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フルーネンヴェルクの町、そして“記録院”


翌朝。霧は晴れ、斜面をくだる風は乾いていた。俺たちは野湯から一刻ほど歩き、谷を抜け、小高い丘の上に街を見た。白い石の城壁、風見鶏、青い屋根。商隊の旗が並び、門前には露店。旗に描かれる紋様は聖教国のものではない。ここが聖教国と敵対しない中立商業都市――フルーネンヴェルク。


「ここなら、身分証の代わりになる“記録牌”が取れる。聖教国の検問に遭っても一応の顔が利く」


クリフさん先導のもと、俺たちは街に入った。城門の傍ら、書き物台の多い建物があった。扉に吊られた銅板には《記録院レジストラ》の文字。冒険者ギルド……ではなく、公的な台帳管理機関らしい。受付で手数料を払うと、素性をいくつか書かされ、魔法で見るだけの簡易検め。俺の前に立った老人書記は目を細め、俺の手の指輪を一瞬だけ見て、何も言わずに羽根ペンを走らせた。


「うちは、信仰も素性も問わない。ただ、己の行いの記録だけ残す。悪事はすぐ露見する。覚えておけ」


渡された薄い木板には、俺たちの名前と簡単な特徴、それから“行動履歴:未登録”の欄。仕事を請ければ刻まれていくのだという。


外に出ると、昼の鐘が鳴った。通りの向こうから、香ばしい匂い。屋台の鉄板で焼かれる串肉。よっしーが財布の紐を握った瞬間、俺はその手首を掴んだ。


「まず宿!」


「ケチやなぁ、令和ボーイは」


「生き延びることが最優先。肉はそのあと」


結局折衷案で、屋台で焼きパンを買い、宿“青い山猫亭”に入った。木の梁の大広間でパンを齧っていると、入口の扉が少しだけ開き、外の光が床板に細い線を描いた。影がひとつ滑り込み、俺たちの卓から二つ離れた席に腰を下ろす。


黒装束――ではない。旅人の皮外套、日除けのフード。けれど、動きは軽く、視線は流れず、場の全てを測る者のそれだった。


「……追ってきたな?」


クリフさんの声は低い。よっしーが虚空庫の中で何かの柄を握る仕草。千鶴は手元の水杯から目を上げ、ニーヤは帽子の縁を指でつまむ。


その旅人は、俺たちの視線が集まったのを見て、ふ、とフードを下ろした。


「脅すつもりはない。話を、しに来ただけ」


現れたのは、落ち着いた琥珀色の瞳を持つ女だった。肩までの赤銅色の髪。三十路前後だろうか。左の耳に銀の輪が二つ。腰には細身の剣と短弓。


「名はエレオノーラ。……“あの夜”、君を斬りかけた者たちの“別派”だ」


空気がぴんと張る。黒装束の鎌使い――あの冷たい刃の記憶が背筋を冷やす。


「誤解を解きに来た。私たちは“ともしびともがら”。聖教国の圧政に反旗を翻す、たしかに反乱者だ。だが――君たちを殺す意志はなかった。連中は“硝子のグラス・サイス”。同じ大義を名乗るが、手段を選ばぬ連中さ」


エレオノーラは、懐から小さな布包みを取り出し、卓に置いた。布をめくると、中には錆びた鉄の徽章。十字に似た二枚刃の意匠。その中心がわずかに欠けている。


「硝子の鎌の印。君たちの馬車を襲ったのは、こいつらだ」


クリフさんが眉を寄せる。「その証を、なぜ我々に?」


「頼みがあるから。――聖教国の兵士長、バーグ。君らの話に出たはずだ。彼が動く。三日後、《アレクサル収容施設》から“商品”を帝国へ移送する。北のアルフェンヌ帝国へ。道筋は峡谷の一本。護衛は厳重だが、突破口はある」


よっしーの拳が膝の上で握られる。千鶴の唇がかすかに震える。俺の胸の奥に、あの鉄臭い地下の空気が蘇った。血の匂い。泣き声。鎖の軋み。


「……救えるのか?」


「君たちが、協力してくれるなら」


エレオノーラは、まっすぐに俺を見た。琥珀色の眼は、怯えも傲慢もなく、ただ熱だけを帯びている。


「私たちだけでもやる。だが、足りない。――君、ユウキ。君には“道を視る目”がある。そして、治癒の光。クリフには内部の知識と射の腕、盾士には不可視のアイテムボックス。彼女(千鶴)にはまだ眠る“水糸”の素養。猫魔導士には連環の魔法。揃いすぎている」


