03 貴族の反応
一方で、部屋の外に出たクリスティナは急いで寝室に戻ろうとした。
その速さはすさまじく、書斎の外で待機していた侍女が慌てて追いかけたが追い付けないほどだった。
だが、彼女にとって不幸だったのは彼女があまりにも公爵邸の間取りについて不案内だった点だろう。案内の侍女を振り切った彼女は、他のことに気を取られていたせいで当然のように広大な公爵邸で迷子になってしまった。
更に不幸だったのは、使用人のための通路に迷い込んでしまった点だろう。
貴族の済む広大な屋敷には、大抵使用人のための隠し通路が設けられている。主人や客人の目に触れないように移動するためのものだが、クリスティナの住んでいた男爵家の城は元が砦だったのでそのような造りはしていなかった。普通の貴族ならそこを在所と定める時に住みやすいよう手を加えるものだが、ランベル男爵家の歴史は浅く更に代々改装するような金銭的余裕がなかったのである。
そういう訳で、クリスティナはやけに狭い通路だと思いつつもそこが使用人の通路だとは気づいていなかった。
そしてどうにか自分の知っている場所に出ようと歩くうち、あろうことかパーティーの招待客が滞在する区画にまで迷い込んでしまったのである。
「あんな女が公爵家に嫁ぐなんて、まったくありえないわ!」
その声は壁の向こうから突如として聞こえてきた。
内容よりもむしろ声の大きさと鋭さに驚いたクリスティナは、思わず足を止める。
「お、お嬢様……」
威勢のいい声の後に、おどおどした声が続いた。高さからいってどちらも若い女性である。
どうやら壁の向こうの部屋では、女性の主従がクリスティナについて話しているらしかった。
公爵家のパーティーに招待されているということは、主人の方はどこぞの貴族の令嬢だろう。
盗み聞きはいけないと思いつつも、クリスティナの足はまるで縫い付けられたようにその場から動けなくなってしまった。
「きっとあのランベル男爵とかいう木っ端貴族が、エリオット様を脅して娘を娶らせたに違いないのだわ!」
部屋の中から聞こえる声に、クリスティナはごくりと息を呑んだ。
そういう話があること自体は知っていたが、自分の耳で直接聞くのは初めてだったからだ。
今までなら公爵様相手にどうしてそんなことができるだろうと相手にもしていなかったのだが、自分は公爵に嫌われていると実感した後では、とらえ方も変わってくる。
「ですがお嬢様。あの公爵様がそう簡単に脅しに屈するでしょうか? それに公爵より地位も財力も著しく劣る男爵が、一体どうやって脅しを……?」
侍女らしき若い女性が、不思議そうに呟く。
自分の実家が著しく貶められている気もしたが、真実なので腹は立たなかった。
むしろ、クリスティナ自身もぜひ部屋の住人にそのあたりの見解を尋ねたかったので、よくぞ聞いてくれたと相手の女性を褒めたいぐらいだった。
「そ、それは……」
さっきまでの勢いはどこへやら。尋ねられた主の方は言葉に詰まる。
「きっと、ならず者を雇って公爵を襲うと警告したのだわっ」
「それならば警備の者を雇えばいいのでは? 公爵様はご自身も大層な剣の腕前と聞きますし、ならず者ごときに臆したりはしないのではないでしょうか……?」
「う……」
そうなのかと思いつつ、クリスティナは令嬢の次なる言葉を待った。
「そ、それではエリオット様は何か弱みを握られてしまったのよ! それをいいことにランベル男爵は娘を押し付けたのだわ!」
「弱み……、ですか? ランベル男爵がそれほど情報通とは思われませんが。確か、社交界にも碌に顔を出さないとおっしゃっていませんでしたか?」
「そ、それはそうだけれども!」
気弱そうな声音ながら、侍女はどんどん主君を追い詰めていく。
一瞬大丈夫かと心配になったクリスティナだったが、それよりも今は話の内容の方が気になった。
脅しと考えた時に大概思いつくのは令嬢の言った二つだが、侍女が言ったようにそのどちらも父であるランベル男爵には馴染みのないものである。
そもそも、祖先の戦働きが評価されて貴族になった割に、父である男爵はどちらかと言えば文官向きの性質だった。
それでも領地運営がそれほどうまくないのは人が良すぎるせいだ。
クリスティナ自身は、そんな父を尊敬こそすれ嫌だと思ったことは一度もないけれど。
「とにかく、なにかよからぬ方法を使ったに違いないのよ! そうじゃなければ男爵の娘と公爵の結婚なんてありえないわ! ありえないったらありえないのよ!」
部屋の中からどすどすと地団駄を踏む音がした。
クリスティナは恐怖を感じ、部屋の住人に気付かれないよう息をひそめて静かにその場を後にしたのだった。