第14話 全日本U-15サッカー選手権大会ー炎
季節は巡っていた。
夏の熱気が遠ざかり、秋の風が過ぎていく。
そして、冬。
ピンと張り詰めた冷気が、朝のグラウンドを薄く覆っていた。
吐いた息が白くなる。
芝の上には、夜の冷たさがまだ残っている。
僕はスパイクの紐を結びながら、少しだけ指先を握った。
寒い。
でも、身体を動かせば問題ない。
それだけだった。
日本において、サッカーという競技が持つ意味は、この十数年で大きく変わっていた。
かつては野球や相撲が国民的なスポーツとして大きな存在感を持っていた。
けれど、世界大会での日本代表の躍進。
国内リーグの巨大化。
育成年代の整備。
そして、国を挙げた強化政策。
それらが積み重なった結果、今ではサッカーは名実ともに日本の「国技」と呼ばれるまでになっていた。
サッカー選手は、単なるアスリートではない。
代表選手になれば、国民の期待を背負う。
プロになれば、幼い頃から追い続けてきた夢の象徴として、多くの人間の視線を集める。
その道へ進むために、幼少期から厳しい育成環境へ入る選手も少なくない。
そして、その最初の大きな分岐点の一つが、冬に行われる全日本U-15サッカー選手権大会だった。
プロクラブの下部組織。
強豪中学校。
地域の名門クラブ。
全国各地で勝ち上がってきたチームが集まり、その中でさらに淘汰されていく。
中学生の大会でありながら、試合は全国中継される。
大勢の観客がスタジアムを埋める。
スカウトも来る。
メディアも来る。
サッカーを見ている人間なら、誰もが知っている大会だった。
僕たちは、その場所まで来ていた。
夏から秋。
関東予選を戦った。
何度も強い相手と当たった。
何度も苦しい試合をした。
それでも、僕たちは勝ち上がった。
全国大会への切符を、自分たちの足で掴んだ。
僕は、レガルテ横浜ジュニアユースのトップ下として、先発に定着していた。
背番号は十。
最初は、ただ与えられた番号だった。
今でも、その数字に特別な意味を感じているわけではない。
ただ、その場所に立ち続けるために必要なものが増えていった。
見ること。
考えること。
蹴ること。
走ること。
そして、味方を知ること。
あの春。
僕は、自分一人で壁に向かってボールを蹴っていた。
そこへ岩田くんが加わった。
太陽くんが来た。
陸くんも来た。
西野さんと一緒に、何度も練習した。
何度も失敗した。
そのたびに考えた。
自分の視界にあるものだけではなく、その先にいる人間を見る。
その人間が、どんなボールなら扱えるのかを見る。
その積み重ねは、少しずつ僕の中に残っていた。
岩田くんは、身体の強さだけではなく、守備の間合いを理解するようになった。
太陽くんは、持ち前の速さをさらに磨き、途中出場から流れを変える選手として信頼されるようになった。
陸くんも、運動量と対人守備を武器に、Aチームでプレーする機会を増やしていた。
僕たちは、少しずつ変わっていた。
春には想像できなかった場所まで来ていた。
それでも、僕は自分が強くなったとは思っていなかった。
全国には、もっと上がいる。
僕より身体が強い選手。
僕より速い選手。
僕より上手い選手。
僕より多くの経験を持つ選手。
そういう選手たちが、全国にはいる。
だから、まだ足りない。
そう思っていた。
「いいぞ、湊!」
冬のグラウンドに、神谷監督の声が響いた。
「その位置からなら、太陽の右足の前だ!」
「はい」
ボールを受ける。
僕は首を振った。
一瞬。
それだけで、周囲の位置が頭の中へ入ってくる。
相手の最終ライン。
中盤の位置。
味方の距離。
そして、太陽くん。
右足を半歩だけ引いている。
走り出す直前の癖。