ニーヤの尻尾がぴん、と立つ。「わ、わたしも役に立つニャ?」


「もちろん」


エレオノーラは一枚の粗い地図を卓に広げた。フルーネンヴェルクの北、崖を食むように続く峡谷。そこを縫うように細い道。赤い印が三つ。


「ここで三度、護衛の布陣が変わる。最初の狭路で先頭の荷車の車軸を折る。二の曲がり角で高所から目を奪う。三の落ち口で――」


「待て」


クリフさんが指を地図に置く。「バーグは用心深い。彼の得物は“光輪の盾”。祈祷で展開する広域防壁だ。視界を奪っても、攻撃は弾かれる」


「だからこそ、君が要る。聖教国式の祈祷の節――“祈りの鎖”の隙を知っているのは内部の人間だけ」


「……やれるかは、わからない」


「やるしかない」


俺の喉の奥で、噛み殺した声が出た。胸の底から、熱と冷たさとが、交互にせりあがってくる。


「三日で、準備する」


エレオノーラは短く頷く。「今夜はここに宿る。明朝、谷の下見に行こう」


彼女が立ち上がり、俺たちに背を向け――ふと、振り返った。


「ユウキ。……君を視ている目が、ある。君の指に嵌ったそれ――」


彼女の視線が、俺の指輪をかすめる。


「古い友が、似た光を帯びていた。名は……今はまだ言わない。確かめる」


言い残し、彼女は去った。


下見、そして“準備”


翌朝、俺たちは峡谷を下見した。朝霧が棚引く谷は、上から見下ろすと一本の裂け目に過ぎない。足場は悪く、車列は一列でしか進めない。崖沿いの岩棚は人一人がやっと。崖上には、風で彫られたような小さな洞。鳥の巣と、乾いた苔。ここから射れば、確かに一撃は通る。


「車軸を折る“釘”(くぎ)は用意できるか?」


エレオノーラの問いに、よっしーが得意げに虚空に腕を突っ込み、銀色の棒を取り出した。


「角材用スパイク、耐荷重三トン相当。あと、タイヤチェーン……いや、この世界にタイヤはないな。せやけど馬車のわだちに落とし穴を作るなら、これと縄で罠を仕込める」


ニーヤは杖先で小石を浮かべ、くるりと回した。「目を奪うのは“土埃”。乾いた苔と砂を渦にして投げ込むニャ」


千鶴は、両手を胸の前で組んだ。「わたくし……水糸が、うまく張れるかわかりません」


「千鶴殿は、織りの素養がある。水を糸にして絡める術なら適性が高い。やれる」


クリフさんは短い言葉で背中を押し、エレオノーラは土色の小瓶を渡した。


「“石の息”。吸えば気付け、目に入れれば涙、土に撒けばひび割れる――少なくとも馬は足を竦ませる。……が、風の読みは慎重に」


帰りがけ、俺はどうしても気になって、野湯の穴へ立ち寄った。印はそのまま。覗き込めば、暗闇の底で青い光が糸のように走り、消える。


《魂片:眠る/開扉、条件未充足》


“優しさ”は鍵のひとつ。まだ何か足りない。俺は唇を噛んで、指輪を親指で撫でた。


夜、宿に戻る前に“記録院”で地元の通達が貼られた掲示板を見た。そこには、簡素な筆でこう書かれていた。


――“見知らぬ天井に目覚めた者へ。道がわからぬなら、南市の石工組合を訪ねよ。賃金と寝床あり。身命の危険、少なからず”


「……見てるやつがいるんだな。俺たちみたいな、転移者を」


声にすると、胸が少し軽くなった。


三日後の峡谷


朝。空は薄い錫色。鳥の鳴き声が鋭い。峡谷に張った綱に、鈴虫の翅のような“水糸”が数条きらめく。千鶴が汗を滲ませて左手を差しのばし、右の指先で糸を撚る。糸は目に見えないほど細いが、指には確かな抵抗があった。


