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禅とは、おのれの内に真理を見い出すもの。座禅は、その修行の一つで、暮らしの中のあらゆる場面に、その機会はある。
釈尊の弟子の一人で、愚鈍であるとして兄から還俗を申し渡された周利槃特[チューダパンタカ]が、師のすすめで「塵を払い、垢をとれ」と唱えながら、人びとの衣や履物をぬぐい、やがて悟りを得たように。また、経ひとつ読めない物覚えの悪さであっても、托鉢行で拾ってきた鼻緒の切れた下駄や草履を持ち帰り、月明かりの下、補修して、翌日人びとの役に立つようにと、日々、陰徳行を積んで、愚鈍一徹、明治期の禅界の宗匠となった、臨済僧・洞宗令聡のように。食事も掃除も、すべては真剣勝負。
さらに、禅門での基本的な修行・座禅は瞑想と違い、深く進むと、魔境に入るという。その魔境の手前にいるうちは覚ることはできず、そこを抜けられないと修行者は狂う。禅の修行とは、厳しい自己修練を行うものだった。
やがて数年のうちに慧春は、魔境をも突き抜けて悟りの境地に入り、兄であり師でもある慧明から印可[師僧が弟子の悟りを証明すること]を得た。
仏弟子で初めての比丘尼・尼僧は、釈尊の養母・摩訶波闍波堤[マハーパジャパティ]である。彼女は夫の浄飯王[シュッドーダナ王]が亡くなったあと、義理の息子で甥でもある釈尊に出家を願った。当時のバラモンの教えでは女性の出家は許されていなかった。
釈尊はヒンズー教のバラモンたちのように女性を卑しい存在とはしていなかったが、彼女たちの参加が僧伽の和を乱す因となることを憂いた。しかし、侍僧の阿難[アーナンダ]のとりなしによって、男性の僧・比丘の次席という条件付きで出家を許したのだった。
中国では晋の浄検尼が最初と伝えられ、南北朝期、特に南朝の尼僧たちが朝鮮半島諸国の高句麗、百済、新羅に大きな影響を与えた。
倭国では、敏達十三年(五八四)に、蘇我馬子の要請により、渡来人・司馬達等の娘の嶋、改め善信尼をはじめとする三人の女性が最初の出家者となる。
仏教に深く帰依した聖武天皇の頃には、各地に国分寺・国分尼寺が建立され、尼僧は重要な役割を担っていたが、女性天皇の時代が終焉すると、男性の官僧だけが国家的な仏教を担う体制に変化する。これによって、官としての尼僧の活動は衰退した。一方で、平安期に浄土信仰が人びとの間に浸透していった結果、私的に出家する女性が増えていった。
女性の出家のきっかけは男性と同じく、老・病・死に際して、現世や来世の救済を願うものがほとんどであった。慧春のように、人びとの幸せのためという利他は珍しい。
女性たちは、最初は肩もしくは背の中ほどまで垂らして切りそろえた尼そぎという髪型にし、世俗と完全に関わりを断つことが出来る時期になるか、臨終の際には、完全に剃髪をした。
また、尼僧には、尼寺に住む尼、僧寺の近辺に住む尼、家に住む尼、遍歴する尼、乞つ食する尼など、さまざまな尼がいた。
このころには、初めの尼僧・善信尼が巫女の役割も果たしたと考えられた時代には無かった、女性の罪業観が広く信じられるようになる。すなわち、子を産み育てる過程で犯す罪のせいで、女性は救いがたい、というものである。
女性は梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏の五つの位につけない存在とする「五障」、『法華経』で女性は穢れており、仏法を受ける器ではないとする「女身垢穢」、女性は成仏するためには男性に変わらなければならないという「変成男子」。
女性は死後に万億劫という気の遠くなるような時間が続く苦難の世界が待っているとされたり、地獄・餓鬼道・畜生道の三悪道をさまよう、という説が流布していた。
