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炎(ほむら)  作者: 摩莉花
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(1)

 華綾慧春かりょうえしゅん尼和尚。

 あでやかな名のその人は、身の内に紅蓮の炎を秘めていた。




 彼女が生まれたのは今の神奈川県伊勢原市、相模国糟谷さがみのくにかすやの庄、大覚寺統、つまり南朝系列の地頭の家であった。

 生年は北朝の応安元年、南朝の正平二十三年(一三六八)、室町幕府は二代将軍足利義詮あしかがよしあきらの治世と言われている。

 俗名は伝わっていない。俗世にいるときは、近在の地頭の家へ嫁ぎ、子がないまま、夫と死別し、実家に戻っていたと思われる。

 並の家だったならば、彼女はどこかに再嫁するか、出家を望んでも周囲に止められるか、もし出家できても漢籍・仏典などの教養がなければ、下層の尼として終わっていたことだろう。しかし彼女には、高僧の兄がいた。

 名を了庵慧明りょうあんえみょうという。

 彼女が生まれたとき、すでに三十二歳になっていた慧明は、鎌倉の円覚寺で修行中の身であった。

 母の違う兄である。

 この異母兄は父のあとを継いで地頭職を勤めていたが、三十歳前後で、すべてを捨てて鎌倉で不聞禅師ふもんぜんじによって出家し、師亡きあと臨済宗の建長寺、円覚寺の間を周旋した。その後、曹洞宗の能登・総持寺そうじじ、現在の総持寺祖院の峨山禅師がざんぜんじの許へ参じ、次いで丹波・永沢寺ようたくじ通幻禅師つうげんぜんじについて修行して、『通幻十哲』の第一とも呼ばれる曹洞宗の高名な僧となった。




 仏教は、彼女が生まれた年より千九百年ほど前、紀元前五世紀頃のインドで釈迦族の聖者シャーキャムニブッダ、ゴータマ・シッダッタが説いた人間の苦悩の解決への道を教えるものである。その教えはアジア全域に広がり、中国には中央アジア経由で紀元前後頃に伝えられ、魏晋南北朝時代に広まった。

 インド仏教では、三学さんがく、すなわち「戒学かいがく」「慧学けいがく」「定学じょうがく」を説く。のちに、戒律を学ぶ戒学は律宗に、慧学は教学に、定学は禅宗へとなっていった。

 禅宗の開祖・菩提達磨ぼだいだるまはインドから梁の武帝の頃、中国へやってきて禅を伝えた。

 もともと禅は仏教の根本であり、必要不可欠なものである。なんといっても、仏陀が菩提樹の下で悟りを開いたのは、禅定による。

 禅は、一人の師から一人の弟子へ仏法の正伝を受け渡す「師資相承ししそうじょう」によって法脈をつぐ。開祖・菩提達磨から唐代の六祖・慧能えのうまで伝わったところで、中国禅は確立された。

 慧能には多くの弟子がおり、その流れの中に、臨済宗の派祖・臨済義玄りんざいぎげん、曹洞宗の派祖・洞山良价とうざんりょうかい曹山本寂そうざんほんじゃくがいる。

 中国の禅宗は宋代末期には廃れていくが、来日した中国僧、蘭渓道隆らんけいどうりゅう無学祖元むがくそげんなどや日本の栄西、道元がそれぞれ臨済宗、曹洞宗を大陸から伝えた。

 臨済禅が公案こうあんによって悟りを目指すのに対し、曹洞禅がひたすら座禅をする「只管打坐しかんたざ」によるという違いがあるものの、同じ禅宗。修行僧は道を求め、師を求め、各地の師家の寺を渡り歩く。そして、これと思う師に巡り合うと、その師のもとで修業を続ける。