「すごい。ほんとに糸になってる」


「織物の要領でございます。たて糸とよこ糸を……」


千鶴は小さく笑った。そこに、俺が魔導書の白紙を開いて置く。いつの間にか、ページの端に薄く水色の紋が浮かんでいた。《水糸:基礎》――ページは、やはり俺たちの行いで埋まっていく。


崖上にはクリフさんとエレオノーラ。ニーヤは俺の隣で杖を構え、よっしーは岩陰で“スパイク”を仕込んでいる。ブラックは高く舞い、谷口の向こうを見張る。


風が一度、谷を抜けた。


「来る」


最初に現れたのは斥候二騎。聖教国の白い外套に金の縁取り。馬の鼻先が水糸の鈴に触れ、わずかな音を立てた。馬が耳を伏せる。斥候は気づかない。次に旗騎――“十字聖教”の黒旗――そして護衛の歩兵二列、盾と槍。中央に鉄帯の大型馬車。車体の窓は格子。中から小さな音――鎖の鳴る音が耳に刺さる。後衛には、金の鎧に角張った肩当て。バーグ――


「先頭、いま!」


よっしーのスパイクが轍に噛み、車軸が悲鳴を上げる。先頭の荷車ががくんと傾ぎ、馬が前脚を折った。怒号。隊列が乱れる。崖上からクリフさんの矢がひとつ、ふたつ――正確に車輪の楔を撃ち抜く。エレオノーラの短弓は指の動きと見分けがつかぬほど速い。矢は地に刺さり、紐につながった壜が割れ、土煙が噴き上がる。


土旋どせん!」


ニーヤが杖を薙ぐ。砂と苔が竜巻になり、兵の目を叩いた。俺は、掌を合わせ、息を整え――“癒し”ではなく、“鎮め”を選ぶ。乱れた馬たちに、落ち着け、落ち着け、と小さく唱える。イシュタムの光は、刃ではない。包む力だ。暴れる馬が一頭、首を振って静まった。


「バーグ、祈るぞ!」


後衛の金鎧が盾を突き上げる。真円の光がぱっと花のように広がった。視界の中の全てが、薄い膜で包まれたみたいに鈍る。矢が弾かれた。土旋も、膜に散らされる。


「祈りの鎖、第二節へ移る前!」


クリフさんが崖上から怒鳴る。俺は息を吸い、“探索”を開く。視界の端に、ほんの小さな“欠け”が瞬く――盾の縁、司祈の口が微かに緩む拍。千鶴の水糸が、その瞬間、光を受けて走り、バーグの足元に絡みついた。ほんの一瞬、膝が折れる。


「今だッ!」


エレオノーラの短剣が鞘から閃き、投げられた鋼は膜の“欠け”をくぐって祈祷者の腕を裂く。光がひと呼吸だけ弱まった。ニーヤがその隙に杖を地に突き立てる。


風列ふうれつ!」


刃のない風が走り、盾の縁と縁の間をすり抜けて兵の足を薙いだ。隊列が崩れる。よっしーが虚空から布袋を取り出して投げた。袋はバーンと破裂し、白い粉があたりを覆う。


「小麦粉や! 視界と呼吸奪える……けど火気厳禁やで!」


「了解!」


俺は粉塵に火が走らぬよう、掌で湿り気を呼ぶ。指輪がちり、と鳴いた気がした。湿り気は白い霧に変わり、粉の粒を重くする。


「後衛を押し上げろ! 位置を詰めろ!」


バーグの怒声が谷に響く。金の鎧が光り、光輪の盾が再び強度を増す――そのとき、崖上の岩棚が、ばき、と音を立てて割れた。乾いた苔の下に仕込んだ楔。落ちる岩。最も重い“牢車”の前に、石の塊が転がり込む。輪止め。車輪が止まる。中から悲鳴。


「鎖を切れ!」


俺は駆け出した。ニーヤが肩に飛び乗り、ブラックが上空で円を描く。兵が槍を向けるが、よっしーが虚空から長い布を取り出してばさりと被せる。――防炎シート? それ、どこから出した。


「昭和の合成繊維、舐めたらアカン!」


防御膜の内側――兵の背中の“隙”に俺は滑り込み、牢車の格子に手をかける。中の目――怯え、絶望、怒り、乾いた喉。鎖に“癒し”を流すわけにはいかない。物に効くのは“鎮め”だけ。けれど――指輪がぴ、と光った。


