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炎(ほむら)  作者: 摩莉花
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(3)

 慧春の庵には、遠くから、尼だけでなく、僧も来る。

 ある僧は、「釈尊の教えを認識することはできるが、それを体現することは難しい」という故事について、慧春の意見を乞うた。

 慧春は法衣の袖から左手をもたげ、右手を下げて答えを示した。

 世尊の教えは不立文字ふりゅうもんじ[悟りは文字ではあらわせない]、そして教外別伝きょうげべつでん[心をもってしか伝えられない悟り]であること黙して教えたのだった。

 僧は慧春の行動の意味することを覚り、去って行った。

 慧春は草庵に居るだけではなく、近在をもよく歩いた。のちに慧明禅師の法嗣となる大綱明宗だいこうみょうしゅうと出会ったのも、出歩いていたときのことである。

 小田原の海辺に近い酒匂さかわ川のほとりの村里で、念仏の功徳を説いている若い僧がいた。

 慧春は説法を聞いている村人たちの座の隅にいた。

 彼女は熱心に僧の念仏説法を聞いていたが、それが終わって人びとが散って行くときに明宗を捕まえて言った。

「あなたの説法はお上手だけど、ご自身は悟っておられませんね」

 明宗は図星をさされて、驚いた。日頃、悩んでいたことであったのだ。

「近くに良き師がおられましょうか」

「ここより二里向こうに大雄山があり、了庵和尚がおいでです。行って会いなさい。きっと得ることがあるでしょう」

 明宗は、すぐさま大雄山へ向かい、そこで一心に修行した。




 人びとに仏の道を教え、近在の村々を歩くうちに、慧春は自分が出家しても変わらぬ世の中を見る。

 南朝北朝と分かれていた天皇家も一つになった。しかし、馬蹄の響き、天変地異はやまず、飢饉があり、人びとは妻子を自分を売って命をつなぎ、貧しい者はますます貧しく、富める者はますます富んで、世の不条理を見るにつけ、無力感のみが増してゆく。

 何が出来るだろう。何かをせねば。

 焦燥感にあぶられて、慧春は捨身しゃしんを決意した。

『法華経』に、身を捨てて布施する薬王菩薩の逸話がある。

 自らの身を仏に供養することで人びとを救済してもらいたい、という誓願をもって、慧春は火定かじょうを選んだ。




 応永九年(一四〇二)、五月二十五日のことである。

 最乗寺の門のはるか下、渓流を眼前に青黒い一枚の岩盤がある。そこへ、慧春は薪を井桁に組んで枯れ葉でおおった。

 瀬音せおと、鳥たちのさえずり、深緑の木々の間を渡る風。

 その間に、慧春を見守る尼僧たちのすすり泣きと読経の声が重なる。

 慧春は火打石を打って火花を散らし、柴の囲いに炎を移した。

 小さな火が広がる前に、慧春は草履を石の上にそろえ、横木に両手をかけて薪の棚を上ってゆく。そして上に至ると、結跏趺坐けっかふざを組んだ。

 合掌ののち、静かに法界定印ほっかいじょういんを結ぶと、そのころには小さかった炎が広がり、薪がはぜる音もするようになった。

 紫煙が虚空に舞い、炎が法衣の裾にとりつき、膝を這い上ってゆく。

 そのとき、僧たちが山から駆け下りてきた。

 その中には、侍者を伴った慧明もいた。兄は近頃、老いが進み、足元がおぼつかない。それでも侍者二人に支えられ、まろぶようにやってきた。

 そのころには、炎は慧春の全身を包み、空高く立ち上っている。

 兄の慧明は杖にすがりながら、娘のような異母妹、そして仏門での親族で弟子でもある慧春に、語りかけた。

「尼よ、熱くはないか。熱くはないか」

 悟りを得た高僧でも、感情は動く。老いた慧明は涙していた。

 年の離れた異母妹が、仏門に入りたいと願ったとき、よもやこのような別れが待っているとは思ってもみなかった。

「冷熱は、生道人なまどうじんの知る所にあらず」

 だが、慧春は「冷たい熱いなど、半端な禅者が感知できるものではない」と、おのれの未熟を叫びながら、凛然と絶命した。

 凄絶な最後を見届けた者たちは、遺骸を改めて荼毘に付し、慧春尼が最後に住んだ草庵に塔を建てて納めた。

 慧春の求道者としての内なる炎。物質世界の炎がその身を焼くことで、彼女の燃えるような想いは昇華されたのだった。




 慧春は人びとの幸いを願って、その身を炎に投じたが、その後も天変地異・戦乱はやむことなく、人びとの苦しみと悩みは尽きない。慧春のために建てられた御堂には今も多くの人びとが救いを求めて参詣している。










【主要参考文献】


『慧春尼考』前田昌宏著、献書刊行会

『古代・中世の女性と仏教』勝浦令子著、山川出版社

『禅の本』小向正司編集、学習研究社


読んでくださり、ありがとうございました。

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