2. Autumn Leaves
「さあ最後の坂でダイタクリーヴァ、ダイタクリーヴァ先頭!外を通ってエアシャカール、エアシャカールが来た!ダイタクリーヴァとエアシャカール、この二人だ!腕の上げ下げ!最後は……」
皐月賞のラストの直線、実況がそう叫ぶ。
「エアシャカールだああああ!」
二人のデッドヒートに沸き立つ現地の歓声から生徒ホールのテレビ越しでもその熱狂が伝わってきた。先に抜け出したダイタクリーヴァを謀っていたのか、それを待ってましたと言わんばかりに彼女に襲いかかるエアシャカール。直線を向いて互いに一歩も譲らず体をぶつけ合った壮絶な叩き合いの末、ゴール版の横でついた差はほんの数センチにしかすぎなかった。まさか2000mを走った結末がほんの数センチ差で決まるとは、勝負の神様はつくづく残酷だと思う。しかし、どんなに僅かな差だろうとレースの勝者は一人のみ。歴史に名前を刻むのにその一人で十分なのだ。
画面の中央に映し出されているエアシャカールはまさにその「勝者」だった。
画面からも、生徒ホールからも止まない歓声。その歓声に応えてか、片手をポケットに入れながら拳を突き上げるエアシャカール。そのファンサービスにまた一段と観衆が沸いた。
しかし、そんな沸き立つ観衆とは反対に私は今ひどく冷静でいる。画面の中央のエアシャカールの、その奥で小さく映るダイタクリーヴァ。息を切らして膝に手をつく彼女と画面越しの私だけが、この瞬間だけどこか冷たいモノクロの世界に閉じ込められている気がした。実況の声も、他の生徒の声も聞こえない。目の前の景色が遠くなり、幽体離脱をするような感覚。
突如ガタンと音が響く。
抱えていた松葉杖を床に倒してもなお、私はその放心から覚めることはできなかった。
「足首の疲労骨折ですね。全治は半年ぐらいになりそうです。しばらくは激しい運動を控えてください。」
ニュージーランドトロフィー後、足首に痛みを感じてクリニックを受診した私に医師はそう告げた。あまりに突然の告知にショックで言葉を失った私は平静を取り戻そうとして思わず愚問を返してしまう。
「半年って…どのくらいですか。」
「半年は…最低6カ月ですね。でもこの感じだとそれ長引くことも考えられます。足首の骨折は治りにくいですから。手術で骨にボルトを通すこともできますが回復の見込みは薄いでしょう。正直、それをして治りが早まるかと聞かれても期待は持てません。とにかく今は安静にするのが一番です。」
MRIで撮った足首の写真を指差しながら医師はそう語った。確かに、よくよく見ると足首の甲の下の骨に小さな亀裂が入っている。目を凝らして探さないと分からないような小さなひび。こんな小さなひびが、これから私のキャリアの半年を奪うなんて。けれども、今も確かに足首からの悲痛な叫びは続いている。その訴えを無視してこれからNHKマイルを目指すのは到底不可能だった。
苦渋の決断の末、NHKマイルを辞退し松葉杖生活がスタートしたのが皐月賞前。走ることはおろか、歩くことさえ当たり前にできないこの生活は私にとって文字通り地獄の生活だった。飛ぶように走れていた身体はものの数週間で痩せこけ、両脇には松葉杖のせいで痛々しいアザができた。その痛みに耐えかねて少しでも楽をしようと足を地面につけると途端に激痛がはしる。療養期間にはこうした身体的苦痛に加え、着替えや風呂トイレなど当たり前にできず生活に支障をきたすという精神的苦痛もついてまわった。
今思い出しただけでもかなり心に来るものがある。しかし何より、こうした困難の数々の中で最も私を苦しめたのは時間そのものだった。ライバルがレースに出たりトレーニングに励む中、ただ痩せ細っていく自分の足を見つめ回復を祈ることしかできないこの無力感。せっかく日本に来てまで走ることを望んだのに、走ることができないという絶望感。そしてその間にもライバルは着実に強くなっていくという抗いようのない焦燥感。こんな生き地獄が続くぐらいな死んだ方がマシかとさえ思うこともあった。そんなことを考えても時間は早まることなくむしろ如実にその現実を突き続ける。途方もない時間に精気を奪われた私の心は枯葉のように干からび、ストレスは落ち葉のように積もっていった。
