其ノ陸『雁字搦め』
香坂に案内され、鬼道丸は【華ノ国】外縁部へと到達した。
長い街道の終着点――そこは厳重な守護結界が幾重にも張り巡らされた〝作られた〟安全地帯。
白漆喰と黒木を組み合わせた外壁、上部には大量の赤提灯が並び、一定の間隔で櫓が建てられている。
そんな都を囲む外壁の正面。
重苦しい雰囲気の大門が静かにそびえ立っていた。
厚い鉄金具で補強された巨大な門扉は、外界を拒むように固く閉ざされている。
不意に鬼道丸は守護結界の目前で立ち止まった。
目に見えぬ壁が行く手を阻んでいる。
「どうしたのかね?鬼道丸くん」
結界を通過した香坂が振り返り、立ち止まる鬼道丸を見遣った。
「いえ…何でもありません」
鬼道丸にとって初めての入都。
厳重に護られた〝人〟の領域へと踏み入ることとなる。
『鬼哭封印』と『鬼封布』によって内なる『鬼』は封じ込まれているとはいえ、どこまで――。
鼓動が高鳴る。
わずかな緊張が滲む。
(ここで通れなければ――)
嫌な思考が脳内を駆ける。
それでも意を決して足を踏み出した。
ざわ――肌を撫でるような感覚。
目に見えぬ圧が全身に圧し掛かる。
一瞬だけ体温が下がるのが分かる。
内なる『鬼』に干渉される不快な感覚。
空気が淀み、全身から冷たい汗が滲み出る。
だが、守護結界は完全に鬼道丸を拒絶しなかった。
(通れたか――)
香坂はその様子をただ黙って見詰めていた。
「ようこそ――【華ノ都】へ」
少し安堵したようにも見える表情を浮かべ、香坂は正面にそびえる大門へと向き直った。
大門の両脇を護るふたりの門番。
鬼狩り――ではない。
鬼斬刀は持たず、代わりに警杖を握る。
額には〝番〟の字が刻まれた鉢金を巻き、地味色の簡素な装束を身に纏う男達が鋭い視線を巡らせる。
「お戻りですか。香坂準上席」
門番のひとりが香坂の名を口にする。
その表情には緊張と畏敬の念が滲んでいた。
「先刻、猪狩中席が負傷した『野良狗』を連れて通過されました」
もう片方も低い声音でそう告げる。
「相分かった」
香坂は慣れた様子で小さく頷き、大門の前に立つ。
「して、この少年は――」
ふと門番の探るような視線が鬼道丸へと向けられた。
そこにあるのは明確な警戒。
眼差しが鬼道丸へと注がれる。
「『野良狗』ですか?」
懐疑的な態度を示す門番。
「――あぁ、そうだ」
短く、だが迷いのない肯定。
その香坂の態度に門番はぐっと歯噛みする。
「結界は通過しましたが…」
得体の知れぬ鬼道丸の気配を警戒しているのだ。
それは鴉羽と同じ。
鬼道丸の存在を判断しかねる疑念に満ちた目だ。
多くの『野良狗』が出入りする【華ノ都】――その中でも鬼道丸の纏う気配は〝異質〟なのだ。
「この者、本当に通してもよろしいのですか?」
最終確認――門番の目に刺すような光が宿る。
風が止んだかのような静寂。
鬼道丸は黙って香坂の背中を見詰めた。
香坂の言葉ひとつですべてが変わる。
『人』として受け入れられるのか。
それとも、異端の存在として拒絶されるのか。
わずかな恐怖が鉛のように胸の奥へと沈む。
「問題ない――」
その静寂を断ち切ったのは香坂だった。
香坂の言葉を聞き、思わず鬼道丸は息を呑む。
「第一陣が壊滅した今、早急な戦力の補充は【華ノ国】にとって喫緊の課題だ」
それは紛れもない事実――。
門番達もこの国の現状は重々承知している。
「彼の処遇については私が責任を持とう」
落ち着いた声音で話す香坂の目に確かな眼光が宿る。
【華ノ国】筆頭格の鬼狩り。
長年その地位を護る香坂の言葉は――重い。
