第1話 はじめての朝
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目が覚めると、そこは見覚えのない部屋でした。正確に言えば、見覚え自体はありました。未だ慣れ親しんだ場所ではないため、一瞬だけここがどこなのか分からなかったのです。
でも、すぐに思い出しました。わたしはあらぬ疑いをかけられた挙句、ドラゴニア王城から追放されたのです。そして、馬車に揺られてはるばる魔法学院までやって来ました。ここはその魔法学院の学生寮。
時刻は、おそらく午前五時。これまでわたしはずっとこの時間に起床してきました。環境が変わったとはいえ、この習慣は変わらないはずです。部屋の中はカーテンの隙間から差し込む光によって薄く照らされています。日光に照らされた埃が、空中できらきらと輝いていました。それは、大聖堂で見た芸術品の数々よりも美しく感じられました。
他の学生はまだ眠っているらしく、物音は全くしません。建物全体がしんと静まり返っているようです。わたしは身を起こすと、部屋の反対側にあるベッドに目をやりました。そこでは、寝間着姿のルームメイトの姿がありました。少しだけはだけた掛布団が、呼吸に合わせて規則的に上下しています。赤みがかった長髪は、ベッドの上でぐちゃぐちゃになっています。
――これはセットをするのに時間がかかるかもしれませんね。
わたしは音を立てないように、ゆっくりとベッドから降りました。季節はもうすぐ冬になろうとしています。部屋の中はひんやりとした空気に包まれていました。床は冷たく、裸足のままでは少しだけ辛いです。後でスリッパでも買ってくることにしましょう。
ゆっくりと息を吸うと、頭が冷やされて意識がはっきりとしてきました。
部屋のドアの前まで移動し、ドアの鍵を開けます。ドアの横には、折りたたまれた制服が置かれていました。夜の間に、誰かが置いてくれたのでしょう。昨日、マドベさんから受けた説明のとおりです。わたしはそれを回収して、ドアを閉めました。
まずは、制服をベッドの上に広げてみました。白の長袖ブラウスに、ダークネイビーのプリーツスカート。ジャケットもスカートと同じくダークネイビーで、金色の刺繍が施されています。昨日、学院の生徒たちを見た時は、この制服のデザインについては何とも思いませんでした。だけど、落ち着いた状況かで見てみると、何とも味わい深いように思えました。落ち着いた高級感のあるデザインです。これなら、ある程度フォーマルな場所に行くことも出来るでしょう。
わたしは寝間着を脱ぎ落とすと、制服に身を包みました。サイズは何故かピッタリでした。昨日は魔力測定を行っただけで、身体測定などは行っていません。身体のサイズなどのデータが王城から伝わっていたのでしょうか。深く考えないようにしましょう。
わたしは部屋に一つだけある姿見で、自分の姿を確認しました。黒い服に身を包む自分を見るのは、新鮮でした。聖女だったころは、清廉なイメージの白い服ばかり着せられていましたから。小さなことですが、聖女ではなくなったことを少しうれしく思えました。
そうしていると、ベッドが軋む音がしました。ミューズさんが目を覚まして、こちらを見ています。彼女は目をこすりながら、ゆっくりと起き上がりました。そして、ベッドの上から制服姿のわたしを見ていました。
「……おはようさん」
「おはようございます」
「ああ、制服届いとったんやな。似合っとるやないか」
「ありがとうございます」
「ええ感じやで! 私が男やったら、一目ぼれしかねん!」
そう言いながら、ミューズさんは拳を前に出して親指を立てました。寝起きとはとても思えないテンションの高さです。わたしを気遣って、無理をしてくれているのかもしれません。やっぱり、いい人。
「ありがとうございます。昨日見た限りでは、ミューズさんもお似合いでしたよ」
「いやいや、そんなこと――知っとる」
表情豊かに、ミューズさんは言いました。その自然な動作に、ついつい口から笑いが漏れてしまいました。昨日も思いましたが、この人はとても素敵な人です。この人が同室であることは、ここに来てからもっとも幸運なことでした。
彼女はベッドから降りると「まだ寒いなー」と言いながら着替えを始めました。脱いだ服は乱雑にベッドの上に放り出されています。
「それで、今日は直接教室に行くんか?」
「いえ、いったん職員室に行くことになっています。マドベさんから色々と説明をしてもらえるようでして」
「ああ、そうなんか。まぁ、副担任やからな」
「副担任……」
「せや。この学院って、研究職の人間が片手間に教師をやっとるからな。学生たちに目を向ける人間が必要ということで、私たちの代からクラスに副担任がつくようになったんや」
「そうだったんですね」
「それとな。一つ忠告しておくで」
着替えを中断し、下着姿のままミューズさんが近寄ってきます。彼女はわたしの正面に立ちました。そして、機密事項でも告げるような固い声で「あの人、めっちゃモテるで」と言いました。
モテる。
それが重要なことなのか、私には分かりませんでした。もしかしたら、わたしがあの人に好意を寄せた挙句、失恋をする可能性があると思っているのかもしれません。
「あの人は、学院の王子様やからな」
「王子様?」
「本物の王子ではないで。いや、もしかしたら本物かもしれないけどな。ただ、女生徒に接する態度が紳士的というか、紳士を超えた紳士になっとるんや。結果、一部の女学生たちの間で『王子』というあだ名がついたわけやな」
王子。
その単語を聞いて、何かを忘れているような気がしました。
忘れてはいけないことを忘れている――そんな気がして仕方がありません。
ですが、思い出せません。あるいは、思い出すことを無意識のうちに拒絶していたのかもしれません。いずれにせよ、この時のわたしは、思い出せない時点でどうでもいい事だろうと考え、それ以上考えるのを止めてしまいました。
それよりも、今は気になることがあったのです。
「あの方って男性だったのですね。昨日お会いした時には、性別もよく分からなかったのですが」
「性別については、私も知らん」
「ええっ!?」
「あの人の性別に関しては、謎のままや。副担任という制度も私たちの代から始まったものやし。婚約者のいる女学生が変な男に引っかからないようにするために、女性に男装させて、好意を全てマドベさんに向けさせようとしているという説もある」
男に引っかからないように、女に引っかからせておくというわけですね。確かに、貞操を守る手段としては有効かもしれません。
ただ、その可能性は低いように思えました。『マドベ』というのは、あの人の本名ではありません。つまり素性不明です。由緒正しき魔法学院が雇っている以上、危険人物というわけではないでしょうが。学院がわざわざそんな人間に好意を向けさせようとするとは思えません。
「実際、あの人に憧れている女学生は多いと思うで。セレナも一応、気を付けておきや」
「何にですか?」
「そりゃあ、コロッと恋に落ちないようにすることや。アレは競争率が高いで」
ミューズさんはそう言いながら、わたしの鼻先に指をあてました。むにむに。
なんにせよ、忠告というのはそういう意図だったようです。わたしとしては、恋愛感情に関しては無警戒でした。正確に言えば、恋愛感情というものについてピンと来ていませんでした。これまで、そういう気持ちを持ったことがなかったのです。
ドラゴニア王国では、第一王子の婚約者ということにはなっていました。ですが、それも業務上の必要あってのもの。というよりは、ドラゴニア王国とアリス聖教の関係強化のためでした。いわゆる政略結婚というやつです。ですから、心の底から好意を持つ必要性などありませんでした。
――いずれは『恋愛』とやらも経験することになるのでしょうか。
少なくとも、今はそうなる自分を想像できません。