《導路:優しさ、第二鍵/“名を呼ぶこと”》


俺は息を吸い込み、格子越しに、最初に目が合った少年に声をかけた。


「――君、名前は?」


少年は驚いた顔で、すぐに答えた。「リーノ」


「リーノ。怖かったな。今、出す」


俺の声は自分でも信じられないほど落ち着いていた。金属の冷たさが掌に移る。鎖に絡みつく“何か”が、ふっと緩んだ。錠前のピンが一つ、落ちる音がした。


「ニーヤ!」


「火花はなしニャ。“水刃すいじん”」


水の薄刃が錠前をなぞり、ぱちん、と外れた。格子が開き、中から痩せた腕が伸びる。小さな手。俺は、その手を取った。次の檻。隣の目。名を呼ぶ。――「カナ」「ヨム」「アレナ」。ひとつひとつの音が、鎖についた錆を溶かすみたいに錠前を緩める。


「バーグ、右壁!」


崖上でエレオノーラが叫ぶ。バーグは顔を歪め、光輪の盾を前へ押し出した――その瞬間、彼の影から、黒い影が跳ねた。鎌の光。冷たい気配。あの“黒装束”――硝子の鎌。


「貴様らが獲物を横取りするな。商品はアルフェンヌ帝国のもの――いや、“我らが主”のものだ」


男の声は掠れている。鎌の刃は祈祷の光ではなく、人の肉を好む。俺は反射的に身を引いた。鎌は俺ではなく、目の前で解かれた鎖に向けて振り下ろされる。


「させぬ!」


千鶴の水糸が風に浮き、鎌の柄に絡みついた。糸は細いのに、石より強い。鎌が一瞬止まる。その隙にクリフさんの矢がうなり、黒装束の肩口に深く刺さった。男が舌打ちし、洞の陰へ跳ぶ。エレオノーラが追う。崖上で二つの影が交差した。


「ユウキ、背中!」


よっしーが怒鳴り、防炎シートを引き剥がして槍を掴み、来た兵の足を払う。俺は最後の檻に手をかけ、「名を――」と言いかけて、息を呑んだ。


檻の奥、ひとりだけ鉄面を付けられた女が座っていた。浅黒い肌、白髪まじりの黒髪。目には、荒野の夜みたいな深い光。俺の指輪が、三度、光る。


《魂片:共鳴/名:イシュタムの継ぎ手(仮)》


女は、ゆっくりと、鉄面越しに俺を見た。


「……われは“イシュタムの記録レコード”。血肉ではない。だが、を視る」


声は低く、澄んでいた。俺の背中を冷たいものが走る。


「その指輪――“護りのちぎり”。幼き魔女が無闇に渡す品ではない。……黙して働け。声は後だ」


「後で、必ず――」


「約すな。まず、生きよ」


俺は頷き、錠前に指をかけた。名前は――問わなかった。彼女は“名ではない”。レコード――記録だ。錠は、触れた瞬間に落ちた。


その時、谷の向こうから角笛。増援だ。バーグは流血しながらも笑った。鎧に刻まれた十字の紋が薄く黒く脈打つ。


「虫けらの反逆者ども――ここで潰す!」


光輪の盾が最大半径に広がる。崖上のエレオノーラが舌打ち。クリフさんの矢も弾かれる。俺は解放した子らを背後にかばい、ニーヤが前に出る。


主人あるじ、連環術をやるニャ。ブラック、来るニャ!」


ブラックが輪を描いて降り、ニーヤの帽子にとまった。猫の杖先に黒い羽根が絡み、杖に薄い影が走る。ニーヤが低く唱える。


「“影連結シャドウ・リンク”――影よ、影を噛め」


バーグの足元――光輪の縁の“影”に、ブラックが落とした黒が差し込む。影と影が噛み合い、光の輪の輪郭が、かすかに“引っ張られる”。ほんの僅かな歪み。だが、祈祷の“完全”はそこからほどける。


「今!」


よっしーが虚空から“鳴子煙”を取り出して地に投げる。パーンと破裂、白と紫の煙が立ち込める。視界を塞がれたバーグの盾の縁がさらに揺らぎ、千鶴の水糸がその隙に走る。足。膝。腰。重心が崩れる。


