第百三十七話(最終話) カルタゴが滅びる未来を変えたので、俺は普通の商人に戻ることにした
紀元前181年。
カルタゴ。
朝。
港には、いつものように商船が並んでいた。
水夫たちが荷物を運び、商人たちが値段を交渉している。
遠くでは、子供たちが走り回っていた。
俺は、港の事務所で帳簿を開いていた。
「……今日の入荷は?」
向かいに座る若い商人が答えた。
「ヒスパニアから銅が届きます」
「数量は?」
「予定どおりです」
「ローマ向けの穀物は?」
「明日の船に積み込みます」
俺は頷いた。
「よし」
メルカルが、隣で笑っていた。
「……結局、最後まで帳簿ですね」
俺は笑った。
「そうだね」
「引退するんじゃなかったんですか?」
「引退したよ」
「どこがです?」
俺は帳簿を指差した。
「今は、自分の商売しかしてないだろ?」
メルカルは呆れた顔をした。
「……確かに、国の財政は見ていませんね」
「そういうこと」
俺は笑った。
その日の午後。
俺は港を歩いた。
戦争中に使っていた古い倉庫は、すでに建て替えられていた。
軍需物資を保管していた場所には、今では穀物や陶器が積まれている。
かつて兵士たちが出航した岸壁には、商船が並んでいた。
俺は、しばらくその光景を見つめていた。
ふと、昔のことを思い出した。
カルタゴに生まれたこと。
自分が、かつて別の時代を生きていた記憶を持っていると気づいたこと。
そして、この国が将来滅びると知ってしまったこと。
本来の歴史では、カルタゴはローマに敗北する。
ザマの戦い。
厳しい和平条件。
そして、紀元前146年の滅亡。
俺は、その未来を変えたかった。
ただ、それだけだった。
最初は、何をすればいいのか分からなかった。
俺は軍人ではない。
剣も得意ではない。
戦術も、専門家ほど詳しくない。
ただの商人だった。
だから、商人としてできることを考えた。
食料を集める。
輸送路を整える。
船を用意する。
契約を結ぶ。
そして、敵国の商人とも話す。
一つ一つは、小さな仕事だった。
だが、その積み重ねが、やがて大きな変化につながった。
アルプス越え。
カンナエ。
ヒスパニア。
メタウルス。
そして、ザマ。
俺は、何度も失敗した。
計画どおりに進まないことも多かった。
人を救えなかったこともあった。
それでも、諦めなかった。
ハスドルバルは生き残った。
ハンニバルは故郷へ帰ってきた。
マシニッサは、ヌミディアの独立を守ろうとした。
そして、カルタゴはザマで勝利した。
だが、本当に大切だったのは、そのあとだった。
ローマと和平を結ぶ。
戦争で傷ついた国を立て直す。
兵士たちが故郷へ帰れるようにする。
そして、次の世代が安心して暮らせる国を作る。
俺は、そのために働いてきた。
夕方。
俺は港の広場へ向かった。
そこには、第二次ポエニ戦争の終結を記念する碑が立っていた。
俺は、碑文を見つめた。
『カルタゴとローマは、戦争を終えた』
『両国は、交易と共存の道を選んだ』
俺は小さく笑った。
「……これで、よかったんだ」
そのとき。
後ろから声がした。
「アドン!」
振り返ると、メルカルが走ってきた。
「探しましたよ!」
俺は笑った。
「どうした?」
「明日の商船の件です!」
「何か問題?」
「ローマ向けの穀物が、予定より多く積めそうなんです」
俺は頷いた。
「それなら、追加で売ろうか」
「価格はどうします?」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「いつもの取引先だから、少し安くしてもいいんじゃないかな」
メルカルは笑った。
「……相変わらずですね」
俺も笑った。
「商人だからね」
俺たちは、港へ向かって歩き始めた。
夕日が海を照らしている。
商船の帆が、風を受けて揺れていた。
遠くから、船員たちの声が聞こえる。
俺は、ふと立ち止まった。
そして、港全体を見渡した。
カルタゴ。
俺が生まれた国。
滅びるはずだった国。
だが、今もここにある。
人々が暮らしている。
商人が働いている。
子供たちが笑っている。
そして、明日も船が出航する。
俺は、静かに呟いた。
「……未来は、変えられるんだな」
メルカルが振り返った。
「何か言いました?」
俺は首を振った。
「いや、何でもない」
「では、早く行きましょう!」
「はいはい」
俺は笑って歩き出した。
もう、歴史を変えるために走り回る必要はない。
これからは、普通の商人として暮らしていけばいい。
商品を仕入れ、船を出し、利益を計算する。
時には失敗し、時には儲ける。
そして、家族や仲間と食事をする。
そんな普通の毎日を続けていく。
俺は、それが何より嬉しかった。
港の向こうで、新しい商船が出航した。
白い帆が、夕日に輝いている。
俺は、その船を見送りながら笑った。
「……さて、明日も商売だ」
カルタゴは、滅びなかった。
ハンニバルは、故郷で生きた。
そして、俺は普通の商人に戻った。
――完。