皐月賞からしばらく経った頃、日に日に衰弱していく私を見かねたリーヴァが見舞いに駆けつけてくれたことがあった。励ましに来てくれたのは素直に嬉しかったが、会話の最中リーヴァの表情の奥に重く沈んだ感情があるのを察した。彼女はそれを表に出さないように取り繕っていたようだが、明朗闊達な自信家の少女はどことなく虚ろで、燃えていたはずの瞳の炎はすでに煙が立つように暗かった。早くいつも通りの饒舌な関西弁にもどってくれればと願っていたが、皐月賞の予後は悪くダイタクリーヴァの日本ダービー(G1)は12着と惨敗。ダービー後、しばらく彼女は他のレースに出ることはなかった。
こうして春が過ぎ、夏が過ぎ、足首のギブスがとれてようやく走れるようになったのが10月のこと。すでに枯葉も積もる秋になっていた。
「ようやっと走れるようになったんか、プレストン。」
放課後、トラックの端で準備体操をしていた私に聞きなじみのある声が近づいてくる。
「久しぶりだな、リーヴァ。」
その場で唯一明るい太陽の、眩しい西日が私たちを照らす。
「先月からトラックで軽い運動ができるようになって、今は痛みもなく走れるように回復してきている。今月末のスワンステークス(G2)を復帰戦に設定したが...。まあ正直微妙だろうな。4月の頃のフィジカルと比べるとほど遠い。強度の高いリハビリだと思って割り切るよ。ところでそっちは最近見なかったが上手くやっているのか?」
「上手く…ねぇ。上手いか下手かで言ったら下手なんやと思う。ご存じダービーはボロカスで、あれからめっきり調子も上がらんで。自分でも皐月賞引きずっとるのは分かっとったんやけど、ダービーでも正味あそこま歯立たんとは思わんかった。うちが世代引っ張っていたはずなんに気づいたら知らん奴らが急にポンポン沸いて勝ってって。でもそういう驕りとか余計なプライドのせいで空回ってることに気づいて一回初心に帰ることにしたんよ。だからうちも今月、富士ステークス(G3)出て調子よかったらマイルチャンピオンシップ(G1)目指してみるわ。」
久しぶりに喋った彼女は皐月賞後よりかは明るくなっていて内心ほっとした。日本には『出る杭は打たれる』という諺があるらしいが、杭は打たれることでより盤石になっていく。彼女もキャリアのなかで大きな挫折を経験したことでここを乗り越えればきっと前より強くなるだろう。それは同じく、私にも当てはめることができるのだが。
「まあお互い気張らず努力するだけやな。プレストンのケガも治ってきとるようやしホッとしたで。あとは寒なってん風邪ひかんように気いつき。んじゃまた。」
ジャージのチャックを上げた彼女がトラックに向かって走り出したその直後、太陽が雲に隠れた。
「あそや、言い忘れとった。」
「マイルCS来るんならぶち負かしたる、プレストン。」
一言付け足し去っていく。雲が流れて再び夕日に照らされたその背中には、もう何も無駄な重荷は乗っていなかった。
「それなら私も頑張らないとな。」
頬を叩いて気合を入れなおす。リーヴァは今、あのときの数センチよりもずっと先の未来を見つめていた。リーヴァが前を向いていると言うのに私がうつむいたままでどうするのか。いつかのデビュー戦の借りを返すためにも、私はもう一度同じ舞台で彼女に勝つ。
靴ひもが解けないようしっかりと結び、顔を上げる。寒さが強まるこの時期に西日が暖かく背中を照らしてくれていた。北風が吹けばきっと、積もった枯葉も散るだろう。
足枷が外れた足で力強くトラックに踏み出す。私たちを縛り付けるものはもう何もない。
10/21 富士ステークス(G3) 3着 ダイタクリーヴァ
10/28 スワンステークス(G2) 6着 エイシンプレストン
ともに11月19日に施行されるマイルチャンピオンシップ(G1)への登録権を獲得。




