第74話
アレックが見たら呆れて笑うだろうか。ジョゼフが見たら、卒倒してしまうかもしれない。
「ああ、気持ち良いね」
誰に何て言われようと、止めるつもりはない。
草原で横になって空を見上げることがどんなに気持ち良いか、みんな分かってるんだろうか。
女子のたしなみに反すると言われたって、仕方ない。
説教も快く受け入れよう。
「気持ち良い……」
私は隣に横になっている天使のような少女をちらりと見たあと、再び空に視線を移した。
私の口元がどんどん上がってくるのは、致し方ないことだろう。
エレーナの無意識の一言は、誉められた時のように嬉しいものだった。
大きな声を上げて笑いだしたかったが、そんなことをしてしまったら、エレーナが逃げてしまうことが分かっていた。
まるで、猫のようだ。爪を立てて相手を威嚇している。だけど、懐いてしまったらきっと想像以上に甘えてくるんだろう。
私達はしばらく空を見上げて言葉を交わさなかった。
時折透けるような薄い雲がゆっくりと私の視界の中を横切っていく。
ここは何てのどかなんだろう。
道は私達が延々辿って来た道しかない。人が通る気配も馬車が通る気配もない。
町が近くにないので、人の気配もない。家の中には普段よりも多く人が滞在しているのに、今はひっそりとしていて、家の中の気配は全く感じられない。
この世界で私とエレーナだけになってしまったような感覚に陥った。
でも、不思議と不安はなく、穏やかな気持ちだけが心の中を占めていた。
「あなたって本当に変な人ね」
呼び方が「あんた」から「あなた」に変わっていた。少しは昇進したのかな。
少しは心を開いてくれたと期待してもいいだろうか。
「そうかもね」
否定はしない。否定をしたところで、相手が納得しないことはもう承知している。
それならば、受け止めてしまった方が楽なのだ。
「私、草原で横になるなんて初めてよ」
「シルビアともよく一緒に横になったりするよ」
そう考えるとシルビアも大分変わった人間だと言える。
「シルビアって王妃様がっ」
「ああ見えてシルビアはお転婆娘なんだよ。こういうところに横になって葉っぱがついたって気にしないし、木にだって登るし、川の中にだって入っちゃう。まあ、私がそそのかしたんだけどね」
いつの間にか隣で横になっていたエレーナが体を起こし、私を凝視していた。
「あなたの周りにいる人は大変ね」
「ははっ。よく分かるね。アレックは重度の心配性だし、ジョゼフは怒鳴ってばっかり。一応、申し訳ないとは思ってるんだよ」
アレックはともかく、ジョゼフには本当に申し訳ないって思ってるんだ。
今度、日頃の感謝と謝罪をかねて何かしようかなって思ってる。
何がいいかな。サプライズ企画でも立ち上げてみようか。ジョゼフがアッと驚いて、不覚にも泣いてしまうような企画を考えてみよう。
新たに浮かび上がったワクワク企画に、うっかり隣にエレーナがいることを忘れて妄想に浸りそうになってしまった。
「……信じられない」
「えっ、何が? ああ、シルビアのこと?」
「違うわ。ジョゼフのことよ。ジョゼフが怒ったところなんて私、見たことないもの」
エレーナはジョゼフを知っているんだ。
当たり前か。エレーナとアレックは兄妹なんだもの、いつもアレックの傍にいるジョゼフのことは、私なんかより昔から知っているよね。
「ジョゼフは怒るとネチネチしつこいんだよね。それに、ジョゼフは笑顔も見せてくれるよ」
一日のうち、怒った顔の方がはるかに多いけどね。
「ジョゼフが笑うの?」
「うん。笑うよ」
ジョゼフの笑顔を思い出して、ふいに笑顔がもれた。
普段そんなに笑顔を作らないジョゼフが無意識に笑顔を見せてくれた時、それが神様がくれたご褒美なんじゃないかと嬉しくなる。
