第三十五話 一番大切なとき
わざわざ中に入って待つと、看護士に声をかけられそうなので、自動ドアから少し離れた場所で待つことにした。
少し家でゆっくりして、コンビニに寄ってから来た。ゆいがどれ程の時間紗由理と会うのか分からないし、時間がかかるかもしれない。だが、多少時間を潰したので、長時間待たなければならない、ということはないだろう。
人が死ぬことで、それを悲しむ人はいる。両親、兄弟姉妹、友人……。それが、世界のどこでも、いつでも起こっていることながら、人間は、それを案外身近に感じていない。生きていると必ず死が訪れる。それを理解していても、死が訪れると穴が開いたような虚無感に襲われる。
それほど、死は失うものが多いのだ。
ある人は家族を失い、ある人は友人を失い、ある人は信頼できる人を失い……。誰かの中から自分が消え、思い出となってしまう。自らそれを選ぶのは、つまり、その死は自殺である。
周平は、自殺なんてするべきでないと思っている。それと同時に、仕方のないことだとも思っている。生きようが死のうが、他人には関係ない。産んでくれた家族、仲良くしてくれた友達が、いくら止めようとも、「関係ない」という言葉で一歩引き下がってしまう。そこでむしろ、一歩前に出ることができれば、どんなに楽か……。
紗由理の死をきっかけに、もし、ゆいが死を選ぶようなことがあれば、どうだろう。
紗由理の死をニュースで見て、もしかしたらゆいも、と考えてしまった。
誰かの死が辛くて、自ら死を選ぶ人はいる。もしゆいがそのうちの一人だったら、周平はゆいを一時も一人にしたくはない。ゆいが死ぬことで悲しむ人はいる。それよりも、ゆいとまだ一緒にいたいと思っている人がいる。それを伝えなければならない。
『周ちゃんなら大丈夫だよ。きっと受かる。あたしが祈ってるから』
――何が“祈ってる”、やねん。
まるで特急が通ったように、台詞が流れてきた。周平はそれを思い出す度に、同じツッコミを心の中でする。それ以外の返答が出てこないのだ。いつまで経っても、“彼女”の言葉が嘘にしか聞こえない。だけど、決して嫌いになることはできなかった。
ゆいに出会ったとき、「世の中には似たような顔をしている人が三人いる」という言葉を信じることができた。輪郭、口の形、目と目の距離。異なるところと言えば、髪型くらいだ。生まれ変わりか、姉妹、双子かと思った。だが、“彼女”に兄弟姉妹はいないと聞いていたので、生まれ変わりかと考えたが、それにしては年齢が大きい。
周平は思わず、ゆいをつけてしまった。本当は棗、何てことがあったりしないだろうか、と多少の期待を持ちながら。
もういない人のことを考えても戻ってくるわけではないのに、ゆいを待つ間、周平は棗のことを考えていた。
待っている間に、片手で数えるほどの家族やお年寄りが行き来した。家族の付き添いで来たのか、通院しているのか、事情は様々だろう。どちらにせよ、家族連れが涙を流しているところを目撃してしまった周平は、どちらでもないと勘づいた。
自動ドアが開き、次は誰だろうと思ったときに出てきたのは、ゆいだった。随分と暗い表情をしていたので、声を掛けようとしたとき、本当に本人かと思い止まってしまった。伏し目がちだった目を上げてこちらを向いたとき、慌てて真顔に戻す。今の周平の表情を見せて、中途半端な気持ちにはさせたくないのだ。それで少しでも悲しみが紛れるのなら、喜んでするのだが。
下手に気分を害して、「一人になりたい」と言われれば、周平は「分かった」と頷ける自信が無かった。
ゆいは視線を逸らすと、また伏し目がちになる。こういうとき、どう声を掛ければよいのだろう。「大丈夫か?」は、大丈夫でないのが分かっていて聞くことになるし、悪ければ気分を害してしまう。
あのとき夏実は、白い布を被せられて魂を失ったものを見ている周平に、なんと声をかけていただろうか……。
周平は、その時の外部からの刺激を、なにも覚えていない。ぽっかりと、穴が開いてしまったかのように。
「周平さん」ぽつりと呟く。その言葉は、いつものゆいの言葉のように思えたが、比べると、空気のようにとても軽い。
「ごめんなさい。一緒に捜して頂いていたのに、こんなことになってしまって」
「ええよ」
「わざわざ待っていただいてありがとうございます」
「気にすんな」
「私はこれから、もう、帰ろうと思います。ここにいても、何も、用はありませんし」
ゆいの口調からは、今まで以上に遠い距離を感じる。糸電話で話しているように、か細くて、脆くて、今にも聞こえなくなりそうな声。
なぜこんなにも、奥歯を噛み締めてしまうのだろうか。ゆいが、心の奥に感情を隠しているせいで、それで更に惨めに感じてしまう。
もっと、泣いてもよいのに。
もっと、顔を上げてもよいのに。
どれだけ堪えても、いつかその悲しみは放たなければならない。どうか、一人で悲しむことだけは止めて欲しい。
寄り添ってあげられない。
一番大切な時に、近くにいてあげられない。
なぜ人は、こうも面倒な生き物なのだろうか。
「ゆい」周平は、ゆいの手を握る。「じゃあ最後に、一緒に遊ぼうや」
ゆいは顔をあげようとしない。
「別に、会おうと思ったら会えるけど、わざわざ来るってなったらめんどいやん? だからさ、最後に」
一向に顔を上げないゆい。周平は仕方なく、ぐっと腕を引っ張る。すると、ゆいは一歩も動かないという風に、腕を引っ張り返してきた。ゆいは未だに俯いている。ゆっくりと手を振り払い、ゆいは言う。
「ごめんなさい。帰りたいんです。これ以上貴方といるのは、私が辛いんです」
顔は見えない。だが周平には、泣いているように見えた。
周平はそれ以上、手を伸ばすことも、話しかけることもしないでおこうと思った。本人がそう言うのならば、そうするのが一番良策だ。
「分かった。じゃあ俺……帰るわ」
片手を上げて、できるだけ軽めに言った。うまく笑えているだろうか、ひきつっていないだろうか。
何を言っても顔をあげそうにないゆい。背中を向けてしまう最後まで、横目で、その姿を見ていた。毛先に向かうにつれて茶色くなっていく髪。もし、あれが本当に地毛ならば、ここまで一緒にいることは無かったかもしれない。別に、茶髪に惹かれたと言うわけではないのだけれど――。
去ってしまうのが、惜しい。
一歩踏み出した周平の足が、突っ張るように止まった。何かに体を掴まれ、それ以上進むことが困難になってしまったからだ。
引きずりながらも歩く、という手もあった。だが、その手が微かに震えていたために、表には出てこない、本当の気持ちを知ってしまったため、出来なくなってしまったのだ。
腹に伝わる、二本の腕の震え。
遠慮気味に、けれど離すまいと裾を握っている。
こんな細腕で、周平が振りほどこうとすれば、いとも容易いものだ。
背中越しに伝わるゆいの熱は、あの時――駅に向かうゆいを追っていた夜のことを思い出させた。
――そうか、結局、出会っとったかもしれんのか。
熊本がストーカーで捕まっていたかもしれない。そうなれば周平は、友人として警察に話を聞かれたり、熊本から被害者の風貌を聞くことがあるかもしれない。
まぁ、可能性は大いに低そうだが。
それでも、この運命は大切にしたいと思う。たとえ、この腕が離れてしまおうとも。