出会って間もない所属不明の少年――。
いくら『鬼』から『人』を護ったとはいえ、香坂が信を置くには時期尚早のはずだ。
だが、香坂は鬼道丸を通す選択をした。
たとえそれが何か計算があったのだとしても、山を出たばかりの何も知らぬ鬼道丸にとっては初めて人に認められた気がした。
「準上席がそこまで仰るのなら…」
納得はしていない様子の門番達。
だが同時に彼等はこれ以上引き留めるべきではないと判断した。
「香坂準上席殿が御通りだ!」
不意に振り返った門番が重い門扉を警杖で叩く。
すると、ゴゴゴと地鳴りのような轟音を立てながら、巨大な大門が徐々に開放された。
開放された大門の先――灯火が焚かれた居住区のさらに奥、赤と金で彩られた絢爛な建物が建ち並ぶ中心地を夥しい数の赤提灯の光が照らしている。
そのあまりの明るさに漆黒の夜空がそこだけ仄かに明らんでいた。
中心地に向かうほど明るく照らされたこの都の構造は、まるで目に見えぬ糸で線を引かれた格差のようなものを感じさせた。
【華ノ国】は周囲を山で囲まれた盆地に築かれた【火ノ国】領内の小国――中心には国主『立花家』の大屋敷がそびえ、その周囲を豪華絢爛な遊郭が軒を連ねる『華街区』が存在していた。
そのさらに外縁部は商家や長屋が密集し、遊郭の客が泊まる旅籠も点在している。
まず鬼道丸が足を踏み入れたのは外縁の居住区。
中心地よりも一段暗い雰囲気のそこでさえ、夜など関係ないと言わんばかりに提灯の光が灯され、多くの人々が行き交っていた。
大門から伸びる石畳の大通りは『華街区』へと一直線に続いている――。
迷いなく進む香坂の背を鬼道丸が見遣る。
「あの…さっきの人達は?」
「彼等は『番衆』だ。【元老院】の鬼狩り選抜で適性なしと見做された者達だよ」
予想していたかのように香坂は語る。
『番衆』――かつて鬼狩りを志した者達の総称。
だが、様々な要因で鬼狩りの統括機関【元老院】から鬼狩り免許を与えられなかった落伍者だ。
心が弱い者、『気術』を扱えぬ者、病んだ者。
そんな彼等の受け皿として『番衆』は組織された。
鬼狩りにはなれず、鬼斬刀の帯刀も許されなかった彼等だが、それでも一定の素質を有する為にその能力を治安維持に活かしている。
格闘に優れた者は門番等の〝治安維持〟、移動術に長けた者は〝伝令役〟、結界術に長けた者は〝結界班〟――。
それぞれの能力に応じ、役割を与えられていた。
「我等が鬼を狩ることで人々を護っているように、彼等もまた裏方としてこの国の治安を担っている――」
その香坂の言葉に彼等を蔑む感情はない。
ただ対等に人の世を護る為の同志としての感情が滲んでいた。
「誰しもが己の責務を全うしているのだよ」
前を往く香坂の背――その背中からはこの国を担う〝鬼狩り〟としての確かな重みを感じさせた。
「…【元老院】って何ですか?」
鬼道丸の問いに、香坂はわずかに目を細めた。
石畳を踏む足音、赤提灯の揺れる光。
夜だというのに絶えぬ人々の喧騒――その中を歩きながら、香坂は静かに口を開いた。
「ふむ――本当に何も知らぬのだな」
呆れたようでいて、どこか感心したような声音だった。
「【元老院】とは、鬼狩りを統べる統括機関だ」
「鬼狩りを統括――?」
香坂の言葉に鬼道丸が怪訝な表情を見せた。
「あぁ…鬼狩りの任命、各国の結界維持、鬼災への対処、神器と鬼狩具の管理――鬼を司る執行機関…」
香坂の言葉に鬼道丸は静かに耳を傾ける。
「力とは使い手によって形を変えるものなのだよ――故に管理が必要だ」