そうであるからこそか、平安末期から鎌倉期に成立した多くの宗派は、積極的に女性の救済を説いた。また鎌倉期以降、源平の争乱、承久の乱など鎌倉幕府内の政争、幕府滅亡、続く南北朝の内乱など、多くの戦乱で夫や子に先立たれた女性たちが、夫や子の菩提を弔い、また自分たちの生活を互いに助け合うために尼寺を建立して出家するようになった。
さらに鎌倉幕府は南宋の官寺の制にならって禅宗の寺院を五山・十刹・諸山に格付けして保護し、室町幕府もそれを踏襲して、尼寺を位置づける尼五山の制も存在した。
慧春の生きた時代は、尼僧が活躍を始める時期でもあった。けれども、人の意識は容易には変わらない。
悟りを得たと師である慧明に認められた慧春が、さらなる修行を続けていたある日、慧明が昔修行した鎌倉の円覚寺へ用事ができ、使いを送ろうとした。
円覚寺は鎌倉五山の二位に位置付けられ、寺格が高いだけに俊英の修行者が多く集まっていると知られていた。
そのため、慧明が山内の弟子らに使いを頼もうとしても、円覚寺に行くとやり込められるのが分かっているので、みな恐れて行こうとしない。
そこで慧春は、「わたくしが参りましょう」と申し出て、一人で出掛けることにした。
禅門では、一山の僧たちが山門に並んで客人を迎え、禅問答を行うという慣例があった。
円覚寺に属する雲水たちは、最乗寺の住持・慧明の妹がやってくることを知っていた。大勢の僧たちが、石段の上に居並んで、にやにやと慧春を迎えた。
慧春は、平然と石段を登ってゆく。そこへ一人の僧が進み出て、立ち塞がる。
彼は、衣の裳裾を高々とまくり上げた。
そのときの様子は、このように伝わる。
『陰を怒して逆立せしむ。曰く。「老僧が物は三尺なり。師もまた、裳をかかげ、牝戸を擘開せよ」と』
おのれの陽物をさらして、おまえさんも前をひろげて、陰をおもいきり開け、と相手は言うのだ。
現代ならば、変質者の行為である。普通の女性なら、悲鳴を上げて逃げるであろう。しかし、印可を得た慧春は、違った。
平然と、この品のない禅問答――とも言えないような、嫌がらせに答えた。
「尼が物は、底なし!」と。
底なしの陰と三尺の陽では、勝負にならない。
禅問答は瞬発力。愚問だろうが、下品だろうが、僧の問いは見事に叩き斬られた。
ぼう然としている円覚寺の僧たちを尻目に、慧春は石段を登り切り、門内へ入った。
方丈へ通された慧春に、堂頭[住職]は侍者の僧に、「茶を点じて来たれ」と命じる。
しばらくして侍者が澡盤、つまり手を洗う盥に茶をたてて捧げ持ってき、慧春の前にうやうやしく差し出した。
それをちらりと見て、彼女は言った。
「これは珍しい茶盞ですこと。方丈さまの常用の茶碗とお見受けします。召しあがり方を拝見したい。飲んでみてくださいまし」
慧春から澡盤を回された堂頭は、うなるだけで答えることも出来なかった。
相手を女と見てあなどったことで、一山で恥をかいた。
円覚寺が五山第二の寺格といえども、それは世俗のつけた順位。慧春という鏡に映してみれば、俊才どころか、世間の評判にあぐらをかいた愚者の集団に過ぎないことが露呈したのだった。
慧春が見つめるのは、仏の道。そこに妥協はない。
本来、仏の教えを信ずる者たちには、在家は五戒――不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒――つまり、殺さない・盗まない・不貞をしない・嘘をつかない・酒を飲まない、という禁戒があり、出家者にはさらに多くの戒律が課せられた。
しかし日本には経典が先んじて伝来し、奈良・天平期に招へいされた唐僧・鑑真によって本格的な戒律が伝えられるまで、生活規範である戒律は無いに等しかった。鑑真は東大寺に戒壇院を建て、出家者に対する具足戒授戒の場としたが、のちに最澄は具足戒を小乗戒として否定し、大乗戒壇を独立させ、簡便な大乗戒による僧の育成を目指した。
このような次第であるから、日本の仏教は戒律をあまり重んじない傾向となった。
煩悩は百八つとも言うが、修行中、生きるための食欲、休むための睡眠、そして生物としての根源に通じる愛欲、これをおさえるのが最もつらいという。