「はぁああっ!」


崖上からエレオノーラが飛び、バーグの盾の“持ち手”に刃を叩き込んだ。金属音。盾がわずかに傾ぎ、光が断たれる。


「クリフ!」


「この一矢!」


クリフさんの矢が、真っ直ぐにバーグの兜の“接ぎ目”へ飛んだ。金と皮の間を縫い、血が細く噴いた。バーグが短く呻き、しかし倒れない。巨体がよろめき、怒りだけで立っている。


「――退け!」


エレオノーラの号令。俺は解放した子どもたちと記録の女とを守りながら後退する。よっしーが最後尾で粉袋と綱を投げ、千鶴が糸で足場を補強、ニーヤが土を固め、クリフさんが矢で追撃を抑え、エレオノーラが殿しんがりに立つ。


角笛がもう一度鳴る。聖教国の増援が見えた。谷の出口には、石を積んだ小さな堰。俺たちはそこへ飛び込み、一斉に押した。石が崩れ、溜まっていた水がどっと流れ出る。泥水が谷を満たし、追手の足を取る。


「退却――成功!」


俺たちは、ほとんど転がるように山道を駆け上がり、森へ消えた。


間のとき――焚き火の輪


森の奥、苔むした倒木の裏。焚き火の火が低く揺れている。解放した子どもたちは、パンと温いスープを少しずつ口にし、眠りに落ちていった。仲間の少し年長の女たちは互いに肩を貸し合い、静かに涙を拭った。


「……あの女は」


よっしーが小声で問う。焚き火の向こう、鉄面を外した“記録の女”が、炎を見つめている。鉄面の下の顔は、思ったよりも若かった。年齢を推し量ることが難しい。目が古い。


「名は?」


「名は、ない」


彼女は火から目を上げずに答えた。


「吾は“記録”。この地の“古いきみ”が、魂を分けて、壺に眠らせたもの。……イシュタム」


指輪が、熱を持つ。俺は思わず指を握った。


「お主は“器”。まだ欠けた器。だが、優しさで“縁”(ふち)を作った。……壊すよりも、満たす者」


「……俺に、何をさせたい?」


「望まぬ者に、命じはしない」


焚き火の火がぱち、と弾け、火の粉が夜空に散る。


「ただ、教える。――魂片ソウル・フラグメントはこの大陸に七。野湯の下はその一。君が“優しさ”で扉を開き、魂の断片を“記録”と結べば、器は満ちる。満ちた器に、古い言葉コトバが戻る」


千鶴が膝の上で手を組む。「古い言葉……とは?」


「人が忘れて久しい、約束のことば。祈りと異なる、もうひとつの“道”」


エレオノーラが焚き火の縁に腰を下ろし、短弓を撫でた。「それが、聖教国の祈祷に対抗しうる?」


「対抗ではなく、“ほどく”。祈祷は縛る。古い言葉は解く」


「ほどく……」


俺は、峡谷で鎖の錠前が名前のひとことで緩んだ瞬間を思い出した。あれは、解く、だった。


「明日、野湯へ行く」


俺が言うと、クリフさんが頷いた。「子らの避難は“灯の徒”に任せて良いか?」


エレオノーラは「もちろん」と答えた。「フルーネンヴェルクの地下には協力者がいる。聖職者でも、市壁の書記でも、聖教国に疑問を抱く者はいる」


「バーグは?」


「生きている。だが、顔に矢を受けた。自尊心に傷。必ず報復に出る。……“硝子の鎌”も、君たちを狙う」


「来るなら来い、や」


よっしーが拳を握る。千鶴が「無茶は禁物でございます」と静かにたしなめる。ニーヤは尻尾を膝に巻き、帽子のつばの影で目を細めていた。


「ユウキさん」


千鶴が、火のはぜる音の間に声を滑らせた。


「わたくし、怖くなくはありません。けれど、今朝、糸を張る指が震えなかったのは、皆さまのおかげ。……わたくしも、名を呼べる人間でありとうございます」


「呼べるよ、絶対」


俺は笑った。少しだけ、心が軽くなる。


野湯の下、扉の前


翌昼。野湯の穴は昨日のまま、口を開けていた。俺たちは松明に火を灯し、梯子を下ろした。先頭は俺、続いてニーヤ、千鶴、よっしー、クリフさん。エレオノーラは森に残って周辺警戒。ブラックは先に降りて、暗闇を二周して戻ってきた。――道はある。


穴の底は、乾いた石の室。壁に古い刻文があり、苔の間に細い線が走っている。線は、昨日見た“優しさの光”をなぞるように扉の輪郭を描いていた。扉は石。中央に浅い皿。皿の縁には細かい刻み。


《開扉条件:優しさ/“第三鍵:分かち合い”》


分かち合い――?


