第35話 Jユースカップ①ー声なき場所
Jユースカップが開幕した。
秋の空は高く、夏の頃よりも少しだけ冷たい風がピッチの上を流れていた。
大会会場には、いつものリーグ戦とは違う空気があった。
普段の試合なら、見慣れたクラブの応援やスタッフの声が中心になる。
でも、Jユースカップには全国から多くのチームが集まる。
それぞれのチームに、それぞれの家族がいる。
選手を応援するために、遠くから足を運んできた人たちもいる。
スタンドには、たくさんの声があった。
「頑張れ!」
「蓮、今日も頼むぞ!」
「直哉、行けー!」
「海斗、決めろ!」
僕はピッチの端で、その声を聞いていた。
アップをしながら、周囲を見る。
スタンドには、たくさんの人がいる。
レガルテ横浜のユニフォームを着た人。
選手の名前が入ったタオルを掲げる人。
小さな子供を連れている家族。
隣同士で話しながら、笑っている人たち。
その中には、僕のチームメイトの家族もいる。
久世さんの家族。
望月さんの家族。
高瀬さんの家族。
橘さんの家族。
朝倉さんの家族。
みんな、それぞれの場所から自分たちの選手を見ていた。
「蓮ー!」
「直哉ー!」
「海斗ー!」
「恒一ー!」
名前が呼ばれる。
何度も。
何度も。
僕はボールを足元へ転がした。
トラップする。
右足で止める。
少しだけ前へ運ぶ。
そして、左足で蹴る。
いつも通りだった。
ボールは狙った場所へ飛んでいく。
何も問題はない。
身体も動く。
足も重くない。
視界も広い。
ピッチの状態も確認できる。
味方の位置も分かる。
相手の立ち位置も見える。
試合をするために必要なものは、何も欠けていない。
それなのに――
胸の奥だけが、少し冷たかった。
僕の名前を呼ぶ声はない。
当然だった。
僕には、応援に来てくれる家族はいない。
それを忘れていたわけではない。
ずっと知っている。
でも、たくさんの声を聞いていると、その事実が少しだけ近くなる。
自分だけが、その輪の外にいるような感覚。
僕は俯いた。
芝生の上に、小さな影が落ちている。
僕の影だった。
昔から、僕の隣には誰もいない。
そう考えた瞬間、胸の奥に小さな痛みが生まれた。
寂しい。
そう思った。
ほんの少しだけ。
それだけだった。
でも、その小さな感情は、僕にとって危険だった。
昔の記憶に触れる。
炎。
煙。
熱。
声。
届かなかった手。
あの日、僕は動けなかった。
怖くて。
どうすればいいのか分からなくて。
僕がもっと早く動いていれば。
僕がもっと正しく判断していれば。
何かが変わっていたのかもしれない。
そんな考えは、何度消そうとしても消えてくれなかった。
胸の奥で、ずっと燻っている。
普段は見えないようにしているだけだった。
でも、こういう場所に来ると、ときどき炎が顔を出す。
家族の声。
誰かを呼ぶ声。
帰る場所があることを当たり前のように感じさせる声。
その一つ一つが、僕の中にある炎へ薪をくべる。
ぱち、と。
小さな音がしたような気がした。
僕は目を閉じる。
余計なことを考えない。
寂しいと思わない。
痛いと思わない。
怖いと思わない。
そうしなければ、僕は自分を保てない。
だから――
僕は、心を真空にした。
感情を奥へ押し込む。
外から何も入らないようにする。
中から何も出ないようにする。
考えなければいい。
感じなければいい。
そうすれば、僕はいつも通り動ける。
昔から、そうしてきた。
それしか、僕にはできなかった。
心を空っぽにする。
寂しさも。
悲しさも。
怖さも。
全部、見えない場所へ閉じ込める。
そうすると、頭の中が静かになる。
僕は目を開いた。
視界が戻る。
ピッチがある。
ボールがある。
味方がいる。
相手がいる。
それだけでいい。
「詩音」
声が聞こえた。
振り返ると、望月さんがいた。
「そろそろ集合だぞ」
「はい」
僕は頷いた。
「行きます」
望月さんは一度だけ僕を見て、それ以上は何も言わなかった。
僕も何も言わなかった。
そのままチームの列へ戻る。
心は静かだった。
静かすぎるほどに。
それが僕にとって正常だった。
未だに、僕は心を真空にすることでしか、自分を保てない。
誰かに頼ることも。
寂しさを口にすることも。
悲しみを誰かに見せることも。
まだできない。
だから、閉じる。
いつものように。
そして、試合が始まった。
――Jユースカップ、予選トーナメント。
レガルテ横浜U18の初戦。
相手は、地方予選を勝ち抜いてきたクラブだった。
試合開始の笛が鳴る。