僕はボールを蹴った。
バックスピンをかける。
強すぎない。
太陽くんが一番加速しやすい場所へ。
ボールは相手CBの頭上を越えた。
太陽くんが走る。
右足が伸びる。
ノーステップ。
そのままシュート。
ボールがネットに突き刺さった。
「よし!」
太陽くんが振り返る。
そのまま僕のところへ走ってきた。
「今の完璧!」
「……そう?」
「そうだよ!」
太陽くんは息を切らしながら笑っていた。
「俺が一番スピードに乗れる場所、分かってたろ?」
「うん」
「最近のお前、本当に俺のこと分かってきたよな」
僕は少しだけ視線を落とした。
「ノートに書いてあるから」
「それだけかよ」
太陽くんが笑う。
「相変わらずだな、湊」
「……何が?」
「何でもない」
太陽くんはまた笑った。
その横で、岩田くんが大きな声を出す。
「おい太陽、次は俺にも合わせてくれよ!」
「剛はまず走ってから言えよ!」
「走ってるわ!」
陸くんが二人を見ながら、小さく息を吐いた。
「二人とも、練習中」
「はい」
「すみません」
そんなやり取りを見ながら、僕はもう一度ノートへ目を落とした。
そこには、三冊目のノートがある。
春に始めたスカウティングは、いつの間にか三冊になっていた。
太陽くんの歩幅。
陸くんの身体の向き。
岩田くんの足の出し方。
先輩たちのトラップ。
受けやすい場所。
苦手な場所。
その日の疲労によって変わる部分。
僕は、一つずつ記録してきた。
全部を覚えているわけではない。
全部を一度に処理できるわけでもない。
それでも、春の頃よりは、見えるものが増えていた。
相手だけではない。
味方も見える。
その人の次の動きまで、少しだけ予測できる。
僕の「俯瞰」は、少しずつ形を変えていた。
ただ広く見るだけではない。
そこにいる人間の特徴まで含めて、ピッチを見る。
そして、その人が一番力を出せる場所へボールを置く。
それが、今の僕のサッカーだった。
「すごいな、湊」
岩田くんが言った。
「お前のパス、最近さらに嫌らしくなったぞ」
「……嫌らしい?」
「褒めてるんだよ」
陸くんが言った。
「相手からしたら、嫌な場所に味方が入ってくるから」
「そういうことか」
僕は頷いた。
「全国でも通用するかな」
太陽くんが言った。
僕は少し黙った。
「……分からない」
「またそれか」
「まだ試してないから」
それだけ答えた。
全国で通用するのか。
プロに届くのか。
僕がどこまで行けるのか。
まだ分からない。
蜘蛛の糸は、相変わらず細い。
少し強い風が吹けば、切れてしまいそうだった。
それでも、僕はその糸を握っていた。
離すつもりはなかった。
◇
十二月下旬。
全国大会一回戦。
会場となるスタジアムは、一万人以上を収容できる巨大な競技場だった。
スタンドには、すでに大勢の観客が入っている。
大型ビジョンには両チームの選手紹介が映し出されていた。
カメラもある。
記者もいる。
歓声が、遠くから何度も押し寄せてくる。
僕はウォームアップをしながら、周囲を見た。
広い。
春に立ったグラウンドとは、何もかも違っている。
でも、やることは変わらない。
ボールを見る。
味方を見る。
相手を見る。
必要な情報を拾う。
それだけ。
「すごい人だな……」
岩田くんが観客席を見上げた。
「これが全国大会か」
太陽くんも少し落ち着かない様子で胸元に手を当てている。
「心臓、変な感じする」
「太陽でも緊張するんだ」
陸くんが言った。
「するよ!」
太陽くんが笑う。
僕は二人のやり取りを聞きながら、スパイクの紐を締め直した。
僕も緊張している。
心拍数は少し高い。
でも、頭の中は静かだった。
相手の映像は見てきた。
特徴も覚えている。
