おまけ
あれから、三週間が経ったある土曜日の朝。
玄関のタイルをサッと掃き清め、ちりとりを片付けながら、千鶴はふうと息を吐いた。
初めは「前頭前野の筋トレ」と意気込んで始めた毎日の掃除や靴揃えだったが、今ではもう、何の気なしに身体が動くようになっていた。
(……不思議なもんだな)
最初はあれほど反吐が出るほど嫌だった作業も、毎日のルーティンワークとして生活のリズムに組み込んでしまえば、さほど苦ではなくなる。毎日風呂に入ったり、歯を磨いたりするのと一緒だ。
どうすれば短時間で便器のフチを綺麗にできるか、どの洗剤を使えばタイルの汚れが早く落ちるか。サッカーのパス回しと同じように、練習し、学習し、効率的な方法を考えることすら少し面白くなってきていた。
変化はすぐに家族に現れた。
『千鶴、毎朝トイレを綺麗にしてくれてありがとうね。お母さん、すごく助かってるよ』
仕事と家事に追われていた母が、ふっと柔らかな笑顔で感謝してくれた。
『疲れて帰ってきたとき、玄関の靴がピシッと揃ってると気持ちいいもんだな』
いつも肩身が狭そうにしていた父も、嬉しそうにしてくれた。
家族の空気が明るくなったことで、祖母の小言も目に見えて減っていた。
神様のご利益なんて信じていない。けれど、たった数分のルーティンを毎日こなすだけで、家族がギスギスせずに仲良くいられるのなら、これはこれで悪くない「投資」だった。
そろそろ部活へ行こうとジャージを着込み、居間の前を通りかかった時だった。
——チーン……。
澄んだ仏具の音が、静かな朝の廊下に小さく響いた。
ふと開いていた障子の隙間から目をやると、線香の白い煙が立ち上る仏壇の前で、祖母が正座して手を合わせていた。
「……いつも家の中を見守ってくださり、本当にありがとう。じいさん……今日もみんな元気でやってるよ」
穏やかな声だった。
いつも自分に怒鳴りつけていたあの厳しい声とはまるで違う、慈愛に満ちた声。
千鶴が足を止め、なんとなくその背中を見つめていた、その時だった。
——スッ……。
窓を閉め切っているはずの座敷に、ふわりと柔らかな風が吹き抜けた。
仏壇のロウソクの炎が、まるで誰かが息を吹きかけたかのように小さく揺れる。
「……ふふ、そうかい。千鶴のやつ、今日もトイレ掃除したのかい。あの子にはきっといいことがあるね」
祖母が、楽しそうに小さく笑った。
独り言にしては、あまりにも誰かの返答を聞いて相槌を打っているかのような、自然すぎる「会話」だった。
千鶴は思わず息を呑み、仏壇の奥の薄暗がりを見つめた。
祖母の隣——誰もいないはずの畳の上が、陽だまりのようにほんの少しだけ白く霞んで、誰かがそこに腰掛けているように見えたのは、ただの光の加減だったのだろうか。
(……これって、理系オタクの言う『朝のルーティンによる自律神経の安定と誠実性』なのか?)
(それとも……オカルト女の言っていた、本当にご先祖様との『交信』なのか……?)
創一の冷徹なデータ論も、詩織の怪しげなオカルト論も、どちらも正しくて、どちらも少しだけ足りないような気がした。
「……ま、どっちでもいいか」
千鶴は小さく口元を緩めると、玄関に向かい、真っ直ぐ綺麗に揃えられた自分のスニーカーに足を入れた。
「行ってきます!」
力強くドアを開けると、初夏の青空からまぶしい朝の光が降り注いできた。




