第18話 祈り 西野
グラウンドを疾走する背番号10の後ろ姿を見つめながら、私は静かに息を吐き出した。
広い。
数か月前まで、あいつが走っていたジュニアユースのピッチとは違う。
高校生年代の選手たちが使うU-18のグラウンド。
身体の大きな選手たちの間を、十四歳の小さな背中が走っている。
それだけを見れば、まだ不釣り合いにも思える。
けれど。
ボールがあいつの足元へ入った瞬間、その違和感は消える。
一度、首を振る。
右を見る。
左を見る。
ほんのわずかな身体の向きだけで、相手の守備の意識を動かす。
そして。
味方が走り出した瞬間には、もうボールが動いている。
一本のパスが、広いピッチを横切った。
受けた選手が前を向く。
その先で、また別の選手が動く。
湊の姿は、もうその場にはない。
次に起こる場所へ、先に身体を移している。
私は、それを見ながら思った。
やっぱり。
あいつは、もうここまで来たのか。
湊と初めて出会った日のことを、今でも鮮明に覚えている。
静かな子だった。
初めて見た時から、少しだけ周囲と時間の流れが違っているように感じた。
騒がしい場所にいても、どこか一人だけ遠くにいる。
笑わないわけではない。
怒らないわけでもない。
ただ。
感情の動きが、どこか奥深くへ沈んでいるように見えた。
そして、練習が終われば一人でノートを開く。
自分が見たもの。
失敗した場所。
相手の身体の向き。
味方の走り方。
ボールを置く位置。
細かい文字で、びっしりと書き込んでいく。
私は最初、それを単純な努力だと思っていた。
もちろん。
努力だった。
けれど、それだけではなかった。
あいつは。
何かを追いかけるように、サッカーをしていた。
自分より上手い選手がいるから。
勝ちたいから。
プロになりたいから。
そういう単純な理由だけでは説明できないほど、必死だった。
そんな湊を見ているうちに。
私は、あいつの中にある危うさに気づいていった。
ある日のことだった。
練習後、クラブハウスへ戻ろうとしていた私を、鷹野さんが呼び止めた。
「西野、湊のことだが」
普段の鷹野さんとは、少し違った声だった。
私は足を止めた。
「どうしました?」
鷹野さんは、少しだけ間を置いた。
「湊は、サッカーだけを見て判断しない方がいい」
その言葉が何を意味するのか。
その時の私は、まだ完全には分かっていなかった。
湊が抱えているものについて、いくつかの話を聞いた。
幼い頃に両親を失ったこと。
その出来事が、今でも深く残っていること。
普段は自分自身で感情を抑えられていること。
それでも。
家族や強い繋がりを連想させる場面では、過去の記憶が現在と重なってしまう可能性があること。
そして。
何かあった時に、湊自身が自分を責めすぎてしまうこと。
鷹野さんは、最後に静かに言った。
「湊のサッカーだけを見るな」
「練習量や成長だけじゃない。普段と違うところがあったら、必ず気づいてくれ」
私は頷いた。
その時から。
湊を見る時、私はボールだけを見ることができなくなった。
姿勢。
声。
視線。
休憩の取り方。
練習が終わった後の表情。
そういう小さな変化を見るようになった。
そして。
鷹野さんの言葉は、少しずつ私の中で確信へ変わっていった。
湊は、本当に危うかった。
サッカーに対して、真っ直ぐすぎる。
上手くいかなければ、自分の足りないところを探す。
良いプレーをしても、それで満足することはない。
一本のパスが通れば、その次に通らなかった一本を考える。
試合に勝っても、もっとできたはずだと言う。
疲れているはずなのに、練習が終わればまたボールを蹴る。
私が止めなければ。
あいつは、どこまでも自分を追い込み続ける。
その一方で。
あいつの才能は、日に日に形を変えていった。
最初は、ただ広い範囲を見渡せる選手だと思っていた。
けれど。
見ているだけではなかった。
見たものを繋げていた。
相手の位置。
味方の位置。
ボールの速度。
身体の向き。
視線。