 彼女の異母兄・了庵慧明も、初め臨済宗の師のもとで、次に曹洞宗の師について修行をし、高僧となった。

 その彼が箱根明神岳の東麓に修行道場として大雄山最乗寺を開山したのは、応永元年(一三九四)、三月十日のことである。




 通幻禅師の大法を相続した了庵慧明は、永沢寺だけでなく、近江・総寧寺そうねいじ、越前・龍泉寺りゅうせんじ、能登・高庵寺こうあんじという師の後席すべてを受けて住持したのち、老境となった五十半ばにして故郷へ戻り、生家にほど近い曽我の地に竺圡庵ちくどあんを結んで、郷里の人びとの教化に勤めた。そして五十八歳のとき、最乗寺さいじょうじを開く。

 伝わるところによると、竺圡庵に在るとき、一羽の大鷲が慧明の袈裟をつかんで足柄山中に飛び、大松の枝に掛ける奇瑞を現したことによって、この啓示で山中に大寺を建立するに至ったという。

 寺の建築の指揮は、弟子の道了どうりょうが執った。

 道了は先に聖護院門跡・増法ぞうほう親王に仕えた修験道の満願の行者で、大和・金峰山、奈良・大峰山、熊野三山で修行し、三井寺(園城寺)勧学[学僧養成施設の首長]に就いていたとき、大雄山最乗寺の開創のため、相模国へやってきた。慧明が七十五歳で遷化したのちには、山中に身を隠し、天狗となって寺を守護しているとも伝わる。




 その最乗寺が創建されて五年後の冬、六十三歳の慧明を、異母妹が訪ねてきた。

 三十以上も年が離れていれば、妹というより娘に近い。それも故郷に帰って来るまで会ったこともないので、家族というより親戚の娘としての感覚であった。しかしこの異母妹は慧明の血縁だけあって聡明で、女性に珍しく真名が読めて漢籍の知識があり、親族を集めて仏の道を説いているときは熱心に聞き入り、また疑問に思ったことをよく訊いてきた。

 来訪を聞いた慧明はこのとき、「善きかな。この山中まで、また分からぬことを問いにきたのであろう。仏道に関心があるのは良いことだ」と、ほほ笑ましく思い、身内の気安さで、寺の方丈ほうじょうへ招き入れた。

「こたびの用とは、なにか?」

 優しく尋ねるが、それに対座した異母妹は決意のまなざしを向けた。

「わたくしは、兄さまについて得度とくどしとうございます」

 慧明は表情を引き締めた。

「出家は道心堅固な男にとっても、容易なことではない。いわんや、女こどもに遂げられる暮らしではない」

「おんな、こども、と云われましたか」

 妹が気色ばんだ。

「いかにも。〝児女じにょの輩は立ちがたし、流れやすし〟とも云う」

 仏道修行の厳しさを、身をもって知っている慧明は、妹の申し出に良い顔をしなかった。

 子のないまま寡婦となって実家に身を寄せているこの異母妹は、姥と呼ばれる三十を過ぎてもなお玲瓏とした美しさを保っていた。この美貌と知性を持つ女人を修行者の中に入れたらどうなるか。

 本人に求道心があろうとも、惑う者はきっといるだろう。

「そなたは、美しい。後妻として求める男はきっといる。女として、幸せになるがよい」

「女の幸せ?」

 ふん、と彼女は不敵な笑みを浮かべた。

「そんなもの、求めてはおりませぬ。夫亡きあと、再嫁するつもりはもうとうありませぬ」

「む……」

「兄さまは……師家しけは、わたくしが『おんな』であるから、良しとなされませぬのか? 祖師・道元さまのお言葉に、『仏法をすること、男女貴賤を選ぶべからず』と、聞いております」

「祖師が申されるとおり、仏法に触れ、悟りを得るのに、男女貴賤は関係ない。とはいえ、容易に女人を得度するは、法門を汚辱することが多い。おんなの身で出家するは、男以上に大変なことだ。そもそも、何故、剃髪しようと思い立ったのだ?」