僕は中央へ走った。
ボールが動く。
久世さんから望月さん。
望月さんから成瀬さん。
成瀬さんが前を向く。
僕は相手の位置を見る。
右。
左。
中央。
相手の守備ラインが少しだけ下がった。
朝倉さんが右で幅を取る。
橘さんが中央から少し左へ動く。
高瀬さんは相手CBの間に立っている。
僕は1つだけ空いた場所を見る。
そこへ走り込む必要はない。
ボールを通せばいい。
成瀬さんからボールが来る。
僕は身体を開いた。
右足で受ける。
相手が寄せてくる。
1歩。
2歩。
その瞬間、僕は左足でボールを送った。
高瀬さんの前。
相手DFが伸ばした足の先を、ぎりぎり通過する。
「ナイス!」
高瀬さんが前を向く。
僕は走る。
中央の守備が動いた。
その動きで、橘さんの前が空く。
高瀬さんから橘さん。
橘さんがシュートを放つ。
ボールはゴールへ向かう。
相手GKが弾いた。
こぼれ球を高瀬さんが押し込む。
先制点。
スタンドから歓声が上がった。
「よし!」
「ナイスゴール!」
僕はゴールへ戻る。
高瀬さんが拳を握っている。
橘さんも笑っている。
僕は小さく頷いた。
それだけだった。
試合は、その後もレガルテのペースで進んだ。
相手が前から来れば、後ろへ逃がす。
中央を閉じられれば、外を使う。
外へ出れば、中央へ戻す。
僕は全体を見ながら、必要な場所へボールを動かしていった。
すると、いつものように僕を潰しにくる。
当然相手も僕のフィジカルを狙い目としてきた。
相手がぶつかってくる方向を見る。
重心を見る。
力が向かう場所を見る。
その方向へ身体を置かなければいい。
受ける前に半歩ずれる。
相手の力を正面から受けない。
それだけで、ボールを失わなくなった。
後半には朝倉さんが追加点を決めた。
さらに終了間際、高瀬さんがもう1点。
試合終了。
3-0。
初戦を勝利で終えた。
でも、休む時間は長くない。
次の試合がある。
勝てば進む。
負ければ終わる。
トーナメントは単純だった。
僕たちは次の試合へ向かった。
2回戦。
準々決勝。
準決勝。
試合を重ねるたびに、相手の強度は上がっていった。
それでも、僕たちは勝った。
久世さんが何度もゴールを守った。
望月さんが守備をまとめた。
榊原さんが1対1で相手を止めた。
水野さんが右サイドを何度も上下した。
成瀬さんが中盤を落ち着かせた。
橘さんが前へ出た。
朝倉さんがドリブルで相手を剥がした。
高瀬さんが身体を張った。
僕も、できることを続けた。
パスを出す。
走る。
見る。
受ける。
蹴る。
必要なら自分で前へ出る。
銀雪の道が見える場面もあった。
見えない場面もあった。
相手の守備が事前の想定を超えることもあった。
その度に修正した。
それを繰り返した。
そして――
予選トーナメント決勝。
最後の試合。
勝てば、ブロック1位。
負ければ、そこで終わる。
試合開始から、僕たちは積極的に前へ出た。
前線から追う。
ボールを奪う。
すぐに攻撃へ移る。
レガルテのサッカー。
攻撃こそ最大の守備。
僕たちは、それを繰り返した。
前半に1点。
後半に2点。
相手も最後まで諦めなかった。
終盤には1点を返された。
それでも、最後まで守った。
終了の笛が鳴る。
3-1。
勝利。
僕たちは予選トーナメント1位を勝ち取った。
スタンドから歓声が上がる。
選手たちが喜ぶ。
望月さんが拳を上げる。
高瀬さんが仲間の肩を叩く。
橘さんが息を切らしながら笑っている。
僕は、その光景を見ていた。
勝った。
嬉しい。
そう思うより先に、次のことを考えていた。
まだ続く。
ここで終わりじゃない。
決勝トーナメントがある。
僕はピッチの中央から、周囲を見渡した。
大会は、まだ始まったばかりだった。
そして数日後。
決勝トーナメント1回戦の組み合わせが発表された。
掲示板に表示された名前を、僕は見る。
レガルテ横浜U18。
その下に書かれていた相手。
――神戸グランシエルU18。
強豪。
今年も優勝候補の一角に挙げられているチームだった。
僕は画面を見つめた。
神戸。
まだ戦ったことのない相手。
どんな守備をするのか。
どんな攻撃をするのか。
誰が中心なのか。
どこに弱点があるのか。
考えることは多い。
でも、不思議と怖くはなかった。
僕は静かに画面を閉じた。
次の相手が決まった。
なら、見るだけだ。
知るだけだ。
そして――勝つための道を探す。
心の奥は、まだ真空のままだった。
その静けさの中で、僕は次の試合を見つめていた。