香坂の声音がわずかに低くなる。
「中には力に溺れた鬼狩りもいる。鬼に堕ちる者すら、な…」
鬼道丸の目が僅かに見開く。
「鬼狩りが……鬼に?」
香坂は迷いなく肯定した。
「『気』とは魂の力だ。そして鬼とは、人の負の感情と瘴気によって生まれる存在――」
香坂の目が夜空を見上げる。
「つまり人と鬼は、元を辿れば遠くない」
ぞくり――。
その言葉に鬼道丸の内側で〝何か〟が反応する。
『鬼哭封印』の奥――己の内に巣食う鬼が微かに脈打つ感覚。
香坂はそれに気付いているのかいないのか、淡々と続けた。
「怒り、憎しみ、執着、絶望――そうした負の感情に魂が呑まれれば、人は容易く道を踏み外す」
「……」
「だからこそ鬼狩りは鬼を狩るだけではない。負の連鎖を断ち切るのも我々の役目だ」
鬼道丸は黙り込む。
鬼を斬る者、鬼を封じる者。
それらを統べる――【元老院】。
つまりこの世の秩序そのものが、鬼との戦いを前提として築かれている。
鬼道丸はようやく理解する。
何故これほど結界が張り巡らされているのか。
何故鬼狩りが必要で、人々が夜に灯火を絶やさぬのか。
この世界は未だ鬼の脅威の中にある。
「平和に見えるかもしれんがな」
香坂が静かに笑う。
「人の世とは常に、誰かが鬼を斬り続けることで成り立っているのだよ」
その目はまるで終わりなき地獄を見ているかのような遠い眼差しをしていた。
「――さて、もう夜も遅い。今日のところは救護所に案内して、君とはお別れだ」
歩みを止めることなく、香坂は続けた。
石畳の大通りを進み、しばらくすると表通りの一画、白布が張られた木造施設に到達する。
立看板には『医術所』と記され、その脇に〝臨時救護所〟という文字も見える。
「ここだ」
そう言うと、香坂はおもむろに鬼道丸へと向き直った。
「最後に――改めて君の働きに礼を伝えておく。君が助けた彼は『土蜘蛛』討伐の第一陣。彼の持ち帰った情報は我等にとって有益なものとなるだろう」
香坂が鬼道丸を真っ直ぐに見詰める。
その眼差しには鬼道丸に対する期待が宿る。
信頼はしていない。
だが、信用はしている。
そんな意思を感じた。
「いえ、当然のことをしたまでです…」
どこか気恥ずかしさを感じながらも鬼道丸は素直にその言葉を受け取った。
香坂はそんな鬼道丸の態度にフッとわずかに口元を緩める。
「あ、あの…お名前をお聞きしても?」
不意に鬼道丸が問う。
その問いに香坂の目がわずかに見開く。
「そうか。名乗り忘れていたな…」
ふと思い出したかのように香坂が短く呟いた。
「私は――【華ノ国】守護鬼狩り筆頭、準上席格『香坂菊次郎』だ」
バサ、と〝華紋〟を背負う袖無し羽織を靡かせながら香坂菊次郎が名乗りを上げる。
「宜しく頼むぞ、鬼道丸くん」
「…はい。宜しくお願いします。香坂さん」
小さく頷いた香坂がふと視線を巡らせる。
その先、『医術所』の開放された正面玄関。
「香坂様…?」
ぽつり、と呟く女性の声。
鬼道丸が振り返ると、そこにはひとりの若い女性が立っていた。
肩まで伸びる黒髪に整った顔立ち。
背丈は小さく、全体的に少女のような印象を感じさせる。
白衣姿の下、薄紅色の小袖を身に纏う彼女は血濡れた手拭いを入れた木桶を抱えながら香坂を見詰めていた。
「芒殿。薬師寺殿はおられるか」
落ち着いた声音で香坂がその女性――『芒』に声を掛ける。
「あ、はい。奥におられます」
こくり、と頷いた芒。
その視線が鬼道丸へと流れ、細い眉をひそめる。
「怪我人ですか?」
芒は慣れた様子で鬼道丸を診る。
