其ノ武『侵食』
小屋の外へ出たジン。
日が落ちた夜の薄闇に佇む、
人の型をした異様な気配。
黒い瘴気の集合体――。
曖昧な人の輪郭を保った〝影〟をジンは静かに睨み据える。
確かにそこに『在る』――だが、少しでも油断すれば、意識の外へズレていくような希薄な存在。
ジンの本能が危険信号を発していた。
「何者だ…」
会話が成り立つかは分からない。
だが、問わずにはいられなかった。
「久しいな。『天道ジン』…」
その問い掛けに呼応するように――佇む人影の揺らぎがわずかに収まる。
ふと、黒い影の頭に血色の鬼眼が見開いた。
瘴気に満ちた邪悪な隻眼。
そしてその鬼眼がジンの姿を捉えると、にやりと笑うように歪む。
「あの夜以来か…」
「貴様、あの時の…」
瞳に静かな怒気を宿したジン。
完成された闘気が滲み、まるで煙のように全身から立ち昇らせる。
ただ立っているだけで名もなき山全体の大気を震わせる存在感。
「やはり討ち漏らしていたか」
そう言うや――
ボッと炎のような白い光がジンを包む。
それと同時に、爆発的に開放されたジンの気が、突風となって周囲に大量の土煙を巻き上げる。
そして、白い炎の中から――純白の羽織を背負った白装束、 左腕に神格を宿した一振りの太刀を携えたジンが姿を現す。
「ほぅ、腕は鈍っているものと思っていたが…」
そんな姿を前にしても、朧気な影は悠然と佇んでいた。
「かつて最強と謳われた剛剣使いは健在か?」
まるで煽るような口調で影が問い掛ける。
「黙れ」
ギロリ――鋭い眼差しを向けたジンが、バッと胸の前で太刀の柄を掴んだ。
一切の装飾を排した無駄なき純白の太刀。
それは刀身に太陽神の神格を宿した
『神器』――『天断』。
ジンは静かにその太刀を抜いた――。
純白の鞘から、『太陽の浄火』が迸る白銀の刀身が露わになる。
抜鞘は再び白い炎となって消え、
ジンは抜き身の『天断』を両手に構える。
「もはや貴様が何者で、なぜここに来たかなど問わん…」
チキ、と『天断』を構えたジン。
解放した己の闘気を集中させる。
煙のように揺らいでいた白い闘気が一筋の線となり、ジンの全身から湧き上がる。
ジンの精神は研ぎ澄まされていく。
「問答無用。ここで――『断つ』…!」
ダンと地を蹴ったジンが『瞬脚』を駆使して深く踏み込んだ。
刹那、『天断』を振り上げる。
『天断』の刃は斬るのではない。
肉体を、瘴気を、存在を――『断つ刃』
――【天断一閃】
音もなく振り下ろされた刃。
その一閃はただ流麗に縦一文字の軌跡を描いた。
キン、と空間ごと『断つ』斬撃が瘴気の影を一刀両断、縦に裂く。
ふたつに断たれた影が薄れてジンの視界から消えた。
まるで手応えのない空虚な感触。
刃はするりと抜け、虚しく空振った。
違和感を覚え、ジンが眉をひそめる。
「無駄だ。お前の刃は俺に届かん…」
その背後から冷淡な声が響いた。
どういう術理かは分からない。
だが、この感触は――。
〝理の外〟にいる――。
一太刀でジンはそう結論付ける。
「なるほど…」
ぼそりと呟き、背後を振り向く。
そして影を睨むジンはおもむろに太刀を下げた。
「小手調べにしては乱暴だな…」
ズズズと影より浮かび上がる人型。
呆れ気味に肩をすくめる動作をしてみせた。
ジンは黙って警戒の眼差しを向ける。
「俺はお前と闘いに来た訳じゃない。大人しく話し合いをするつもりはないのか?」
「所詮、鬼の戯言。聞く耳を持たん…」
チャキと静かに『天断』を握り直すと、ジンはいつでも斬り掛かる気勢を見せた。
この鬼が〝理の外〟にいるとすれば、〝理ごと断つ〟『天断』でさえも斬ることはできない。
加えて姿が消えた後、再び視認するまでその姿形が意識から――逸れる。
朧気な気配がジンの感覚を狂わせた。
「そうか。残念だ…」
にやり――。
歪んだ鬼眼が不意にジンの背後へと流れた。
ジンの背後には小屋があるだけ。
なぜそちらを見る必要が――。
「なら、お前の『弟子』に挨拶だけしておくか…」
その視線の先、小屋の戸口には――なぜか鬼道丸の姿があった。
「!?」
咄嗟に背後を振り返ったジン。
「師匠。その姿は…」
「なぜ出てきたッ!?」
困惑する鬼道丸に対し、
ジンは初めて本気の怒気を露わにする。
鋭い怒鳴り声が鬼道丸を突き刺す。
そのあまりの迫力に鬼道丸はビクリと肩を震わせた。
過去、彼は鬼道丸に一度たりとも怒ったことなどなかった。
それは優しさからではない。
ただ導くことしか知らなかったからだ。
鬼道丸を『正しい道』を歩めるように。
ジンは鬼道丸にただ『人として』の教えを説いた。
そこに怒りという感情を持ち込むことは相応しくないと、そう考えていたのだ。
だが、今は正体不明の影が襲来している。
