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穀物代師の男[前編]


 穀物代師(こくもつがえし)になりたい、と打診(だしん)してきた由布梨に研修を施して二日目。

 基希は由布梨に対して、あ、抱きしめたい、とふとした瞬間に思った。

 意味が分からなかった。

 身体にかゆいところがあった時に爪を立ててかきむしりたいとか、夏の夜に寝苦しくて布団をものすごく引っぺがしたくなる時と同じ、そういう衝動が急に基希の中に湧いてきたのだ。あまりにも自然に感じたので、本当にそうしていいのかと思った。

 抱きしめてもいいのかと思った。

 いいわけあるか、と基希は自分のこめかみを殴った。

 本当に、いいわけがあるか。

 当たり前のように、部下に抱いていい感情じゃないだろう。

 基希はこの感情に振り回されないよう、必死に言い聞かせた。。


(抱きしめようが、抱きしめまいが、何も変わらない。その行為をしても何の意味がないだろう。落ち着け自分、落ち着けー!)


「あの、基希さん?」

 脳内が慌ただしくなっている時、基希は由布梨に話し掛けられた。

 基希は平静を装って訊き返す。

「どうかしたか?」

「これ、戻すところが分からなくて」

 彼女の手の中にある書類に目を落とす。

「いいよ、いいよ、そんなのこっちで戻しておく……」

 無意識に基希は言っていた。

 意思とは裏腹に勝手に出てきた言葉だった。

 研修を受けている部下から勉強の機会を取り上げてどうする、と基希は自分で自分に呆れ返った。


「何、甘やかしたがってんだよ僕は馬鹿か!」

「も、基希さんどうしたんですか」

 心の声駄々漏れになっている基希に、由布梨はたじろいだ。

「あ、違う」

 基希は今更ながら口を覆った。全くもって間に合っていない。

 ごほん、と一つ咳払いをしてから、

「あそこの棚だ」

 と何故か小声で基希は言った。

「分かりました。しっかり覚えます」

 由布梨は殊勝に返事をした。

「困ったことがあれば何でも相談してくれ。僕は君の上司だからな」

 基希が何げなく言った、その瞬間、基希に背徳感が襲い掛かる。

 嘘はついていない。

 それにもかかわらず、僕は君の上司だから、と言うとなんか、やましい気がするのだ。

 数々の部下に施してきた新人研修、慣れているはずのことなのに、由布梨と一緒にいると基希には新鮮に感じられた。

 由布梨に見られていると思うと、基希は仕事にどうも集中出来なかった。

 限界はすぐに来た。

 基希は、由布梨への指導をすぐに他の人に交代してしまったのだ。


「これで、元通り。仕事に集中出来るな」

 ようやく仕事にすっきり集中出来る、と基希は安堵していた。しかし、そう上手くもいかなかった。今度は、由布梨と、他の穀物代師が話している様子が、気になって仕事どころではなかった。

 何故だ、と基希は頭を悩ます。結局どうしていいか分からなくなり、

「どう、困ったことはない?」

 いつも通りのクールさで由布梨に話し掛けに行った。

「今のところは大丈夫です」

「……そう」

 何で少し残念そうなんだ、自分は。

 最近本当におかしいことばかりで参る、と基希はバテバテになってきた。


 すると、

「お茶です。基希さん、何か疲れてるみたいなので、どーぞ」

 基希を慮った由布梨が、お茶をいれて基希の元へ来た。

 基希は柄にもなく間の抜けた顔をして、しまりのない口元で笑った。

「あ、あぁ。ありがとう」

「お疲れ様です」

 去って行こうとする由布梨の後姿に掛ける言葉を探すが、何も見つからない。

 仕事は順調なようだし、彼女は覚えも早い。

 基希は自分から他の人に由布梨の研修をバトンタッチにしたにもかかわらず、もう頼ってもらえないのかと思うと、若干おかしくなりそうだった。

 そんなわけで、横目で由布梨を確認するだけの日々が続いた。

 

 ある日の休憩中、居眠りしている由布梨が、

「基希……さん……」

 と呟いた。

「え?」

 基希は夢でも見ているような思いで耳を近付けた。

「穀物代所……意味わかんない……由来……」

「すごい寝言だ」

 そう言いつつも、基希は内心では小躍りしたいほど嬉しかった。

 そして由布梨寝顔を見た時、あ、天使だ、と当たり前のように思った。身体にかゆいところがあった時、かきむしりたくなる~(以下略)。

 基希は、すっかり由布梨が居眠りしていることを注意するのも忘れるほどに、この状況にハマっていた。


 しかし楽しいばかりの日々もそう長くは続かなかった。

 何気なく由布梨に、穀物代師に急になる気になったのは何故か、と質問した時。

 由布梨は隠すことなく、

「色取君がモンスターの毒で倒れて、治療費を私が払うつもりだから」

 と基希に答えた。

 それを聞いて、基希はちゃんと目を覚ますことが出来た。

「そう、か。大変そうだな……」

 基希は、初めて食堂で由布梨と出会った時のことを思い出していた。

 境界の壁の向こう側、そこから来たと知って、彼女が苦労しているのではないかと思って気に掛けていた。

 そう言えばあの日、詩安は随分と馬鹿なことを言っていた。


 ――運命の糸が他の人に繋がる前に繋げばいい。


 なかなか面白い理論だな、と基希は思う。

 前提として、運命の糸と呼ぶくらいなのに、誰とでも繋がる可能性があるといっているのだ。


 ――それならばもし、色取君がこの世界に辿り着く前に、僕の運命を由布梨と繋げることが出来ていたのなら?

 そんなことがふと頭をよぎるが、すぐ基希は自嘲気味に笑い飛ばした。

 自分から上司と部下、と線を引いたり、研修の担当を他の人に代わらせ、せっかくのチャンスを捨てたのだ。後悔も何もあるか、と基希は思った。


 この恋は静かに落とす、基希はそう決意した。

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