一見して外傷はないが――。
「疲弊されていますね…」
穏やかな声音。
彼女の目は鬼道丸の内面まで見据えていた。
「さきほど松太郎が運び込んだ怪我人を鬼から護ってくれた鬼道丸くんだ。悪いが、しばらく彼をここで休ませてはくれぬか?」
香坂が芒に告げた。
彼女はその言葉にしばらく黙る。
「分かりました。寝台ならご用意できると思います」
「――助かる。して、松太郎はまだここに?」
「いえ。先に報告の為、国主屋敷へ向かわれました」
流れるように話が進んでゆく。
鬼道丸はひとり、その会話を聞いていた。
「今、玄朴様は奥で対応中ですので、この方のことは私の方からお伝えしておきます――」
軽く会釈した芒が鬼道丸を見遣る。
こちらへ、と『医術所』の中へと促された。
鬼道丸は足を踏み出す前、香坂に正対すると丁寧にお辞儀をした。
「ありがとうございました――」
穏やかに礼を口にする鬼道丸。
そんな彼を見、香坂は「こちらこそだ」と短く応じる。
「して、鬼道丸くん。先刻、君は『土蜘蛛』を討つ為にこの国に来たと言ったね?」
「…はい」
確認も兼ねた香坂の問いに鬼道丸は恐る恐る答える。
「――現在、【華ノ国】では『土蜘蛛』討伐に向けた〝第二陣〟の編成が進んでいる。もし良ければ、君を推薦したいのだが…よろしいかね?」
唐突な香坂の問い掛け。
それは鬼道丸にとって思わぬ申し出だった。
そして、鬼道丸の答えは――。
「僕なんかで良かったら…」
控えめだが、そこに迷いはなかった。
「そうか…」
フッと満足そうに微笑した香坂。
小さく頷くと、芒の方へと向き直る。
「では、これで――」
そう言い残し、香坂は芒に一礼した後、袖無し羽織を靡かせ、『華街区』へと続く道を歩き出した。
その背を鬼道丸は黙って見送った。
どこか懐かしさを覚える。
知らぬ間に、鬼道丸はその背にジンを重ねていた。
誰かを護れる強い背中――〝華紋〟を背負う香坂の姿が遠ざかってゆく。
そうなりたい、と鬼道丸は思った。
「鬼道丸様、中へ」
芒は遠慮がちに香坂の背を見詰める鬼道丸に声を掛ける。
「あ、はい。よろしくお願いします…」
不意に振り向き、鬼道丸は芒の案内に従い、『医術所』の中へと入っていった。
欲と色に彩られた妖綺な光に照らされた【華ノ都】。
その夜はまだ――明けない。
〜
鬼道丸と別れた香坂は真っ直ぐに都の中心地――国主『立花鉄左衛門』の住まう『国主屋敷』へと足を進めた。
民の生活感溢れる『居住区』を過ぎ、華やかな光に照らされた『華街区』へ――。
夜を彩る赤提灯と遊女の甘言、行き交う者達は先程とは違い、上等な着物に身を包む者達が目立つ。
裕福な商人や商家の若旦那、見知った顔もちらほら。
三味線の音色が弾け、笑い声が爆ぜる。
皆、遊興の為にこの国へやってきている。
この国の現状を知る者として、この光景は異様なものに見えた。
彼らが遊女と遊ぶ傍ら、外では『野良狗』が死んでいる――そんなことなど露知らず、彼等は一時の快楽を得る為に遠路遥々この地を訪れているのだ。
その金で救える命もあるだろうに。
(呑気なものだ――)
そんな光景に視線を巡らせ、香坂はふと小さくため息を吐いた。
しかし――この国を維持する為には彼等の存在が不可欠という現実。
遊郭が国として形を成した歪な体系がこの矛盾を生み出しているのだ。
『華街区』を進む香坂は軒を連ねる絢爛な遊郭になど目もくれず、真っ直ぐに国主屋敷へと急いだ。
国主屋敷は遊郭に囲まれた小高い丘の上に佇んでいる――屋敷を囲む高塀と浅めな濠、正面には黒鉄補強の立派な正門がそびえ立つ。
