1. Time Remembered
小さいころから芝生が好きだった。硬くない、ふかふかの芝が好きだった。
故郷のアメリカではみんな芝生の手入れに父としてのプライドを賭ける。私の父も例外ではなく、きっちりと同じ背丈で狩りそろえられた芝生を見回しては、よく家族に自慢げに語っていた。確かに、青々として整った芝は美しい。でも幼い私はそんな美しさなんてどうでもよくて、ただふかふかな芝生の上で遊んだり寝転がったりするのが好きなだけだった。そうやって走り回って遊んでは父の自慢の芝を荒らしてしまうから、小学校に上がる頃、私を近所のレーシングクラブに入れたんだと父は語る。最初はそこまで興味はなかったけど、長い芝生のコースを心置きなく走れるのはとても気持ちが良かった。風が髪の横をこすれる感覚が、厚い芝生の上を踏み込む反発が、血液が沸き立つ興奮が、他のどんな遊びよりも私を満足させた。
だから今まで、走ることについて疑問を抱くことなどなかった。むしろ、走ることが私のすべてだと思うようになっていた。進路について親に訊かれた時も、走ること全てが楽しさで満たされていると思っていた私は、両親になんのためらいもなくこう返した。
「もっとレースに出て、いっぱい大きなトロフィーがほしい!」
.........レース後のインタビューでずっしりと重たい木彫りのトロフィーを抱えた私は、そんな昔のことを思い出していた。
「エイシンプレストンさん。改めてニュージーランドトロフィー(G3)優勝おめでとうございます。去年の朝日杯フューチャリティステークス(G1)を制してからアーリントンカップ(G3)そして今大会と重賞3勝ですが、率直に今のお気持ちをお聞かせ下さい。」
「とてもうれしい気分です。去年からトレセン学園にやってきましたが日本でもこのように続けて結果が残せて自信になりました。クラシックには出れませんが、春はNHKマイルカップ(G1)を目標に調整を進めていきます。同世代に負けないように練習に励みます。」
アメリカからトレセン学園に来日してきた私は規約上クラシックレースには出られない。それでも日本にやってきたのは最高峰の芝のレースがたくさんあるからで、レースに出るたびにそのレベルの高さを肌で感じている。故郷のアメリカではダートが盛んだったが、日本では芝のレースが多く整備されていると聞き単身日本に乗り込んだのが去年のこと。芝が得意な私なら日本でも輝けるはずと思い踏み切った決断だったが、どうやらその見立ては正しかったようだ。幸いなことにメイクデビュー後、同世代の芝のG1レースで快勝して勢いそのままに他の重賞レースでも良い結果を収めることができている。
連勝で浮つきそうになる心を抑えるためにもう一度しっかりとトロフィーを抱えて重さを感じる。インタビューを終えて一呼吸した後、抱え控室に向かっていた私は今後のレースの展開について頭を巡らせていた。
「あめっとさん!いいレースだったでプレストン。最後の差しえぐかったで。最近絶好調で羨ましいったらありゃしないわー。こりゃクラシックに出られてたら三冠ウマ娘は、ま・ち・が・い・なしやったなぁ。あー怖い怖い。んで、インタビュー聞いたんやけど次はNHKマイル出るんやって?」
引き上げの最中、突然背後から肩を組まれ労ってくれたのは高等部で同級生のダイタクリーヴァだった。日本でのデビュー戦で彼女に敗北を喫してからお互い意識し合うようになり、今では良い練習仲間になってくれている。彼女もここまでシンザン記念(G3)やスプリングS(G2)と重傷連勝で、間違いなく同期の中でクラシックの最有力候補に名乗りを上げていた。
「誰かと思えばリーヴァか、ありがとう。ああ、次はNHKマイルに出ようと思っている。マイル路線の感触が良くてね。春はそれに出て夏は安田記念(G1)。冬はマイルチャンピオンシップ(G1)でマイル制覇が今のところの目標かな。仮にエントリーできなかったとしても、他のマイル重賞を狙っていくつもりだ。NHKマイルまで期間が短いから、よければまた追い切りに来てくれるとありがたい。」
「相変わらずの堅物やんな。せっかく勝ったんちゅうにもう少しはしゃいでるかと思うたらもう次のこと考えとんのやから。あんま煮詰まりすぎるとケガするでー。」
「お気遣いどうも。それでリーヴァの方は来週、皐月賞だが手ごたえはどんな感じだ?」
「手ごたえは…んーまあぼちぼちやな。まだ2000m以上のレースに出たことないさかい、本番は未知数って感じやね。でも同期では今んとこうちがいっちゃん結果残してるんやから、当日は一番人気かっさらって優勝いただいちゃるわ。」
気前よく、そうリーヴァは言い切った。
リーヴァの実力は私もよく知っている。1800mのレースで結果を残している彼女なら皐月賞は問題ないだろう。それでも2000mを超えるレースになってくると展開は読みづらい。日本のクラシックレースは皐月賞の2000m、日本ダービーの2400m、菊花賞の3200mとかなり幅が広く中長距離の適性があっても全てに適応するのは容易ではない。ましてやリーヴァはどちらかというとスピードの乗ったマイラー寄りなタイプだから皐月賞の2000mといえど体力的には油断はできない。この辺りは本人が一番よくわかっていると思うが、それでも楽観的な彼女を見て友人として忠告をせずにはいられなかった。
「くれぐれも油断はしないように。風に足元をすくわれるぞ。」
「おおきに。そっちも足元よう見とき。靴紐ほどけてんでー。」
そう言い残してダイタクリーヴァは去っていった。
下を向いてほどけた靴ひもを見つめる。日本のことわざで、『灯台下暗し』というものがあるらしいがこのことだろうか。そんなことを考えながら靴ひもを結ぶために身を屈めた、その瞬間だった。
ズキンと足首に衝撃が走った。
直感で感じた、これは普通では済まされないという感覚。
全身に悪寒が走り、脳の血の気が引いていく。
冷や汗が皮膚から滲み出て、どんどんと心拍数が上がっていく。
目の焦点が合わず、その姿勢で固まる。
しばらくの沈黙を経てもなお、引かない痛み。
「..........痛い。」
ふと吐き出したその言葉が脳を埋め尽くした。
我に返って冷静になろうとしたが、事の重大さを理解らされるようにむしろ痛みが増していった。
この時初めて、私は走ることで「楽しい」以外の感覚を覚えた。
恐怖。
エイシンプレストン、春のことだった。