それらを、頭の中で一つの盤面として組み立てていく。
そして。
その盤面の中から、誰も見つけていない道を探し出す。
私は何度も驚かされた。
そこへ出すのか。
今、そこが見えているのか。
どうして、そんなところへボールを置けるんだ。
あいつがボールを持つたびに。
ピッチの空気そのものが変わるように感じた。
相手の守備が、ほんの少しだけ動く。
味方が、それにつられて動く。
その瞬間。
湊のパスが出る。
まるで最初から、そこへ通ることが決まっていたかのように。
けれど。
私には分かっていた。
あの精度を生み出しているのが、ただの才能だけではないことを。
観察。
反復。
失敗。
修正。
また観察。
その積み重ねの中に、あいつの異常なほどの執着がある。
だからこそ。
私は、あいつの成長を頼もしく思うのと同時に、ずっと心のどこかで不安を抱えていた。
このまま進ませていいのか。
どこまで行けば、あいつは止まれるのか。
そんな心配が消えることはなかった。
けれど。
指導者としての私は、それでも湊のサッカーから目を離せなかった。
魅入られていたのだと思う。
あいつが描く世界に。
◇
全国大会。
あの日のことを、私は今でも忘れられない。
スタジアムの空気。
観客の声。
家族連れの姿。
そして。
何気ない一言から、湊の様子が変わった瞬間。
私は、あいつの顔を見ていた。
呼吸が浅くなる。
視線がどこにも合わなくなる。
身体が固まる。
その瞬間。
嫌な予感がした。
何かが起きている。
そう思った。
私が駆け寄った時には、湊の呼吸はすでに大きく乱れていた。
あの時の目を。
私は今でも忘れられない。
目の前を見ているはずなのに。
そこには、今のスタジアムではない何かが映っているようだった。
私は鷹野さんと一緒にあいつを支えた。
幸い。
少しずつ呼吸が戻ってきた。
言葉を交わすこともできるようになった。
それでも。
私は、あいつをそのままピッチへ戻していいのか迷った。
湊は試合に出たいと言った。
ここまで来たから。
試合には出たい。
その言葉を聞いた時。
私は止められなかった。
止めるべきだったのかもしれない。
今でも、その答えは分からない。
ただ。
あの日、後半に入ってからの湊を見て。
私は、別の意味で背筋が冷えた。
あいつから。
温度が消えていた。
それまでにも、湊のプレーには冷静さがあった。
感情に流されず、最適な判断を選ぶ。
そこは、あいつの長所だった。
けれど。
あの日のプレーは、それとは違った。
迷いがない。
恐れもない。
躊躇もない。
相手の身体の向き。
守備の重心。
味方の位置。
そのすべてを、まるで感情とは別の場所で処理しているようだった。
一本。
また一本。
正確なパスが相手の守備を切り裂いていく。
それだけを見れば。
素晴らしいプレーだった。
全国優勝へ繋がる、圧倒的なプレーだった。
チームメイトたちは驚いていた。
太陽は、嬉しそうに声を上げていた。
陸も目を見開いていた。
剛も、湊のプレーに食らいつこうとしていた。
誰もが。
湊が進化したと思っただろう。
私も。
それが間違いだとは言えなかった。
あいつは確かに、あの試合で新しいものを見せた。
けれど。
ベンチから見ていた私には。
それが進化だけには見えなかった。
自分の心を削りながら。
冷たい場所へ、自分から閉じこもっているように見えた。
試合後
太陽たちは喜んでいた。
全国で勝ったのだから、当然だ。
私は、その輪の少し外から湊を見ていた。
あいつは。
勝利を喜ぶというより。
試合の中で何が足りなかったのかを考えていた。
それを見た時。
私は思った。
このままでは、いつか本当に壊れてしまうんじゃないか。
それが。
一番怖かった。
◇
それでも。
季節は進んだ。
全国大会を終え。
冬が過ぎ。
春が来た。
そして。
湊のU-18への飛び級昇格が正式に決まった。
中学二年生。
十四歳。
高校生年代の選手たちが集まる場所へ。
レガルテ横浜の歴史を振り返っても、異例のことだった。