 慧明の問いかけに、わずかに目を伏せた妹は、再び澄んだまなこを彼に向けた。

「わたくしが生まれたのは、鎌倉の大仏殿が大風で倒壊した頃でございます。いさかいと異変は、毎年のようにありまして、大風ばかりでなく、地震に津波、大水、寒い夏などで、飢饉もあり、大勢の人びとが死に、そのむくろは野にさらされ、生き残った者も、食べるために子を売り、妻を売り、また自らを売らざるを得ません。疫病に伏せる者、強盗を行う者もあとを絶たず、それでも皇室、将軍、守護、地頭それぞれ相争って、各地で戦が絶えませぬ」

 彼女は、そこで深く息を吐いた。

「わたくしが我が身を仏門に捨てるのは、人びとを今の苦しみから救いたいがためであります。厳しい兄君に就いて、多くの雲水たちと参禅弁道に励み、五体を投げて、御仏に祈り願うことで、人の世に平安が戻る日を待ちたいと思うのです」

 捨身しゃしん――仏法や衆生救済のため、自らの命を捨てること。

 真っ直ぐな心だった。

 善きことである。しかし、人びとの苦しみを救うことを「目的」とし、尼になるのはその「手段」であるのなら、尼となる覚悟にいささか足りないものがあるのではないか。

 と、慧明は感じた。それ以前に、この異母妹は美しすぎる。修行道場の規律を緩める元となるのではないか。

 異母妹の存在が、弟子たちの修行の妨げになるのを、慧明は恐れた。

「ならぬ」

 慧明は許さなかった。

 言葉を尽くしても許可を得られず、彼女は肩を落とすと黙ってそこを辞した。

 これで良かったのだ、と慧明が思い、地頭職を継いで家長となっている弟に、この会見の次第を書き送ろうと文机に向かって、ふみをしたためていると、庫裏くりのほうで悲鳴が上がったように聞こえた。

 筆をとめ、立ち上がろうとしたとき、方丈の廊下に面した障子が開いた。

 そこには、先ほど去ったはずの異母妹がいた。だが、肉の焼ける匂いをまとい、その美しいおもての右の眉から右頬にかけて醜くただれている。

「なんとしたか、それは!」

 厳しい修行をなし、たいていのことには驚かない慧明が、腰を浮かせた。

「わたくしの覚悟のほどを示したのでございます」

 訊けば、囲炉裏の鉄火箸を真っ赤に焼き、自らの顔面に押し当てたのだと、火傷の痛みなど少しも感じないような声音で、涼しい顔の彼女が答えた。

「ううむ……やむをえん」

 腰を下ろした慧明は、「許す」と告げた。

 ここまでのことをされては、そう言わざるを得なかった。

 実家の弟には、異母妹を出家させることを報せる使いをやり、顔の傷に薬を塗って手当てしたのち、慧明は彼女の髪を自ら剃って、得度したのだった。

 法名、華綾慧春の誕生である。




 慧春が寺での生活に慣れた頃、兄の慧明は妹に問うた。

「昔、震旦しんたん巴陵はりょう禅師はある僧から、『祖意そい教意きょういは是れ同じなるや、別なるや』と尋ねられしとき、答えて曰く、『とり寒うして樹にのぼり、鴨は寒うして水にくだる』と。汝、巴陵に代わりて、答えてみよ」

 祖意とは、禅門の宗意。教意とは、経典をよりどころとする他の宗派の宗意。また、鶏が宗意なら、鴨は教意のたとえ。

 つまり、巴陵の答えは、「仏の道に二つはないのだから、いずれの宗旨を選んでもよい」という。

 そこで慧春は、師の問いに答える。

「賢臣は二君じくんつかえず。貞女は両夫にまみえず」

 慧春は、巴陵の表現をすすめて、二者いずれかを選んだのちには、ただただ真っ直ぐに貫け、という。

「それで、よし」

 師の慧明はうなずいた。

 華綾慧春は勇猛に参禅学道の修行に臨んだ。





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