国主の威厳を感じさせる厳格な佇まい。
豪華絢爛とは程遠い、静かに威圧感を湛えていた。
この国を治める『立花家』はかつて【火ノ国】から多くの鬼狩りを輩出した名門の家系だ。
現国主『鉄左衛門』は二代目であり、初代国主『立花金右衛門』はかつて【火ノ国】の上席格にまで上り詰めた英傑。
鬼狩りとなって間もない頃、何かと世話になった。
今となっては己も準上席格――この国の鬼狩りのなかで最も格上になってしまった。
その間、多くの仲間を失った。
(私も年を取ったということか――)
自嘲気味に苦笑した香坂は厳かに正門を潜る。
両脇に立つ門番達は顔色ひとつ変えず、深く一礼をし、香坂の帰還を迎えた。
門をくぐると、そこには表屋敷。
国主の名に恥じぬ厳格な雰囲気の木造家屋があった。
正面玄関から上がった香坂は広い廊下を進み、真っ直ぐに鉄左衛門が控える『華ノ間』へと向かう。
「香坂菊次郎、参りました」
『華ノ間』に到着した香坂は襖の前で名乗りを上げると、中から「入れ」と低い声が聞こえる。
襖を開けると、そこには畳敷きの大広間の上座に腰を据える【華ノ国】国主――『立花鉄左衛門』の姿があった。
白髪混じりの黒髪に髭を蓄えた厳格な顔立ち、大柄な体躯に身に纏う黒装束と陣羽織――武人然とした男が真っ直ぐに香坂を見詰めていた。
香坂はそのまま『華ノ間』へと足を踏み入れ、鉄左衛門の真正面まで歩を進めると、ばさりと袖無し羽織を翻しながら、その場で胡座をかいて座った。
「報告は松太郎から聞いておいでで?」
ちらり、と香坂が鉄左衛門を見遣る。
その問いに鉄左衛門は深く頷いた。
「件の『野良狗』、傷は深かったようだが、一命は取り留めたと聞いておる」
第一陣の壊滅――その事実に鉄左衛門は内心穏やかではないようだ。
深い皺が眉間に刻まれていた。
「意識が戻り次第、『土蜘蛛』について情報を聞き出すよう伝えた」
「承知しました」
やり取りの中、鉄左衛門がふと目を閉じる。
「第一陣は総勢一五名だったな。菊次郎」
鉄左衛門が問う。
「…はい」
視線を逸らさず、香坂は答える。
「だが、帰ったのは一名だけ。残る者は全滅か?」
低い声音に宿るのは怒りでも悲観でもない。
長年多くの死の報せを受ける者の静かな疲弊が滲んでいた。
この残酷な現実を受け入れる為に、分かっていながらも鉄左衛門は香坂に聞いた。
それは香坂への信頼の証でもある。
「そう考えるのが自然かと…」
顔色ひとつ変えず、香坂は淡々と告げた。
本気でこの国を案じるならば、事実のみで語るべきだ。
気休めの言葉など何の意味も為さない。
「鉄左衛門殿。もはや『野良狗』だけでは現状は打開できませぬ」
そう語る香坂の目に鋭い眼光が閃く。
「…お前が出る、か?」
「そのつもりです。第二陣の編成は?」
即答だった。
その上で次の手を考えている。
「すでに編成済みだ。だが、今お前を失えばこの国は終わる。もし『土蜘蛛』が攻勢に出れば、誰がこの国を守護るのだ?」
香坂はこの国にとって最も腕の立つ準上席格。
その存在は国防の要といっても過言ではない。
万が一、その要を失えば――【華ノ国】は『土蜘蛛』の手勢によって完膚なきまでに蹂躙されるだろう。
「ですが、第二陣として『野良狗』だけを送り込んでも恐らく今回の二の舞となりましょう。事態の解決にはなり得ません」
香坂の見立ては正しい。
だが、鉄左衛門の考えもまた間違ってはいなかった。
「加えて、『土蜘蛛』は人を喰らって手勢を増やしているとの情報もあります。下手な戦力投入は相手に餌を与えるようなもの。ここで腹を括らねば…」