クラブハウスの談話室。
私は、荷物をまとめている湊の姿を見ていた。
新しい練習着。
新しい背番号。
これから向かう場所は、今までよりもずっと厳しい。
身体の大きさも違う。
スピードも違う。
プレーの強度も違う。
それでも。
湊は、いつもと変わらなかった。
必要なものを一つずつ鞄へ入れている。
何かを忘れていないか確認している。
最後にノートを入れる。
私は、その姿をしばらく見てから声をかけた。
「湊」
あいつが振り向く。
「西野さん」
いつもの声だった。
静かで。
丁寧で。
少し遠い。
私は、その顔を見る。
全国優勝を経験しても。
銀雪の道を手に入れても。
あいつの奥にある冷たさは消えていない。
それでも。
以前とは少し違っているようにも見えた。
太陽や陸や剛と過ごした時間が。
あいつの中に何かを残している。
私は、そこへ期待していた。
「向こうに行っても、自分を追い込みすぎるなよ」
湊は、少しだけ目を伏せた。
「はい」
「辛くなったら、いつでもこっちに顔を出していい」
「……ありがとうございます」
その返事があまりにも丁寧で。
私は少しだけ苦笑した。
あいつらしい。
何かを頼ることにも。
迷惑をかけることにも。
まだ慣れていない。
私は続けた。
「ここで教えたことなんて、向こうへ行けばすぐに足りなくなる」
「分かっています」
「俺も、それでいいと思ってる」
湊が顔を上げる。
「西野さんには、たくさんのことを教えていただきました」
「そうか」
「身体の使い方も」
「うん」
「守備の考え方も」
湊は少しだけ間を置いた。
「見えるものを、どう選ぶかも」
私は黙って聞いていた。
その言葉を聞いて。
胸の奥が少しだけ熱くなった。
初めて会った頃の湊は。
目に入るものを、全部拾おうとしていた。
見えるものが多すぎて。
その全部を処理しようとして。
自分自身を追い詰めていた。
それが。
今では、自分に必要な情報を選べる。
そして
そこから少しずつ、拾えるものを増やしている。
まだ。
完成なんてしていない。
むしろ。
これからが本当の勝負なのだろう。
私は、そう思った。
「湊」
「はい」
「向こうでは、お前より上手い選手がいくらでもいる」
湊は静かに頷いた。
「はい」
「今まで通りにはいかないこともある」
「分かっています」
その返事に迷いはなかった。
だから私は、それ以上言うのをやめた。
あいつは、きっと苦しむ。
失敗もする。
身体の差に苦しむこともある。
判断の速度で置いていかれることもある。
何度も、自分の足りなさを突きつけられるだろう。
それでも。
あいつなら、また見る。
また考える。
またノートを開く。
そして。
自分の足で、次の道を探す。
それを私は知っている。
だからこそ。
最後に、私は一つだけ言った。
「行きなさい」
湊が私を見る。
……いや。
私は自分にそう言い聞かせるように続けた。
「もっと高い場所へ」
湊は、静かに頷いた。
「はい」
鞄を肩にかける。
そして。
深く一礼した。
「ありがとうございました」
私は何も言わなかった。
言葉にすれば。
余計なものまで溢れそうだった。
湊が部屋を出ていく。
ドアが閉まる。
私はしばらく、その場から動けなかった。
◇
やがて。
私は窓の外を見た。
U-18のグラウンドへ続く道がある。
その先を。
湊が歩いている。
十四歳の背中。
高校生たちの中へ入っていくには、あまりにも小さく見える。
それでも。
あの背中は止まらない。
私は、窓越しに最後まで、その背中を見ていた。
祈ることしかできない自分が。
少しだけ悔しかった。
それでも。
今の私にできることは、もう一つしかない。
あいつが戻ってきた時に。
いつでも帰ってこられる場所を残しておくこと。
そして。
また前へ進めるように、黙って見守ること。
私は、静かに息を吐いた。
窓の向こう。
十四歳のその背中が。
いつか孤独ではなくなる日が来ることを。
私は、誰にも聞こえない声で祈り続けた。