とはいえ、戒律の緩いこの国では、不犯でなくてはならない僧尼が邪淫戒を破っている事例が『今昔物語集』などに見られ、男色は僧に仕える稚児、室町期から禅門では喝食の童子を相手に行われ、僧の肉食妻帯は鎌倉期の親鸞が明確に戒律を否定する以前の平安期からすでに為されていたことが知られている。
慧春の生きた時代、彼女の兄・了庵慧明より六十年ほど後に生まれた臨済宗の僧・一休宗純は、大悟したのち、女犯をおかし、酒を飲み、肉をくらい、三十四、五歳の頃には子ももうけ、晩年は森女という盲目の美女を愛し、多くの詩を成した。
「世の中は食うてかせいで寝て起きて、さてその後は死ぬるばかりぞ」との言葉を残した風狂の禅僧であるから出来たことかもしれない。
さて、尼僧である慧春の場合は。
世俗を捨てて仏道修行に励んでいるはずの僧が、尼僧に言い寄る、関係を持つ。男色のみならず、女色も寺社では行われていた。顔に傷があるとはいえ、美貌の慧春に懸想する僧も多くいて、彼女は退けていたが、一人の若い僧はしつこくて尼僧たちが起居する僧坊に幾度となくやって来ては、彼女をくどく。
その夜は、寝所まで忍んできた。
「どうか一度でいい。美しいそなたの肌を味あわせて欲しい。夜も昼も、そなたのことばかりを想うているのだ」
あまりのしつこさに、慧春は答えた。
「よくよく考えてください。わたくしとあなたは、共に世俗を捨てた僧なのですよ」
「それが何だ。悟りを得ても、感情がなくなるわけではない。情欲をいだこうが、それに執着しなければ、良いというではないか。高僧でも邪淫戒を破っておる。それでも世間の尊崇を受けている。どうか、この想いを受けてくだされ」
若いとはいえ、なんと甘えた考えか、と聞いて慧春は思った。
「そなたが恋しくて恋しくて、たまらぬのだ」
と、その若い僧は涙まで流した。
「それほどまで、愛欲に執着なさるのなら、修行の妨げになりましょう。わたくしに考えがあります。今はだめです。尋常にあらざるところで、あなたの想いを遂げなさい。きっとですよ。約束をたがえはしませんか?」
「あなたが私の願いをきいてくださるのでしたら、湯火もいといませんとも」
色よい返事を聞かされた若い修行僧は、有頂天になって請け合った。
その数日後、最乗寺の開祖・了庵慧明禅師が上堂して説法をすることになっていた。
師であり、兄でもある慧明が座につき、あらかじめ知らされていた題について法話をする。その後、質疑となった。
慣例によって、男性の僧は前方に、女性の僧は後方に坐っている。
一人二人と僧が質問し、それについて他の者が幾人か答え、最後に慧明が答える。
慧春も質問した。性の大事のことである。生きるにも生まれるにも、性のことは必要であるが、これを浄とするか、不浄とするか、いかにとらえるべきか。
慧春の問いかけに、それまで勢いよく応答していた僧たちが沈黙する。
そこで慧春が立ち上がり、先夜の若い僧の名を呼んで、帯をとき、はらりと衣を脱いで肌を見せ、言った。
「さあ、約束どおり、わたくしについて、あなたの欲をほしいままになさいませ。望みを遂げなさい!」
集まっていた僧・尼僧たちから、どよめきと悲鳴が上がる。
と、一人の若い僧が立ち上がって、喚きながら逃げて行った。そのまま山からも逐電してしまった、と後から分かった。
「慧春さま、衣を」
と、周囲にいた尼僧たちがわらわらと取り囲んで、彼女が脱ぎ捨てた衣を着せかけようとする。
「喝ッ!」
上座の慧明のひと声で、一同のざわめきは治まり、衣を着て威儀を正した慧春も着座する。
その場には、すがしい緊張感があった。
この一場は、弛緩していた一山の僧たちへの、慧春の警策だったのだ。
このように風紀をひきしめた慧春だが、この出来事によって、出家しても自分が女であることが、いかに多くの修行僧の妨げになっているか、を思い知った。
慧春は山を下りる決心をする。
そして彼女は、最乗寺のある大雄山の麓に庵を建て、訪れる者に教えを説くようになった。




