第八話 可愛くて良かったなぁ
ぐだぐだ言う暇もなく、周平とその姉に押されて車に乗り込んだ。車の中にはほとんど物がない。女性らしさを出すためにクッションやにんぎょうを置く、と言うこともなく、あるとすれば後部座席に一枚毛布が掛かっているくらいである。
「あ、あたしは夏実な。何とでも呼んで」
自己紹介をした夏実をみて、ゆいも慌てて名乗る。
「私は、ゆいです」
「ゆいって、可愛い名前やな。名付け親はどっちや?」
「祖母です」
「ありゃ」夏実は口を開けて、口角を下げた。「そうきましたか」
どっち、と聞いたので、夏実はてっきり両親のどちらかかと考えていたのだろう。ゆいは苦笑いした。
ゆいには、夏実に出会ってから疑問に思っていることがあった。それは、車に乗る前、「可愛い子やんか。周平が助けたなるんも分かるわ」と言ったことである。
可愛いと言われたことに関しては問題ない。他人からどう見られようが気にするところではない。ゆいが気にしているのは、最後の言葉だ。
電話の言葉を聞いていた限りでは、詳しいことは話していないようだった。だから夏実は、周平がゆいを助けた、ということを知らないはずなのである。泊まらせたいとは言ったが、それだけで助けたとは断定できない。ただ泊まりがしたいだけで、助けたとは言えない可能性がある。
それなのに、何故夏実はそう言い切ったのだろうか。
そのことは、後に知ることが出来た。
「ところでゆいちゃん、昼間警察署に来たやろ?」
夏実の唐突な質問に、ゆいは「え?」とほぼ無意識に声をあげた。
電話では話していないようだったが、何故知っているのだろうか。
「池脇っていう、腹の出とるおっちゃんおったやろ? あの人から聞いたんや。ゆいっていう変ながきんちょが、公務執行妨害してきたってな」
あの人か、とゆいは池脇を思い出す。やはりあの腹は誰が見ても出ていると感じるようだ。
池脇の事を知っているのだろうか、そう思ったゆいは、夏実に質問しようとした。だがその前に、周平が警察署で「ねぇちゃん」と言っていたことを思い出した。
服装を改めて見て、ゆいは夏実が警察署に勤務していることに気付いた。正義感が強い姉がいるといった周平の言葉に嘘はないようだ。
「まあまさか、そのゆいちゃんが可愛い子やったとは思わへんかったわ。不細工やったら、いらいらするわぁ」
「それでねぇちゃんが相手しとったら、今頃ゆいはぼこぼこやな」
「そやな。可愛くて良かったなぁ、ゆいちゃん」
大きく頷くわけにはいかず、ゆいは「あ、はい」と苦笑いの表情を作った。ふと窓の外を見たゆいは、「あの、ここに入ってくれませんか?」とまだ電気のついている店を指した。
あいよ、と男のように返事をした夏実は車を避けて、駐車スペースに入った。
「何買うん?」
周平が問うた。
「え、と……」
車を停めた夏実が振り返り、「アホっ」と頭を叩いた。「女の子には色々あんねん。聞いたんなや」
「女の子……? ああ、そういう意味か。そんなんねぇちゃんに貰ったらええのに」
「ゆいちゃんの優しさやねん。黙って受け取るもんや」
そう言うと周平は納得した。
すぐに戻ります、と言ってゆいは車を出た。
駆け足で店に入ったゆいは、急いで別の扉から出て行った。この場所なら、車から見えづらい。
なんだかんだあって車に乗ったゆいだが、やはり迷惑になることは出来ないと考えたのだろう。二人に何も言わずに去ることにしたのは、絶対に止められることが見えていたからである。夏実は警察官であるから、ゆいを止めるのは当然である。
いくら優しさは黙って受け取るものだと言っても、最終的に決めるのはゆいだ。それを、他者に決められるというのは少し迷惑である。
出来るだけ遠くに逃げるべく、ゆいは足を速める。一瞬ホテルに向かおうかと思ったが、周平にはホテルの場所を伝えてしまった。真っ先に探しに来る可能性があるため、あの場所に向かうことは出来ない。
土地に慣れていないため、何処に向かうのがベストか分からない。二人は車に乗っており今が夜だという事もあり、捜すとなると必ず車を使う。ならば、車で通りにくい場所に逃げた方が見つかる可能性が低いだろう。
――とりあえず、トイレにでも入って時間の凌ごう。
そう考えたゆいは、あのおもちゃ売り場のある店に向かった。真っ先に捜される可能性があるが、今はまだ店に入ったと思っているゆいを車の中で待っている頃だ。いつまでも暗い茂みに隠れているわけにもいかない。
ゆいは一応彼らがいないか確認したあと、茂みから出た。
突然、視界に黒い何かが映り込んだ。ゆいは危険を感じ後ろに下がったが、何かにぶつかった。振り返る間もなく、黒いものが目を覆う。間髪入れずに首筋に痛みを感じた。電源が落ちたように、ゆいは動かなくなった。