歴史が許しているんだよ
聞き慣れた声が、魔法陣の奥から響いた。
「表舞台に出てあげようじゃないか」
魔法陣の中心から、一人の男が姿を現した。
黒いスーツ。
白い手袋。
片目にかけたモノクル。
その姿は、先ほどまで倒れていた偽物よりも、ずっと整っていた。
まるで、自分だけは血と煙に汚れたこの場から切り離されているとでも言うように。
『やっと出ましたか。ずっと逃げ回っているだけの頭の悪い男だと思っていましたよ』
「これ以上、引き延ばしても意味がないと判断しただけさ。勝手に僕を低能と評価するなよ、ドール」
『それは人間達が勝手に名付けた名前ですが……まあいいでしょう。好きに呼びなさい』
ドールと呼ばれた人形は、少し呆れた態度をしつつも、じっとモラスを見つめる。
モラスはにったりと笑うと、芝居がかった仕草で丁寧にお辞儀をした。
「魔王ミーレ。ぜひ、僕に精霊を譲ってほしい」
「……命を軽視する者に、精霊は渡せないわ」
「ふむ。どうやら現魔王は、やはり頭が悪いらしい」
モラスは、私の隣で倒れている末期者へ視線を向けた。
先ほど、私を解放するためにミーレ様が首を斬った人だ。
「君はついさっき、人をあっさりと殺した」
「……」
「なのに、命を軽視する者に精霊は渡せない、だと?」
モラスは口元を押さえ、肩を震わせた。
「はっはっは! 君は実に芸達者だ! ぜひ魔王を辞めて芸人になるといい」
ミーレ様は何も言わなかった。
けれど、魔王剣を握る指が、わずかに震えていた。
疲労のせいだけではない。
今の言葉は、確かにミーレ様を傷つけた。
救うために殺す。
守るために斬る。
それを誰よりも苦しんでいる人に、モラスは笑いながら刃を突き立てている。
「……ずいぶんと余裕があるわね」
ミーレ様が静かに言った。
「当然だよ」
モラスは薄く笑った。
「本物の僕が出てきた時点で、もう終幕は近い」
彼が指を鳴らす。
王室の床、廊下、壁。
いたるところに、小さな魔法陣が浮かび上がった。
その向こうから、虚ろな目をした末期者たちが、ゆっくりと姿を現す。
1人、2人、3人――数えきれない。
その身体には、爆弾が括りつけられていた。
私は震える声で、モラスに尋ねる。
「な、なんで……こんな酷いことをするんですか……」
「酷い?」
モラスは本気で不思議そうに首を傾げた。
「何を言っているんだい? 君の言葉の意図が理解できないね。倫理が欠けた者の発言は、どうにも要領を得ない」
「精霊が欲しいからって……なんで、こんな酷いことができるんですか――っ!」
「酷い真似をしているのは、そこの女だッ!」
モラスの声が、突然荒くなった。
彼の目が、ミーレ様へ向けられる。
「王族がやってきたことを棚に上げて、僕だけを外道扱いするつもりか? 王族がどれだけ人を殺してきたと思っている!」
「魔王様は、無益な殺生をする方ではありません!」
「ふざけるな!」
モラスの怒号が、王室に響く。
「王族は大勢殺しているだろう! 重税で国民を苦しめ、餓死者を生み、貧困層を追い詰め、強盗や殺人を増やした! 金を奪うことが、命を奪うことだと理解していない愚かな王族が、この国の民を大勢殺したんだ!」
「それは前魔王の話です! 今の魔王様は……!」
「……それに、僕はどれだけ市民を殺させられたと思っている」
モラスの声が、突然低くなる。
さっきまでの芝居がかった笑みが、彼の顔から消えた。
次の瞬間、モラスは私の目の前まで距離を詰める。
「っ……!」
胸倉を掴まれた。
息が詰まり、小さく呻いた。
「僕は数えきれないほどの裁判をやってきた……」
モラスの声は震えていた。
「正義のためにだ。罪を犯した者が何をしたのか、どう罰するべきか、更生に必要な時間はどれくらいか。社会に戻れる可能性はあるのか。僕は考え続けてきた」
私は驚いた。
先ほどまで無茶苦茶な主張をしていたモラスとは思えないほど、その言葉だけはまともに聞こえたからだ。