味方のことも知っている。
今の自分にできることは、全部やった。
だから、あとはピッチに立つだけだった。
ウォームアップが終わる。
一度、ロッカールームへ戻る。
僕たちはピッチ脇のトンネルを歩いていた。
その時だった。
「太陽ー!」
観客席から大きな声が飛んできた。
「落ち着いて行きなさいよー!」
「剛ー!」
別の方向から声がする。
「相手のデカいのを吹っ飛ばしてやれー!」
僕は足を止めた。
太陽くんが振り返る。
「母さん!」
観客席の前方。
フェンス越しに、太陽くんの家族が手を振っている。
太陽くんのお母さんが大きく手を振っていた。
その隣では、岩田くんのお父さんが大声を張り上げている。
「親父、声でかすぎだろ」
岩田くんが照れたように笑った。
それでも、手を振り返している。
陸くんの方からも声がした。
「おにいちゃーん!」
陸くんが顔を上げる。
そこには、陸くんによく似た女の子がいた。
双子の妹。
フェンスに身を乗り出して、一生懸命に手を振っている。
「がんばれー!」
「……うん」
陸くんは小さく手を上げた。
太陽くんが陸くんの背中を叩く。
「陸、妹来てるじゃん!」
「分かってるよ」
「いいなあ」
「何が?」
「応援してくれる家族がいて」
太陽くんは笑っていた。
岩田くんも笑っている。
陸くんも、少しだけ口元を緩めていた。
僕は、その光景を見ていた。
不思議だった。
何気ない光景。
どこにでもある家族の姿。
試合前に子どもを応援する親。
声を張り上げる父親。
照れながら手を振る選手。
そんな、普通の光景。
僕には、その「普通」がなかった。
そう思った。
でも、それだけだった。
その時までは。
「湊も!」
太陽くんが振り返った。
「湊の家の人も、どこかに来てるのかな?」
その瞬間。
音が消えた。
いや。
消えたように感じた。
目の前にあるスタジアムが、一瞬で遠ざかっていく。
「……あ」
声が出た。
自分でも分からないくらい、小さな声だった。
頭の奥で、何かが割れた。
ピシッ。
そんな音がした気がした。
観客席が歪む。
太陽くんの顔が遠い。
岩田くんの声も。
陸くんの声も。
全部が水の中に沈んでいく。
代わりに、別の音が聞こえた。
パチ。
パチパチ。
何かが燃える音。
煙。
熱。
赤。
真っ赤な炎。
僕は、知っている。
この景色を。
忘れたかった。
ずっと、忘れたかった。
あの日。
僕の家は燃えた。
炎が天井まで上がっていた。
煙で息ができなかった。
何も見えなかった。
怖かった。
誰かが僕を抱きしめていた。
温かかった。
その温かさだけは、今でも覚えている。
お父さん。
お母さん。
僕を守るように抱きしめてくれていた。
その腕。
その声。
最後に見た顔。
全部が、一気に戻ってきた。
(やめて)
僕は目を閉じた。
(今は、やめて)
でも、止まらなかった。
炎が見える。
煙が見える。
崩れていく天井が見える。
そして、手が離れていく。
温かかったはずの手が。
僕の手から。
ゆっくりと。
僕は息を吸おうとした。
吸えない。
喉が狭い。
胸が苦しい。
空気が入ってこない。
指先が冷たくなる。
なのに、身体の内側だけが異様に熱い。
ユニフォームの胸元を握った。
強く。
もっと強く。
それでも、震えが止まらない。
(お父さん……)
頭の中に浮かんだ。
その瞬間、胸の奥がさらに痛くなった。
僕は、あの時のことを何度も考えてきた。
もっと早く逃げていたら。
僕が何かできていたら。
僕がいなければ。
あの二人は助かったんじゃないか。
そんな考えを、何度も繰り返してきた。
誰かに否定されたわけではない。
誰かに責められたわけでもない。
それでも、僕の中にはずっと残っていた。
