだ。天井が低いところでは体をかがめ、広いところでは息を整える。“風縁”はよく通る。耳鳴りは弱く、かわりに紙の擦れる音が胸に入ってくる。


「……前に人」


ルゥが立ち止まる。風が微かに渦を巻く。角をひとつ曲がった先に、灯り。紙のランプ。――トリスだ。彼は椅子に座って、厚い本を膝に置き、目だけこちらを見た。口元に笑み。


「無事で、なにより」


「叔父上、黒帽子は?」


「紙の上では滑る。……聖務局は嗅ぎつけたが、まだ扉の前だ」


トリスは俺に目をやる。「湖は、よくほどけたか」


「はい。『灯結』で」


「良い師だ。――君は“風と水の結び”を覚えた。次は“土”だ」


トリスは机の引き出しから、小さな木箱を出した。蓋を開けると、中に土色の石。角が丸く、掌に収まる。表面に細い線が走っていて、糸みたいだ。


「“土糸つちいと”。古い土の記憶がついている。握って歩けば、足場が強くなる。君の“結び目”に通しなさい」


俺は石を受け取り、皮紐の結び目にそっと触れさせる。指輪があたたかく鳴り、石の線が一瞬、光った。


《“結び目”拡張:土渡つちわたし/効果:足場形成(微)、落下時の衝撃緩和(小)》


「ありがと……」


「まだある」


トリスの眼が、少しだけ厳しくなる。「“赤衣”は、君の名を求める。番号で管理できないから、名を奪いたい。名は、奪われると、弱る。――だから、“選んで”持て」


「……はい」


紙片の重みが、急に心に乗る。名。俺の名。選ぶ。結ぶ。――ほどく。


「焦るな」


トリスは笑って、手を振った。「風は急かさない。……それより、今夜はここで休め。“紙の道”は、眠りを守る」


夢の縁、紙の守り


紙の道の広間に薄い寝台を敷いて、俺たちは交代で眠った。紙の壁に背を預けると、奇妙に安心する。耳鳴りは、紙の音に紛れて静かになる。灯りは低く、熱は弱い。


眠りに落ちたあとのこと――夢は、湖と似ていた。水面に星。紙の灯。遠くに、“見知らぬ天井”の白。歩いても歩いても届かない天井。俺はその下で立ち尽くし、手の中の紙片に目を落とす。紙片には、まだ何も書かれていない。指を動かす。書けない。書いたら、何かが終わる気がして、怖い。


「――器」


薄い声。白の向こうから、赤。十字の段。ヤンではない。別の赤衣。裾が、風ではなく“夢”に揺れる。彼は微笑む。


「夢の中では、名は甘い。君は甘いものが好きだろう」


「甘いのは好きだけど、お前のは苦そうだ」


「君は慣れていく。甘くて苦い味に。管理の味だ」


赤衣は紙の端をそっと摘む。紙が冷える。指輪が鈍く鳴る。俺は手を引く。紙はついてくる。赤衣は一歩、近づく。


「名は、管理の道具だ。君が名を持てば、我々はそこに針を打てる」


「お前らの針は、抜ける」


「……抜いたな」


赤衣はわずかに笑った。笑いは、どこかで見た笑いに似ていた。ヤンと同じ“教え”の笑い。彼は一歩、退いた。「では、また。君が書く日まで」


夢の白が薄くなり、紙の匂いが戻る。目を開ける。壁の“ほどく言葉”に触れる。熱。守られている。紙は、夢の針をほどく。


隣で寝返りを打った千鶴の髪が紙にさらりと触れ、音が糸になって胸にかかった。俺は小さく「大丈夫」と“風縁”に置いた。返る「はい」が、すぐそこに届く。


朝――“風の糸”という家


紙の道を出ると、朝は薄灰だった。石橋の上に霜。息が白い。湖の向こうに、細い煙。村は生きている。俺たちは荷をまとめ、北西へ向かった。目指すは、帝国と聖教国の“灰の帯”を抜けた先――広い平原の手前にある“音のいち”。そこに、次の魂片の噂があるらしい。


道中、俺たちは“風縁”の糸で小さく話し、時々は声で笑い、結び目を結び直した。よっしーは虚空庫の“カツサンド”を得意げに振る舞い、ルゥは石を拾っては投げ、エレオノーラは空の鳥の数を数え、クリフさんは足跡を読み、千鶴は糸を撚り、ニーヤは尻尾で砂に猫文字を書いた。その猫文字を、ブラックが横切って消す。俺は指輪を撫で、紙片に触れ、風を読む。