ジンの『天断』でさえも通用せぬ〝理ノ外〟にいる異常な存在――。
いつかこんな日が来ると分かっていた。
だからこそ、山全体に気配遮断と認識阻害の結界を張り、存在そのものを打ち消すように息を潜めて暮らしてきたのだ。
それも全て鬼道丸を〝護る〟為――この小屋にも更に強力な隠匿結界が張られている。
万が一、ジンが倒れても鬼道丸が中にさえいてくれれば、その存在が外部に漏れることはなかったのだ。
しかし、鬼道丸の性分ゆえに〝影〟の前へその存在を晒してしまった。
否、何かに呼ばれるように、気付けば鬼道丸の足が勝手に動いてしまっていた。
「やはりここにいたか――」
鬼道丸を見た鬼――『朧』の鬼眼が細まる。
「――『出雲ノ形見』…」
幽かに揺らいでいた希薄な影。
その影が鬼道丸を確認するや、黒い瘴気の霧を渦巻かせながら瞬く間に実体を帯び始める。
そして、庭先に無機質な黒面で顔を隠す一体の『鬼』が顕現した。
「なぜ『人』のふりをしている?」
無機質な黒面から隻眼の鬼眼を閃く。
漆黒の外套に身を包むその鬼は禍々しい気配を湛えながら、鬼道丸を見据えた。
さきほどまでの影とは比べ物にならぬほどの瘴気の密度。
その身体から蒸気のように黒い瘴気の霧が周囲に漏れ出している。
――『瘴気の化身』
ジンはその『鬼』をそう認識した。
瞬間、『朧』の姿が消える。
気が付くと、『朧』は鬼道丸の眼前に立っていた。
ジンでさえも捉えきれぬほどの速さ。
「お前は――『鬼』だろう?」
最初からそこにいたかのように――
朧は無機質な黒面越しに鬼道丸を見下ろした。
いつの間に――そう思うより早く、ぐいっと血色の鬼眼が鬼道丸の顔を覗き込んだ
かつてジンに教えてもらったことがある。
漆黒の眼球に閃く血色の瞳――
それは鬼に堕ちた者に発現する邪眼。
――『鬼眼』だ。
(…お、に?)
そう胸中で呟いた矢先、ギュンとその鬼眼が視界を埋め尽くす。
と同時、鬼道丸の頭のなかに記憶にない無音の情景が流し込まれた。
――雨が降る夜。
泥濘んだ地面には、
激しい戦闘を物語る痕跡。
そこに佇むひとりの白装束の男。
抜き身の太刀を片手に、何かを見下す。
その眼前、半壊したあばら屋。
膝をつく白い女。
濡れた白い髪が顔に張り付き、細い腕に――赤い布で包まれた何かを抱えている。
赤子だ。
泣き声は聞こえない。
だが、その小さな体が震えているのだけははっきりと分かった。
ふと女が顔をあげる。
なぜかその顔は――笑っていた。
安心するように目を細めている。
だが、なぜか悲しげな感情が滲んでいる。
女の薄い唇が何かを伝えた。
白装束の男はしばらく動かなかった。
だが、震える手で静かに太刀を構える。
一瞬、躊躇う。
だが、すぐに女を一太刀で斬り伏せた。
強まる雨足が周囲の音を掻き消していく――。
残されたのは男と赤子。
男は恐る恐る赤子を抱き上げる。
そこで――
情景が途絶えた。
――ズン
衝撃にも似た頭痛が鬼道丸を襲う。
「…うぁ、がっ!」
思わず頭を抱えた鬼道丸。
その場で両膝をつき、低い呻き声をあげる。
そこへ間髪入れず、ジンが深く踏み込んだ。
鬼道丸を見下ろす『朧』。
その背後から強烈な一太刀を浴びせる。
忽ち朧の姿が消え失せ、ジンの刃は虚しく空を裂いた。
刹那、朧は少し離れた場所に現れる。
「貴様…何をした…」
跪く鬼道丸を庇いつつ、怒気を露わにしたジンが朧を睨む。
その姿を見、朧はスッと面越しに鬼眼を細めた。
「哀れな『器』に己の出自を視せてやっただけだ」
悪びれもせず、朧は抑揚なく答える。
その手には、鬼道丸の『赤い襟巻』。
『赤い襟巻』は朧の瘴気を拒絶している。
朧の手を焼き尽くさんと、ジュウウと瘴気を祓う高熱を放つ。
鬼を封じる術式が組み込まれた。
――『鬼封布』。
『朧』の腕が焼け落ちる。
だが、その直後から再生していく。
「己を偽るな。本当のお前を見せてやれ――」
朧の細まる鬼眼。
ジンの表情が固まった。
そして、すぐさま蹲る鬼道丸の顔色を窺う。
じわりと鬼道丸の白目に、黒い紋様が血管のように血走る。
その眼が漆黒の鬼眼に染められていく。
既に鬼道丸の体には鬼化兆候が表れ始めていた。
「師弟仲良く殺し合うがいい――そして師を殺せたのなら、俺の許へ来い。すべてを教えてやろう」
もはや目的を果たした朧が不意に影へと沈む。
「『器』よ…」
その姿の輪郭が徐々に薄れていく。
『朧』の輪郭が徐々に薄れ、再び瘴気の影へと変貌していく。
影の中へと沈みながら、
嗤う眼の朧は嬉々として続けた。
「お前は――『何者』だ?」
ズッ――
影の中へと消えた朧の声。
微かな残響となった声音が、
夜の山の冷え切った空気を震わせた。
そこには――『赤い襟巻』だけが残された。
序章其ノ武 完