僕が生き残った。
二人は死んだ。
その事実だけが、幼い頃の僕には重すぎた。
だから、約束した。
世界一になる。
ワールドカップで勝つ。
そうすれば。
そうすれば、僕がここまで生きてきた意味があるのだと思いたかった。
だから、走った。
練習した。
休まなかった。
もっと上手くならなければいけないと思った。
暗闇に戻りたくなかった。
そのためなら、自分を削ることも怖くなかった。
でも――
今、目の前に家族がいる。
太陽くんの母親。
岩田くんの父親。
陸くんの妹。
その笑顔を見るだけで、僕の中に押し込めていたものが全部引きずり出された。
羨ましい。
そう思った。
そして、その感情を持った自分が嫌だった。
太陽くんは何も悪くない。
岩田くんも。
陸くんも。
誰も悪くない。
ただ、僕にはないものを持っているだけだ。
それなのに、僕の胸の奥では、その温かさが痛みに変わっていく。
「湊?」
太陽くんの声がした。
「どうした?」
僕は答えられなかった。
声が出ない。
「おい、湊」
岩田くんが近づいてくる。
「顔、真っ白だぞ」
肩に手が伸びてきた。
その瞬間、僕の身体が勝手に後ろへ下がった。
「……っ」
触れられたくなかった。
理由は分からない。
ただ、身体がそう動いた。
岩田くんの手が止まる。
「……湊?」
僕は何も言えない。
視界がぼやけている。
観客席の光が滲む。
大型ビジョンの映像も、遠くに見える。
ここはスタジアムだ。
火事の現場じゃない。
分かっている。
頭では分かっている。
でも、身体がそれを理解してくれない。
炎はない。
煙もない。
熱もない。
なのに、僕の中ではまだ燃えている。
「湊」
今度は陸くんの声だった。
静かな声。
僕は少しだけ顔を上げた。
陸くんは、僕をじっと見ていた。
何も聞かなかった。
どうしたのか。
何があったのか。
家族はいるのか。
そういうことを、何も聞かなかった。
ただ、少し離れたところに立っていた。
その距離が、今の僕にはありがたかった。
太陽くんも黙っていた。
さっきまで笑っていた顔が、今は不安そうになっている。
「……ごめん」
ようやく声が出た。
自分でも驚くほど、弱い声だった。
「ちょっと……体調が悪いだけ」
「ほんとか?」
太陽くんが聞く。
「うん」
嘘だった。
でも、それ以上は言えなかった。
言葉にしたら、何かが壊れてしまいそうだった。
僕は胸元を握ったまま、ゆっくり息を吐いた。
一度。
二度。
三度。
少しだけ空気が入る。
まだ苦しい。
でも、ほんの少しだけ戻ってくる。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いた。
大丈夫。
ここはスタジアムだ。
今日は全国大会の一回戦。
もうすぐ試合が始まる。
僕はサッカーをする。
それだけだ。
そう思おうとした。
けれど。
頭の中から、両親の姿が消えない。
炎も消えない。
温かかった手も。
最後に聞いた声も。
全部が残っている。
僕は、目を閉じた。
そして、ゆっくり開く。
目の前にあるのは、冬のスタジアムだった。
太陽くんがいる。
岩田くんがいる。
陸くんがいる。
その向こうに、たくさんの観客がいる。
僕は、もう一度だけ息を吸った。
まだ苦しい。
でも、立てる。
立たなければならない。
試合開始まで、あと十五分。
僕の目の前には、全国大会という新しい舞台がある。
その足元には、春から積み重ねてきた時間がある。
なのに――
その背後から。
ずっと僕の中に閉じ込めていた炎が、今になって静かに姿を現していた。
全国大会一回戦。
僕が夢へ近づくための最初の大舞台は、始まる前から、過去との戦いになろうとしていた。