アレックからジョゼフが私を好きだ(勿論、妹みたいな存在として。それを承知でいつもからかっているのだ)と言っていたと聞いた時なんか、嬉しかった。
私もまたジョゼフが好きだからだ。お兄さんみたいな存在として。そう、私達はある意味両想いなのだ。
「マリィ様っ」
がさりと葉っぱのなる音が聞こえた途端、怒鳴られた。
私は慣れているから、動じることなく横になったままジョゼフを見上げているけれど、エレーナはあまりの突然の出来事に驚き肩を強張らせていた。
「ジョゼフも寝る?」
「寝るわけありません。あなたという人は……」
「分かった。じゃあ立たせて」
両手を上げて引き上げてくれるよう促した。
フンッと鼻から息を吐くと、諦めたように私の手を取った。
引かれた手を反射的に強く引っ張ると、虚をつかれたジョゼフは地面に倒れこんだ。
「何するんですかっ」
「ジョゼフ。上、上」
強引に地面に横たえると、上を指差した。
「怒りっぽいジョゼフには、安らぎが必要です。たまには、何もかも忘れて自然を感じるのも大切ですよ」
わざと諭すような口振りでそう言った。
「全く何言ってるんですか」
ジョゼフが浮かべた小さな笑みを私もエレーナも見逃さなかった。エレーナにいたっては、驚きで口をぽかんとだらしなく開けてしまっている。
「これで共犯ね。だから、今日は説教なしってことで」
「仕方のない人ですね。でも、次はありませんからね」
「はいはい。分かってるってば」
信じられないものを見たという感じの表情を依然と続けるエレーナの顔の前で手を振って見せる。
「お~い。エレーナ。大丈夫?」
パッと我に返ったように私を見る。
私が微笑みかけるとふんわりと優しい微笑みを返してくれた。直接見る初めてのエレーナの微笑みに私の笑顔はより大きさを増した。
「へへっ。ジョゼフ、エレーナが笑ってくれたよ」
「ええ、そのようですね」
ジョゼフは興味が無さそうにそう言った。
それでも、こんなふうに興味が無さそうな言い方をしていたって、ジョゼフが興味津々なことを私は完全に見抜いていた。
ジョゼフは素直じゃないからな。
「私っ、笑ってなんかいないわ。そうよ、きっと見間違いよっ」
真っ赤な頬が嘘を露呈している。
そんな所が可愛らしいと思ってしまう。
「そうね。そうかもしれない。ところで、ジョゼフ。アレックは?」
「ええ、今頃父上殿をまいたころじゃないかと思いますので、そろそろバルコニーに現れるんじゃないでしょうか」
ああ、なるほど。
移動の途中でまんまと変態お父さんに捕まってしまったということなのね。
ジョゼフの言葉は信用できる。ジョゼフがそろそろバルコニーに現れるというのであればそうなのだろう。
「そうか、じゃあ。そろそろアレックのところに戻ろっかな」
起き上がると二人の方を見た。
「ジョゼフ。きちんとエレーナをお部屋まで送ってあげてね。私は先に戻ってるよ」
起き上がってバルコニーを見るとアレックがちょうど姿を現したところだった。
アレックに向けて大きく手を振って見せた。アレックもそれに応えて手を振ってくれている。
「アレック。今から戻るから待ってて。じゃあ、エレーナまた後でね」
手を振って、愛しい人へと駈け出した。
「めずらしいですね。あなたが、殿下に近づく女性に牙を剥かないなんて」
「剥いたわよ。だけど、あの人さらりとかわしちゃうんだもの。逆にこっちが向うのペースに引きづりこまれちゃったわ。本当に変な人ね」
「それがあの方の魅力でしょう。きっとあなたももう少し一緒にいれば、離れがたくなってしまうんじゃないでしょうか」
「なあに、それ。予言?」
「近い将来必ず起こる事実ですよ。我々が城へ出発する頃には、あなたはマリィ様が大好きでしかたなくなってしまっている」
ジョゼフは小さく笑ってエレーナを見た。