ファイル1 呪いのストラップ①
龍崎蓮司の自慢は、ラグビー部で鍛え上げられた一メートル超の分厚い胸板と、校内でも抜群に目を引く端正な顔立ちだった。
彫りの深いワイルドな目元に、少しやんちゃにハネさせた、よく似合うアッシュブラウンの茶髪。学校の女子からは「ちょっと危険で最高にイケメンな先輩」と囁かれ、男子からは一目置かれる、スクールカースト不動の一軍。スポーツ万能、喧嘩も負け知らず、規律を少しだけはみ出す不良のオーラ。大抵のトラブルは、持ち前のパワーと天性のカリスマ性、そして圧倒的な勢いで強引に押し切ってきた。
だが、その恵まれた肉体も、誰もがひるむ一軍としての威圧感も、そいつの前では何の役にも立たなかった。
一月の半ば、スキー場。
猛烈な吹雪が視界を白一色に染め上げるゲレンデの最頂部で、蓮司は一人、立入禁止のロープを潜り抜けていた。
耳を聾するのは、凍てつく風が牙を剥く轟音だけだ。マイナス十度を下回る極寒の地。凍りつくような風に晒されているというのに、蓮司の額からは、じっとりとした嫌な冷や汗が絶え間なく流れ落ちていた。
感覚の麻痺しかけた、かじかんだ右手の掌をゆっくりと開く。
そこに載っているのは、わずか二・五センチほどの、あまりにも小さなプラスチックの塊だった。
じっとりと濡れたような漆黒の長い髪に、落ちくぼんだ眼窩から剥かれた不気味な白目。昨年、ブームになったホラー映画の劇場限定マスコットストラップだ。かつては流行りに乗って通学カバンにつけていたのだが、ブームも過ぎ去り、何より見ていると生理的な嫌悪感を覚えるようになったため、処分しようと思い立ったのが先月のことだった。
指先に伝わる感触は、どこにでもあるチープなプラスチックの感触。
本気で指に力を込めれば、ラグビー部で鍛え抜いた蓮司の握力なら、一瞬で粉々に入り混じるプラスチックのゴミに破砕できるかもしれない程度の代物だ。
だが、壊すのが、どうしても怖かった。
万が一、これを自分の手で物理的に破壊してしまったら、内側に閉じ込められている「何か」が弾け飛び、二度と取り返しのつかない事態になる——野生の勘のような恐怖が、彼の強靭な肉体を縛りつけていた。
「……ここなら、絶対に戻ってこれねぇはずだ」
蓮司は掠れた声で、自分に言い聞かせるように呟いた。
そして、大きく右腕を後ろへと引き絞る。積雪二メートルを超える誰も足を踏み入れない漆黒の谷底へ向けて、全身の筋力を叩きつけるようにしてその指先を放った。
シュッ、と空気を切り裂く鋭い風切り音。
二・五センチの小さな黒い影は、激しい吹雪を押し戻すようにして綺麗な放物線を描き、そのままホワイトアウトしていく白闇の向こうへと消え去った。底の知れない、深い、深い雪の墓場へと。
「……よし、っ、……これできっと……」
蓮司は両膝に手をつき、肺に冷たい空気を一気に吸い込みながら、荒い息を吐き出した。
いくらなんでも、人間の足跡すらないこの極寒の雪山から、自力で戻って来られる道理がない。東京の自室へと帰還するなど、物理的に、空間的に、絶対に不可能なはずだ。
そう、頭の中で何度も何度も自分に言い聞かせなければ、恐怖で正気を保てなかった。
——始まりは、自室の片隅にあるゴミ箱だった。
新しいスマホストラップを買い直したからと、なんの気なしに部屋のゴミ箱にそいつを放り込んだのが、すべての引き金だった。
翌朝、アラームの音で目が覚めてベッドから起き上がった蓮司は、奇妙な違和感に足を止めた。学習机の真ん中、綺麗に整頓されたデスクマットの真ん中に、そいつがちょこんと座っていたのだ。
(なんだよ……おふくろが掃除のときに、間違えて戻したのか)
寝ぼけた頭でそう思った。一軍男子のプライドとして、机の上にホラー映画のチープな玩具が飾られているのは格好が悪い。蓮司は少し舌打ちをして、今度はそいつを掴んで一階のキッチンへと向かった。
二度目は、キッチンの生ゴミ用の蓋付きゴミ箱だった。
これなら母親が気付いて拾い上げることもない。三角コーナーのクズや、カレーの残り汁が染みた生ゴミの海の底へ、そいつを容赦なく沈めた。蓋をパチンと閉め、今度こそ完全に「処理」したはずだった。