「食べ物?」


よっしーが虚空から乾いたパンを取り出して皿に置く。――反応なし。


「水?」


千鶴が掌に水を集め、そっと皿に落とす。――石が、ほんのわずかに鳴いた。けれど、まだ足りない。


ニーヤが顎に手を当てる。「『分かち合い』は、物ではなく、心かもしれませんニャ」


俺は深呼吸して、扉の前に膝をついた。掌を皿の縁に置き、目を閉じる。峡谷で子どもたちの名を呼んだときの感触を思い出す。名は、その人自身の入口だ。ならば、ここで呼ぶべき名前は――


「相良ユウキ。木幡良和。相沢千鶴。クリフ・カルロベーノ。ニーヤ」


ひとりひとり、名前を口にした。指輪が、輪郭の熱を伝える。俺は続けた。


「いま、ここにいる、みんなの“生きたい”を、分け合いたい」


石の皿に、透明な薄い光が溜まっていく。水ではない、涙に似た光。皿の縁の刻みが、それを吸い込むようにチリ……チリ……と音を立て――


扉が、静かに、右へ滑った。冷たい風が頬を撫でた。奥は広い空洞。天井には鉱石が星のように埋まり、青い光を持つものがいくつも、息をするように明滅する。


「きれいや……」


千鶴の声が震えた。ニーヤが帽子を脱ぎ、胸の前で軽く抱えた。よっしーが「宇宙やな」と場違いなことを言い、クリフさんが「静かに」と口元に指を立てる。


空洞の中央、丸い台座。そこに、掌ほどの透明な器があり、中に薄い光の粒が漂っている。器の縁には古い文字。俺の視界に、訳が滲む。


《魂片:イシュタム“望の記”》


器に近づくと、指輪が熱くなった。俺は躊躇いながらも、器に手を伸ばす。


「触れる前に」


背後から声。――“記録の女”が、いつのまにかそこに立っていた。顔を布で覆い、目だけが見える。ここまで、どうやって――? 問いは飲み込む。


「“のぞ”は、刃にも毒にもなる。握れば溢れ、握らなければ零れる。……うつわよ。己の“望み”を口にせよ」


望み――


俺は、胸の奥にあるものを、ありのまま掬い上げようとした。虚勢や恥を取り払って、素直に、聞こえるように言葉にする。


「――生きてほしい。俺が、じゃなくて。……一緒にいる人たちが。あの鉱山の老人も、逃げ出した人も、千鶴も、よっしーも、クリフさんも、ニーヤも。俺は、そのために強くなりたい」


言って、耳が熱くなった。青臭い。けど、それ以外に言えない。


「分かった」


“記録の女”は、わずかに目を細めた。


「受けよ」


器から光が一筋、俺の胸に吸い込まれた。息が詰まるほどの冷たい風が体内を駆け抜け――すぐに静まった。視界の端に、文字が浮かぶ。


《クラス適性更新:テイマー→〈継ぎヘリター〉/条件:魂片二つ以上/現在:一》


《スキル獲得:“結びノット”/効果:名を通じ、対象との縁を一時的に強化する/代償:己の精神力》


「“結び目”、ね」


ニーヤがくんと背伸びした。「良い名前ニャ。主と眷属の縁を太くする術ニャ」


よっしーが肩を叩く。「ようやった。……けど、敵も動くで」


クリフさんは空洞の入り口を一度振り返った。「バーグも、硝子の鎌も。フルーネンヴェルクの中にも潜む目がある」


“記録の女”は、空洞の壁に埋まった青い鉱石に軽く触れた。


「残り六。急くな。だが立ち止まるな。――君は、名を呼ぶ者。名は刃より強い」


帰還、そして訪れる“見知らぬ天井”


地上に戻ると、夕暮れが森の端に引っかかっていた。フルーネンヴェルクへ戻る途中、俺たちは交代で荷を持ち、互いの無事を確認しあった。子どもたちは既に安全な隠れ家に運ばれ、“灯の徒”の仲間が看ているという。