香坂の決意は揺るがなかった。
【華ノ国】を預かる筆頭鬼狩りとしての矜持。
何より『土蜘蛛』という強大な鬼を前に、何もせずにいるのは香坂にとって拷問に等しい。
己だけ結界に守護られた安全地帯にいては、他に示しがつかない。
そう考えていた。
「保留だ――」
しばらく腕を組み、伏し目がちに黙考していた鉄左衛門がふと視線を上げると、神妙な面持ちで香坂を見遣った。
「第二陣にはあの〝夜鴉衆〟の末裔も加えている。戦力としては充分だ」
「〝夜鴉衆〟…ですか?」
その名を聞き、香坂がぴくりと片眉を上げた。
かつて『月神』の加護を得た『夜月一族』の分家として、影の流派を扱い、多くの鬼を屠ったと聞く精鋭の鬼狩り衆の名だ。
だが、十数年前の〝とある事件〟で全滅したと聞いている。
そんな一族の末裔がなぜ『野良狗』としてこの国に――。
ふと香坂の記憶にひとりの少女が浮かび上がった。
大太刀を携えた年端もいかぬ少女。
だが身に纏う雰囲気は他の『野良狗』とは一線を画していた。
香坂の印象は――〝異質〟。
『野良狗』と呼ぶには、あまりに洗練された佇まいだった。
鬼道丸に抱いたものと全く同じもの。
纏う雰囲気からまるで違う特異な〝気配〟が宿っていた。
だからこそ、香坂の記憶にも残った。
確かに彼女ならば、『土蜘蛛』に届くかもしれない――そう思わせる程の風格を感じた。
「あの娘ですか?」
香坂は確認の問いを投げ掛ける。
「名は確か…『鴉羽』と言ったか」
「噂には聞き及んでおります。確か入国前、中鬼格の鬼を何体か単独で討ち取ったとか…」
鬼狩りとしての実力は確かだ。
が、上鬼格を討てるかは別問題。
不確定要素が強い。
「彼女が第二陣の先駆けだ」
そう言う鉄左衛門の目にわずかな躊躇いが過る。
「…その采配は些か酷ではありませぬか?」
「そう言うな。これは本人たっての意向だ」
香坂の指摘に鉄左衛門は蓄えた顎髭をさすり、深く鼻息を吐いた。
鉄左衛門とて本意ではない。
だが、この厳しい情勢下、少しでも望みのある者へ託さなければならないのだ。
たとえそれが年若い少女を死地に送り込むこととなっても――。
「承服しかねます」
「すでに決まったことだ」
鋭い視線が交差する。
「お前には引き続き【華ノ都】の守護を命ずる」
有無を言わせぬ鉄左衛門の眼差し。
一国の主としての厳格な下命――この国の鬼狩りを束ねる者として従わざるを得ない。
ぎり、と香坂は歯噛みする。
香坂は滅多に見せぬ静かな怒気が滲ませた。
が、すぐに諦めたように香坂は目を伏せる。
「承知――」
苦渋を呑み込み、香坂は静かに頭を下げた。
感情だけで動く訳にはいかない。
肩書きを背負った者の歯痒い返答だった。
「分かってくれ、菊次郎」
重荷を背負う男の硬い声音。
【華ノ間】に気まずい静寂が訪れる。
お互い、付き合いは長い――。
言葉にせずとも胸のうちに秘めた思いは大方は理解できる。
どちらも正しいからこそ、苦しいのだ。
「して、さきほど西門の門番からも報せがあった」
ふと鉄左衛門が重く口を開く。
「妙な『野良狗』の少年を連れて来たそうだな」
「はい。彼は先の任務、私と松太郎が到着するまで第一陣の生存者を鬼から護ってくれました」
香坂は淡々と続ける。
「ほう――」
興味を示すように鉄左衛門が切れ長の目を細めた。
「相手は『土蜘蛛』配下の双子鬼です」
「あの厄介な小娘どもか。腕は確かなようだな」
「私の見立てでは――既に中席格を凌ぐものと考えております」