昼過ぎ、丘を一つ越えたところで、道端に小さな祠があった。祠の扉に結ばれた布が、風に揺れる。布には名前が書かれている。この土地の人の、ちいさな、しかし強い“名”。


「名は、家の柱」


千鶴が布に触れ、目を閉じる。「わたくしは、ここでも“家”を持てますでしょうか」


「持てる」


俺は言った。「“風の糸”は家だ。千鶴の家は“千鶴の家”で、俺たちの家は“風の糸”。重ねて持てる」


「……そうですね」


千鶴は微笑み、布を結び直した。布の結び目は小さい。けど、ほどけない。


「なあ、チームの旗、つくろか」


よっしーが突然言った。「“風の糸”の紋。ワイ、デザインするで。猫要素いれてな」


「猫は必須ニャ」


ニーヤが即答。ルゥは「石も」と条件をつけ、エレオノーラは「弓は控えめに」と小さな注文を出し、クリフさんは「目立ちすぎぬこと」と現実的な釘を刺し、千鶴は「水の波も」とそっと添えた。俺は笑って「紙の城で旗布、もらえるかな」と言い、みんなでうなずいた。


音の市、売られる“声”


平原の端、“音の市”は、思ったより静かだった。いや、静かに“騒がしい”。各所で小さな音が鳴っている。鈴、笛、金属、紙、骨。音を売り、音を買う市。露店には“声瓶こえばこ”が並び、瓶の口を開けると笑い声が飛び出したり、子守唄が漏れたりする。風鈴屋の軒先には“野の風”“谷の風”“街角の風”と書かれた札。風を束ねて売るらしい。――“風の糸”がくすぐったそうに震えた。


「魂片の噂は?」


エレオノーラが耳の良い露店主に小声で訊く。店主は眉を動かし、「“声の箱”の奥だ」と囁いた。「『もだしの箱』を扱うやつがいる。聖務局が目をつけてる」


「黙し?」


「声を封じる箱。名も封じる」


背に冷たい風。名を封じる箱――赤衣の好みの道具だ。ほどく必要がある。俺は指輪を押さえ、“風縁”でみんなに短く合図を送った。エレオノーラが先に歩く。よっしーは虚空庫の中身を確認し、ルゥは石を一つ軽く握り、千鶴は水を指にひと筋のせ、ニーヤは杖を袖に隠し、クリフさんは弓の弦をほんのわずか緩める。緩めるのは、早撃ちの前触れだ。


“声の箱”の露店は、市のいちばん奥、布で囲われた小屋の中にあった。中には瓶や箱が棚に並び、空気が、妙にひんやり重い。店主は細い男。目が笑っていない。指は箱の縁を撫でるのに慣れている。棚の奥、布の陰に赤い裾の影。――いた。赤衣。二人。裾は揺れている。夢ではない。うつつ。ヤンではない。目が、冷たい。


「“黙しの箱”を」


赤衣の低い声。店主が箱を取り出す。黒い木。金の飾り。蓋に、十字を模した古い紋。――最悪。


「待った」


俺は一歩、踏み出した。紙の護符――“結び灯”が、指輪の鎖でかすかに鳴る。赤衣の目が、わずかにこちらを見た。


「器」


「“箱”は渡さない。――それは“名”を殺す」


「名は、管理のためにある」


「名は、結ぶためにある」


目が、正面からぶつかった。赤衣の裾がふわりと持ち上がる。十字の釘の音。俺の耳鳴りが、それに重なる。――“ほどけ”。俺は指で見えない釘を探り、一本、静かに引いた。赤衣の足元の音が、一瞬、外れる。彼の目がわずかに揺れた。店主が舌を打ち、箱に手を伸ばす。よっしーの手が先に箱を払う。箱が宙で回り、ルゥの石が箱の角に当たって、ぺり、と金の装飾がはがれた。千鶴の水糸が蓋の隙間に滑り込み、ニーヤの風がその隙間を押し広げる。俺は“結び目”で蓋の結界を半分ほどき、エレオノーラの短剣が最後の釘を弾いた。――蓋が開く。


中は、からじゃなかった。薄い、灰色の“声”。数えきれない囁き。名前。呼びかけ。泣き声。笑い。――押し込められ、黙らされ、音になれなかった音が、一度に息をした。箱から、風。市の鈴がいっせいに鳴る。赤衣が袖を払って結界を張り直そうとする。俺は“囁き手”で、その風に名前をひとつ、渡した。