「けれど、社会復帰が許されないほどの悪人も裁いてきた」
モラスの指に力がこもる。
「何人も断頭台に送った。何人も、何人も、何人もだ」
「うぐ……」
「けれど、その多くは、国が生んだ怪物だったッ!」
モラスの目が血走る。
「重税で親を失った者。食うために盗みを覚えた者。教育を受けられず、善悪の区別もつかないまま育った者。暴力しか知らず、人を殺すことに何の抵抗も持たなくなった子ども!」
言葉が、刃のように突き刺さる。
「僕は、そういう者たちまで裁いた。法に従って、有罪を言い渡し、断頭台に送った。分かるか? 彼らを生んだのは国だ。王だ。政治だ!」
「こ、子どもが犯罪を犯したなら……それは、親の責任がありま……す……」
息苦しいけれど、私はなんとか声を絞り出す。
けれど、モラスはさらに声を荒げた。
「違うッ! その親も被害者だ! その親が子どもだった時に、国が適切な教育を行い、正しい倫理観を身につけさせれば、悲劇は起きなかった!」
私は言葉に詰まった。
モラスの声が、少しずつ崩れていく。
「おかげで、僕の心は壊れたよ」
私は何も言えなかった。
モラスは狂っている。
それは間違いない。
でも、その狂気の奥に、本当にあった痛みのようなものが、一瞬だけ見えてしまった。
それが、ひどく恐ろしかった。
モラスの視線が、ミーレ様の腕にいるゼル様に動く。
「そのゼルという赤子が、どれほど恵まれているか分かっているか?」
「な、何を……」
「周囲に愛されている。食べ物にも困らない。暖かい寝床がある」
モラスは吐き捨てるように言った。
「だが、この国にはそんなものを一つも与えられなかった子どもが山ほどいた。飢え、殴られ、盗み、殺し、そして最後には罪人として裁かれる。そういう子どもたちを、王族は見てこなかった」
モラスは、ぎり、と歯を鳴らす。
「倫理を知らない大人が子を育てれば、その子も倫理を知らない大人になる。貧困が犯罪を生み、犯罪が処刑を生み、処刑がまた憎しみを生む。この国はずっと同じことを繰り返してきた!」
モラスは私を突き飛ばすように手を離した。
私は必死に息を吸い込みながら、床に倒れ込んだ。
「けほっ……!」
モラスは両腕を広げた。
「王族に任せていては駄目だ。民に任せても駄目だ。愚かな大衆は目先の感情でしか動けない。だから、優れた倫理を持つ者が、全てを管理しなければならない」
その言葉に、私は背筋が凍った。
前半だけなら、正しい怒りに聞こえた。
けれど、違う。
この人は、苦しんだ人たちを救いたいのではない。
苦しんだ人たちを理由に、自分が全てを支配しようとしている。
「僕が精霊を持つ」
モラスは笑った。
「僕が王になる。僕が法律になり、僕が教育になり、僕が倫理になる。そうすれば、この国は正しくなる」
「……そんなものは、正しさではないわ」
ミーレ様が静かに言った。
青白い顔のまま、魔王剣を握り直す。
「正しくない政治をしてきた王がほざくなよ」
モラスの目が細くなる。
「温厚な僕でも、さすがに苛立っているんだ。もう僕の手で殺させてもらう。国民の怒りを思い知れ」
「ど、どんなことがあっても殺しは駄目です! あなたの言う倫理に反してます!」
「……学がないようだね」
モラスは蔑む表情で、私を見下ろした。
「歴史の教本にも書いてあるだろう? 民に嫌われた政治家や王は、これまで幾度となく殺されてきた。前魔王もそうだ」
「だからって……!」
「歴史が許しているんだよ」
モラスは笑った。
「民の怒りが王を殺す。その正当な歴史を、僕が再現するだけさ」
「それは正当じゃありません……!」
「……まったく、頭がわるいね。やはり女では、僕が正当だとわからないか」
モラスがパチンと指を鳴らす。
末期者たちの身体に括りつけられた爆弾が、薄く光り、末期者たちが、一歩前へ出た。
「早く終わらせてあげるよ。僕は他にまだまだやることがある。こんなところで時間を浪費するわけにはいかないんだ」