そこで鉄左衛門はわずかに目を見開いた。
香坂にここまで言わしめる『野良狗』。
彼の眼識は鉄左衛門も一目を置いている。
だからこそ、〝中席格を凌ぐ〟という言葉に驚く。
それ即ち――準上席格である菊次郎に匹敵する存在であることを意味した。
「名は?」
「鬼道丸――と名乗っておりました」
「聞かぬ名だな…」
ふむ、と鉄左衛門の視線が天井を仰ぐ。
「出自は?」
「語りません」
その返しに鉄左衛門がふと怪訝な表情を見せた。
「大丈夫なのか?」
鉄左衛門の静かな問い。
それに対し、香坂は「はい」と迷いなく答えた。
「確かに危うさはあります。ですが、それは他の『野良狗』とて同じこと――」
つまり鬼道丸の危うさを知りながら、香坂は【華ノ都】へと受け入れたということ。
鉄左衛門の知る香坂は本来そのようなことをしない男だった。
だからこそ、鬼道丸という名の『野良狗』の異様さが際立つ。
「守護結界も通過し、ある程度の身の保証はあるものと考えます」
鉄左衛門はまだ納得しきっていない様子。
「少々、見識不足は否めませんが、それも若さ故――それを差し引いても只の『野良狗』として扱うには無視できぬ程の才覚がある」
率直な感想――香坂の言葉に嘘はひとつもない。
「よほど良い師に鍛えられたのでしょう…」
これは憶測だが、香坂が語るからこそ説得力があった。
その言葉に黙って耳を傾けていた鉄左衛門。
ふと身を乗り出すと、鋭い目で香坂の瞳のさらに奥を見据えた。
「信じてよいのだな?」
鉄左衛門が低く問うた。
一国を預かる主としての重みが滲む。
吉と出るか、凶と出るか――。
「すべての責は私が負います」
強い意思が宿る目で香坂は鉄左衛門を見返した。
「分かった――」
その答えを聞き、鉄左衛門が目を閉じる。
香坂は黙したまま、鉄左衛門の次の言葉を待った。
しばらくして、鉄左衛門が目を見開く。
「ならば、その鬼道丸という『野良狗』はしばらくお前の預かりとする。見極める価値はありそうだ」
低く、だがはっきりとした声音。
「但し監視をつける。都内での行動も制限しろ。所在を常に明確にするのが条件だ」
「承知しました」
「第二陣への加入も視野に入れておく」
熟考の末、鉄左衛門は鬼道丸の沙汰を言い渡した。
「しかし――」
不意に鉄左衛門が言葉を切る。
「分からんな。その鬼道丸という少年の為にお前がここまで動く理由はなんだ?」
眉をひそめ、怪訝な眼差しを向けた鉄左衛門。
その問いに香坂はフッと口元を緩めて見せた。
我ながら無理な采配だ、と自覚していた。
しかし、今は国そのものの存亡の危機――多少の無理を通さねば、状況は何も好転しない。
鬼道丸は言わば〝起爆剤〟――。
この停滞した空気感を払拭するための原動力となる存在だ。
――いつの世も、時代の流れを変える者は何の前触れもなく姿を現すものだ。
出自不明、所属不明。
世を知らぬ純粋な少年。
肩書きに縛られた己にはない――〝可能性〟
彼が【華ノ国】を救うかもしれない。
無論、明確な根拠がある訳ではない。
だが、何故か香坂の中に確信めいた予感があった。
「〝勘〟――ですかな…」
冗談めいた香坂の返答。
あながち間違いでもなく、その証拠に香坂の顔は真剣そのもの。
「笑えんぞ」
対し、鉄左衛門は苦笑気味に口元を歪めた。
お互いに己の責務と信念の狭間で揺れ動き、思うように身動きできぬ雁字搦めの男がふたり。
そんな重く張り詰めていた【華ノ間】の空気が、このときだけはほんのわずかに緩んだ。
――第壱章其ノ陸 完