“風の糸”。


箱から出た“声”が、いっとき、俺たちに結びついた。ほどける。赤衣の十字の段が、二段、崩れる。彼は舌打ちし、布の陰に退る。もう一人の赤衣が手をかざし、棚の瓶がいっせいに倒れる。声が飛び散る。市が騒ぐ。――混線。


「退く!」


エレオノーラの声。俺たちは箱を抱え、布をめくって小屋の外へ飛び出した。人の波。鈴の波。風の波。赤衣の裾。黒帽子の影。――全部、音。俺の“風読み”が悲鳴を上げる。


「ユウキ殿!」


クリフさんが肩を押し、よっしーが手を引く。ルゥが先に道を開き、千鶴が水で足跡をごまかし、ニーヤが〈猫影キャット・シェイド〉を踏んで影を増やす。エレオノーラが背後を見張り、赤衣の十字の釘を二本、短剣で切る。俺は箱の蓋を半分閉じ、“声”の流出を抑えつつ、釘の向きを逆にする。十字の段が、逆に“ほどけ”に向いて、赤衣の足場が勝手に崩れる。


市の外へ飛び出し、路地をひとつ曲がり、二つ曲がり、石段を降りて、人の少ない水路沿いへ。橋の下、薄い陰。“紙の道”の続きの入り口。――また、紙の匂い。俺たちは滑り込み、扉を閉じた。外の音が、紙に吸われる。


箱は、俺の膝の上にある。重い。中から、いくつもの小さな“呼び”が震えている。名。名前。――封じられた名。俺は蓋に手を置いた。


「ほどこう」


「全部は無理だ」


エレオノーラが肩で息をしながら首を振る。「赤衣が追ってくる。少しずつ、確かめながら」


「名前は、急いで呼ぶものではない」


千鶴が静かに言う。紙の道の灯が彼女の頬に柔らかく揺れる。「間違って呼ぶと、どこかが切れる」


「せやな。順番決めよ」


よっしーが箱の縁に布を敷き、上に小さな石を置いた。ルゥが石の数を数え、ニーヤが尻尾で〇を書き、クリフさんが「見張りを一人置いたまま」と配置を整える。俺は深呼吸をひとつして、箱の中の声に耳を澄ませた。


“――だれか”


声は、ひどく小さかった。幼い。震えている。俺は“囁き手”で、その声の縁に名前を置く。


「君の名は?」


“……ミオ”


「ミオ。――ここにいる」


“こわい”


「大丈夫。ほどく。……ミオ」


箱の中で小さな結び目がほどけ、薄い光が糸になって指に絡む。紙の灯がふっと明るくなり、箱の重みがほんの少し軽くなった。ミオの“名”は、箱から出て、紙の道の壁の“ほどく言葉”に吸い込まれ、どこか、正しい場所へ帰っていった。


俺は息を吐いた。胸の奥が熱い。指輪が、静かに鳴る。みんなの“風縁”が、柔らかく震える。――家の中で、誰かの名前を呼んだ夜の感じ。膝に、重さが戻る。箱にはまだ、たくさんの“声”。


「できるか」


エレオノーラの問いに、俺は頷いた。「少しずつ。歩きながら」


「歩く」


クリフさんが箱を持ち上げるのを手伝い、よっしーが布でくるみ、ルゥが道を開き、千鶴が水で紙を湿らせ、ニーヤが灯を守り、エレオノーラが前を見て、俺は名前を呼ぶ。――“風の糸”という家の中で。


それから――風は東へ


紙の道を抜け、再び外に出ると、東の空が高く晴れていた。風は乾いて、少し暖かい。遠くに草原。草が波になる。灰の帯の匂いは遠のき、“音の市”の鈴も、いまはもう聞こえない。


「次は、東の“いしぶみの原”」


エレオノーラが地図を指す。「古い碑文に『土の記』が眠っている」


「“土渡”が役に立つな」


ルゥが短く言う。千鶴は「碑文……文字……」と胸に手を当て、よっしーは「旗の布、途中で買お」と笑い、ニーヤは「猫用の紐も」と尻尾を揺らし、クリフさんは空を見て「雲が増える。夕立に気をつけろ」と言った。


俺は指輪を撫で、“名の紙”に触れる。夢の赤衣は、きっとまた来る。名を書かせたがって。――でも、俺は、俺の“家”に向かって書く。


「行こう、風の糸」


呼ぶと、風が、確かに返事をした。紙の護符が鳴り、みんなの足がそろう。丘を一つ越え、二つ越え、草原へ。風は歌う。結び目は増える。ほどくべきものも、増える。


名を選ぶ日まで。名を呼び、名を返しながら。俺たちは東へ歩いた。風は、背中を押した。

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