第四十一話 周平さん、離してください
『……ゆい。俺には、大切な人がおった。もう、死んだけどな』
その言葉が、川の向こう側にいるゆいに届いただろうか。頭上を走る車の音と川のせせらぎに掻き消されてしまったのではと思う。
ゆいは依然として、同じ体勢、表情のままだ。きっと聞こえていないのだろう。
周平は咳払いをした。喉に詰まっているのは物理的なものではなく、何か、空気のようなものなのだろうが、それが煩わしくて敵わない。さっさと口の外へ出てしまえば楽なのに、それができないでいる。
この距離で、何をどう話せと言うのだろうか。
ずっと声を張って話すと、長時間話すことが難しくなるだろう。かといって普段の声で話すと、所々聞こえなくなる。
周平は仕方ないと言った様子でため息をつくと、上の服をおもむろに脱いで、川の中になんの躊躇いも無しに足を踏み入れた。その瞬間、ゆいの表情が変わった。
「何しているんですか!?」
ゆいが無視することも、そうやって驚くことも想定内だ。だから、周平はわざわざ返事をしなかった。声を出している暇があったら、少しでもゆいに近付くために足を伸ばすべきだ。
川を半分まで来たところで、ゆいが一歩後ずさった。手を伸ばすべきなのか、誰かを呼ぶべきなのか。そう考えているせいで、『周平から逃げなければならない』ということがすっかりと抜けてしまっていたのだ。
戸惑っている暇はない。状況が変われば危険になってしまう周平だが、そんなことに構っていては――。
ゆいは意を決すと、川の上流へと走り出した。
あっ、と声を出している時間さえ勿体ない。水の抵抗を減らすために腕を挙げて川を渡りきる。
川から上がり、抜けたズボンの裾を軽く絞り、慌ててゆいを追いかける。手に握った服が腕を振る度に音を立てるのがうるさく、服の分だけ無駄に反動を食らってしまうので、走りながら腰に巻き直す。水を吸い込んだジーパンが重たく、うまく走れない。
ゆいと追いかけっこをするのは、これで何度目だろうか。
いつも周平が鬼で、捕まえられなかったことは一度もなかったように思う。
多少のハンデを与えてしまったが、これくらいなら――。
そう内心で余裕を噛ましながら、ゆいを追いかける。部活をやっていたわけでも、足が速いわけでもない。それでも、ゆいにこの手が届くような気がした。ゆいへ伸ばす手が、彼女の肩に触れることができるような気が――。
トン、と軽く触れた肩を離すまいと、グッと踏み込み飛び出すようにして近付く。第一関節まで触れることができた指に力を込め、ゆいの体を引き寄せる。するとゆいはバランスを崩し、周平の方へ倒れそうになる。それを全身で受け止める周平は、逃がすまいと腕を回す。
共に、呼吸は荒かった。忙しなく上下に揺れるゆいの胸を感じながら、自らの呼吸も整える。
「――……ゆい?」
呼び掛けても、返事はない。
「やっぱ、一緒にゲーセンでも行きたかったな」
やはり、返事はない。
「そしたら、クレーンゲームでぬいぐるみあげて、ゆいを喜ばせれたのに」
川のせせらぎが聞こえる。
「ぬいぐるみはちょっと子供っぽいか?」
頭上を走る車の音が、いつもより大きく聞こえてくる。
「ゆいやったら……今時の女子高生は、光り物が好きなんか? ピアスとか、ネックレスとか」
空を飛ぶカラスは、鳴いていなかった。
「ほら、プロポーズの時とか、指輪見せるやん? やっぱ光ってるもんが好きなんやろ?」
何度話しかけても、ゆいは答えない。呼吸が落ち着きだしたのを感じる。それと同時頃、ゆいが周平の手に触れた。
「周平さん、離してください。警察呼びますよ?」
周平は慌てて回していた腕を離す。
ようやく口を開いてくれたことと、予想通りの言葉が来たことで、周平は内心少し喜んでいた。
だが、少しこちらを向いたゆいの表情で、周平の気持ちはぐっと下がる。
睨んでくれたほうが、まだましだった。「どうして水の中に自ら入ったんですか!?」と怒鳴ってくれた方が楽だった。
ゆいが、あまりにも悲しそうな顔をするものだから、周平は言葉が出なかった。胸にしこりができたように痛い。
斜め下を見ていたゆいの瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
「私に近づかないでください。貴方まで怪しまれてしまいます」
気遣っているのか、それとも嫌味か。今のゆいからそれを予測することは難しい。
「じゃあ教えて。……ゆいが、紗由理を殺したんか?」
大丈夫? と声をかけるようにして言った。それを聞いていいものなのか、よく分からなかったからだ。
このまま、ずっと黙ってくれていれば、時間が止まれば、良かったのに。そうすれば、ゆいが警察署へ連れていかれることはない。
だがゆいは、静かに頷いた。
周平はそれを、受け入れるしか無かった。
そうか、としか言えない空気の中で、どうして、という言葉が浮かんだので、それを口にしようとする。だが、ゆいの言葉が被さり、周平の言葉が消えた。
「どうせこれで最後になります。だから、言っておきます」
そう前置きをして。
「私には、恋人がいました」
ゆいは。
「でも、紗由理に殺されたんです」
語り始めた――。
「彼とは、部活の先輩と後輩、という関係でした。彼はそんなに上手ではなかったのですが、とにかく優しかったです。教え方も上手で、偶然にも彼が私の先生役になったことが始まりでした。
私が彼に好意を抱くのも、時間の問題でした。いつでも彼のことを思い、部活に行きたくて仕方がありませんでした。そのお陰か、私は無遅刻無欠席を続けていました。彼はそれを褒めてくれました。……嬉しかったです。
彼が引退する前に、私は彼に告白をして、付き合うことになりました。それからずっと……ずっと、付き合っていたんです。これからも、それが続くと思っていたのに……」
急に言葉が乱れ始める。声をかけてやりたいが、それができなかった。ゆいの瞳の奥にある、殺意の燃え殻が見えたからだ。
「……彼の妹が突然、自殺したんです。離れて暮らしていたので、妹は別の高校に通っていました。
彼女は、いじめを苦に自殺したんです。その首謀者が……紗由理でした」
これで、糸は繋がった。
ゆいが紗由理を殺そうと思ったきっかけ、そして、紗由理が殺された理由も――。
「いくら幼馴染みであっても、それは許せません。人をいじめるだなんて。私の知っている紗由理は、人をいじめたりはしなかったはずなのに。
それだけならまだ良かったです。妹が死んだことで、彼は可笑しくなってしまいました。私に向けてくれた笑顔は消え、いつも目の下には隈ができていました。
そして……彼も、後追い自殺をして、亡くなりました」