宿に戻り、食堂で簡素な夕食をとる。パン、チーズ、豆の煮込み。千鶴は静かに祈り――祈祷ではなく、感謝のつぶやき――を捧げ、よっしーは「豆は身体にええ」と二杯目を求め、ニーヤは「魚が欲しいニャ」と頬を膨らませ、クリフさんは「今夜は二交代で見張り」と手短に段取りを決めた。


俺は部屋に戻り、寝台の粗いシーツに背を落とした。目を閉じると、すぐに暗闇が来た。指輪の熱はもうない。ただ、胸の奥に、小さな結び目の感触が残っている。千鶴の名。よっしーの名。クリフさんの名。ニーヤの名。エレオノーラの名。……リーノ。カナ。ヨム。アレナ。


――見知らぬ天井。


目を開けると、そこは石でも木でもない、白い光の天井だった。四角い光が均等に並び、空気は乾いている。消毒液の匂い。病院――いや、病院ではない。足元の床は、冷たい金属。


「目覚めたか」


傍らに、影。顔は見えない。フードの内側で声が響く。


「“器”の主よ。お前が、どんな優しさで扉を開けても――誰かは、その扉を閉めに来る。それがこの世界の“管理メンテナンス”だ」


背筋を冷たい汗が伝う。


「誰だ」


「名は、ない。“管理者”。あるいは——」


声が一瞬、遠のいた。白い天井の一枚が黒く染み、そこに“十字”が滲んだ。


「――“聖務局”。」


目が覚めた。心臓が跳ねる。薄暗い宿の天井。窓の外で夜の鐘が鳴っている。額に汗。喉が乾いて、俺は水差しに手を伸ばした。冷たい水が胃に落ちる。ゆっくり呼吸を整える。


“管理者”。“聖務局”。――あれは夢だ。けど、夢の言葉は、時々、現実のほうが寄ってくる。


ドアが、控えめにノックされた。俺は身をこわばらせる。


「ユウキさん、起きていらっしゃいますか?」


千鶴の声。安堵が胸に落ちる。ドアを開けると、千鶴が灯りを手に立っていた。髪はほどけ、寝巻の上に薄い外套。


「すみません。夜分に……。眠れませんでした。……先ほど、妙な夢を見て」


「俺もだ」


千鶴の顔が、わずかに明るくなった。


「おんなじかもしれません。白い天井。冷たい空気。……わたくし、金属の音を聞きました。“カチ、カチ”と、機械の音」


俺は、もう一つの名を飲み込んだ。“聖務局”。千鶴にそれを背負わせたくなかった。


「……大丈夫。夢は、夢だ」


「はい」


俺たちは短く笑って、「おやすみなさい」と言い合い、扉が閉まった。廊下の灯りが薄く壁を染め、やがて消えた。


新しい朝と、新しい仲間


翌朝。宿の下の扉を開けると、焼きたてのパンの匂いと、果物の甘い香り。厨房の娘が「今日は林檎の焼き菓子がありますよ」と笑い、よっしーが即座に二切れ注文した。千鶴は小さな銀貨を手に、紙袋にパンを詰める。ニーヤは窓辺の椅子に座り、尻尾をぶんぶん振って窓の外の雀を眺める。クリフさんは“記録院”に書き込みを済ませ、戻ってきた。


「救出の記録、匿名可だが残した。“灯の徒”への少額寄付があったと付記。追われるリスクは減らないが、支持は増える」


「バーグは?」


「顔面への矢は表立って伏せられているが、“栄誉の傷”と吹聴しているらしい。――だが、今朝の市門の検問は厳しかった。聖務局の赤衣が混じっていた」


赤衣――俺の背中に、夜の夢の冷気が走る。


「小さく、速く動くべきだな」


エレオノーラが入ってきた。背負子に荷。目は冴えている。


「君らに紹介する。――“ルゥ”」


その後ろから、背丈の低い影がひょこっと顔を出した。青灰色の皮膚、丸い鼻、真っ黒な瞳。耳がちょっと尖っていて、髪は藁のように硬そう。人間ではない。小人族――だが、俺のイメージの“ドワーフ”より軽やかで、細い指。