だが、その日の夜。部活を終えて疲れ果て、自分の部屋のドアを開けた瞬間、蓮司は凍りついた。
ツンと鼻を突くような生ゴミの臭いは一切しない。自室の机の上に、そいつはいた。完全に乾ききった、おろしたてのような綺麗な状態で、ただ静かに佇んでいた。
三度目は、地域の指定ゴミの日だった。
さすがに背筋に冷たいものが走り始めた蓮司は、「今日は俺がゴミ出してくるわ」と、普段なら絶対に言わないような申し出を親にした。「あら、蓮司が珍しいわね。明日から雪でも降るのかしら」と母親に不審がられながらも、彼は自らの手でゴミ袋の口を、これでもかと硬く頑丈に縛り上げた。
朝のゴミ集積所。カラス除けのネットを被せ、回収トラックがやってきて、バッカー車の回転板がゴミ袋をバキバキと巻き込み、圧搾していくのをこの目で確かに目撃した。
(終わった。今度こそ、あのプラスチックは跡形もなく粉砕された)
蓮司は深く息を吐き、ようやく胸を撫で下ろした。
しかし、その日の深夜。日付が変わった頃、仕事から帰宅した父親が、蓮司の部屋のドアを不意にノックした。
『おい蓮司。玄関の前に落ちてたぞ。お前のカバンから落ちたんろ』
父親の手を見て、蓮司の心臓がドクンと跳ねた。
そこには、傷一つ、汚れ一つついていないあいつがいた。バッカー車でプレスされたはずのゴミ袋の中から、どうやって抜け出してきたというのか。父親の顔が、一瞬だけ、あのマスコットと同じ白目を剥いているように見えて、蓮司は悲鳴をあげそうになった。
それからは、本当の地獄だった。
学校のゴミ箱に捨てても、遠くの知らない駅のゴミ箱に投げ入れても、どれだけ距離を離して捨てても、すべてが無駄だった。
他人にバレないよう必死でカースト上位の顔を保ち、何食わぬ顔で帰宅して、自分の部屋のドアを開ける。すると、必ず、あいつは蓮司の部屋にいるのだ。不気味な白目をじっとこちらに向け、小さなプラスチックの唇で、まるで「無駄だよ」と音もなく嘲笑っているかのように。
視線が合うたびに、蓮司の精神は確実に摩耗し、削り取られていった。
だからこそ、この冬休みのスキー旅行だったのだ。
地元から何百キロも離れた、人間が誰も足を踏み入れない、音すらも凍りつく極寒の雪山。あそこまで強肩で遠投すれば、物理の法則が、距離の壁が、絶対に自分を守ってくれるはずだった。
二日間の旅行を終え、新幹線を乗り継ぎ、深夜の街に戻ってきた。疲れ果てて自宅の玄関を潜ったのは、日曜日の午後十時を回った頃だった。
「ただいま……」
親はもう寝静まっているのか、返事のない暗い家に消え入りそうな声を出して、蓮司は二階への階段を上った。
一歩進むたびに、ラグビーで鍛えた足が鉛のように重くなる。胸の奥で、心臓が嫌な音を立てて早鐘を打っていた。ドク、ドク、ドクと、耳の奥まで心音がうるさく響く。
自室のドアノブに手をかける。手のひらがじっとりと汗ばみ、激しく震えていた。
奥歯をガチガチと鳴らしながら、息を呑み、ドアを開ける。暗闇に手を伸ばし、壁の照明スイッチを押し込んだ。
パチ、と乾燥した音がして、蛍光灯が白い明かりを部屋に灯す。
エアコンのついていない、冷え切った自室。
いつも通りの、見慣れた光景。
だが、蓮司の視線は、磁石に吸い寄せられるように一箇所へと固定された。
学習机の真ん中。教科書とペン立ての、わずかな隙間。
そこに、そいつが座っていた。
あの吹雪く雪山の谷底へ、全力で投げ捨てたはずの、あの二・五センチのマスコットが。
雪に濡れてもいない。凍りついてもいない。相変わらず不気味な白目を、じっと蓮司の瞳の奥へと向けていた。
「……あ」
喉の奥から、乾いた、声にならない悲鳴が漏れた。
脳の血管が収縮し、一気に血の気が引いていく。膝の力が完全に抜け、大きな身体が、床へとなだれ込むようにして崩れ落ちた。
恐怖という感情の限界を超えていた。自分が今まで信じて生きてきた、世界の前提やルール、現実のすべてが足元からガラガラと崩壊していく絶望が、蓮司の脳を真っ白に焼き尽くしていく。
どうやって? なんで? 誰が?
暖房の入っていない極寒の部屋の中で、スクールカースト最上位のイケメン不良は、ただの怯える子供のように、自分の身体を抱きしめてガタガタと震え続けることしかできなかった。