「フルーネンヴェルクの“石工組合”の徒弟。鍛鉄と石組み、両方いける。君らの装備を、少し軽く、少し強くできる」


「ルゥ・ボーラ。よろしく」


ルゥは短く頭を下げ、俺たちの装備を素早く見回した。「その棒、芯を入れ替える。猫の杖は……うむ、いい樫。穂先だけ鋼で覆う。盾士の“倉”(アイテムボックス)は、重みの配分を変える器具を足す。水糸の君には、指に巻く“織り指輪”。人間の君――ユウキ、だね。君には“結び目”が要る。ひもを」


「紐?」


「とてもよく結べて、とてもよく解ける紐。……君の術に合わせる」


ルゥは口角を上げた。「支払いは“灯の徒”経由。君らは、君らの“仕事”を続けて」


新しい仲間。俺は胸の奥の結び目が、ひとつ増える音を聞いた気がした。


追捕ついぶ――赤衣の影


昼前。俺たちがフルーネンヴェルクの北門を抜けようとしたとき、門の向こうで赤い裾が揺れた。白い手袋、赤い長衣、胸に銀の十字。聖務局――“異端審問”と呼ばれる組の役人。二人。視線は鋭い。俺の指輪をかすめた、気がした。


「旅の者。記録牌の提示と、所持品の検め」


よっしーがさっと出て、記録牌を見せ、虚空庫からごく普通の旅装備を取り出す。パン、干し肉、水袋、ロープ。赤衣の役人は無言で見、鼻を鳴らす。


「猫は?」


「わたしは猫ではなく、猫魔導士ニャ」


「許可証は?」


「記録院で登録済みだ」


クリフさんが割って入り、冷静に牌を示す。役人は目を細め――突然、手を伸ばし、俺の手首を掴んだ。指輪の嵌った指。冷たい指。ぞわり、と鳥肌が立つ。


「それは、どこで手に入れた?」


「――贈り物だ」


俺は振りほどき、視線を逸らさなかった。役人の目が、ほんの一瞬だけ――わずかに、笑ったように見えた。冷たい、ひびの入った笑み。


「見知らぬ天井に目覚める者は、往々にして“贈り物”を持つ。……良い旅を」


赤衣がふわりと踵を返し、門を開ける手に合図した。扉が軋み、外の光が道を満たす。


「……あれは、完全に勘づいてるニャ」


ニーヤが小声で唸り、よっしーが「まあ堂々といくんが一番や」と肩をすくめ、クリフさんが「警戒を上げる」と短く言い、千鶴が胸元で指を組む。


エレオノーラは、少し遅れて門をくぐりながら、俺にだけ聞こえる声で囁いた。


「“見知らぬ天井”は、君だけの夢じゃない。赤衣は、時々、そこから来る」


「……夢、だよな?」


「うん」


彼女は笑わなかった。


次の地平――“風鳴りの丘”へ


北へ。丘陵が波打ち、遠くに銀色の筋が走る。風が鳴く。ルゥが先を行き、石の表情を読み、水脈の“音”を耳で掬う。ニーヤは草むらで薬草を摘み、千鶴は指に巻いた“織り指輪”で水糸を細く撚る練習。よっしーは荷の中身を何度も確認して、新しく作った“重み配分器具”に感動し、クリフさんは弓の弦の張りを調整する。エレオノーラは後方の地形を刻み、俺は、ときどき立ち止まって、指輪の熱を確かめた。


「ユウキ」


千鶴が、並んで歩きながら言った。風に髪が靡く。


「昨日の夢……怖かったですが。今朝、皆さまの顔を見て、わたくしは胸を張って歩けました。……ありがとうございます」


「俺も」


「はい」


ふたりで笑うと、前を歩くよっしーがくるりと振り返り、「青春してるやないか」とからかってきた。ニーヤが「にやにや」と口元だけで笑い、クリフさんが「歩け」と短くまとめ、エレオノーラが咳払いして前を見る。ルゥは「人間はよう喋る」と肩をすくめた。


風が丘の草を渡る音にまじって、遠くで雷鳴のような、けれど乾いた轟きが聞こえた。地の底の、遠い遠いところで、何かが目を覚ましたような――


指輪が、かすかに温かい。


《魂片:遠鳴り/次位の導路、“風鳴りの丘”》


俺たちは歩調を合わせ、丘の縁へと、歩を速めた。


――“優しさ”で開く扉は、まだいくつも残っている。名を呼んで、結び、ほどき、また結ぶ。刃ではない道で、でも刃と並んで。俺は息を吸い、空を見上げた。


見知らぬ天井ではない。


俺たちの、空だ。

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