第72話
いまだかつて自分の身にこんなけったいな出来事があっただろうか。いや、ない。
驚愕している私の周りでは、呆れを感じるため息がここそこで聞こえてくる。
聞き間違えではなかった筈だ。
アレックのお父さんは私にこう言ったのだ。
「あなたのパンツ、私にくれませんか?」
と。
「あの、一つ聞きたいんですが、それを私が上げたとして、どうするおつもりですか?」
聞くのが怖いという気持ちはある。だが、それ以上に興味があったのだ。
一体、私のパンツをどうするつもりなのか。
ほら、もしかしたら今はいてるパンツのことじゃなくて、真新しいパンツが欲しいってことかもしれない。ここには、町がないからなかなか買い出しも行けなくて、お母さんのパンツが不足しているとか。
「そりゃ君の脱ぎたてほやほやのパンツを頭に被るよ。ああ、でもその前にスーハースーハーするのを忘れちゃいけないね。そして、それを抱いて寝るのさ。ああ、素敵な計画だと思わないかい。アハハハハ」
私のみならず周り一帯が冷気を帯びていた。
そうだっ、こんな時は笑うしかない。
「そうなんですか。アハハハハ……。アレック、お父さんは変態なんかじゃない……」
アレックを見据えると、こう続けた。
「ド変態よっ」
失礼だとは思った。
曲がりなりにもアレックのお父さんであるのだから。
少々変態だったからって口に出すのは、どうかと思う。いくらそう思っていても、心のなかにひそめておくべきだ。だけど、少々のレベルを遥かに越えていた。いくらなんだって、ド変態すぎる。
「まったく同感だな。父上はド変態だ」
「私もそう思うわ。ちょっと度がすぎる変態さんだわ」
アレックに続いて、お母さんまでもが私の意見に同意してくれた。
お母さんだけじゃなく、ジョゼフや近衛兵たち、騒ぎを聞き付けて家から出てきた使用人たちも、しきりに頷いている。
ああ、なんだ。みんな同じこと思っているんじゃん。
「なんだい、みんなして……」
もしかして、怒ってしまっただろうか。
せっかくここまで来て、喧嘩して険悪なムードになるのはマズい。
私がその怒りをどうにか鎮めなければと口を開けたのはいいが、それはそのまま言葉が吐き出されることはなかった。
「そんなみんなで、私のことを褒めたたえないでくれよぉ」
イヤ、褒めてねぇしっ。
って、心のなかだけで思い切りツッコミを入れた。
「あなた。褒めていないわ。思い切り罵ったのよ。アレクセイの大事な方になんてことを言うの。あなたには罰が必要ね」
お父さんの表情がキラキラと輝いたものに変わっていく。
一体何の言葉に酔い痴れているのか。
その疑問は早々に知る羽目になる。
「ああ、私は君に罵られるのが最高に嬉しいんだよ。なんなら、もっと罵ってくれてもいいんだよ」
ドMっ。
ド変態で、さらにドMときましたか。
そりゃ、ちょっと見、アレックのお母さんは女王様っぽいけど……。あ、この場合の女王様ってのは、もちろんSMのだけどね。
「あなた、マリィーシアと言ったかしら?」
「は、はい」
お父さんの訴えを完全に無視して、お母さんは私と対峙した。
「マリィ……と呼んでも?」
お母さんはとにかく美しい。大人の色気がムンムンとただよっていて、女の私でさえ見つめられるとドキドキしてしまう。
「はい、もちろん」
「そう、ありがとう。ごめんなさいね、あの人の悪い癖なのよ。あれがあの人の挨拶変わりなの。許してあげて。罰は私が責任を持って遂行するわ。袋詰めして土に埋めるのと、屋根から逆さ吊りにするのと、二十四時間鞭打ち。さあ、どれがいいかしら?」
前半は至って普通のことを言っていたのに、後半、言っていることがむちゃくちゃだ。
魅惑的な微笑をたたえたまま、淡々と語るので冗談なのか本気なのか分からない。
どう答えるべきか迷い、隣のアレックに助けを求めた。
「マリィが困っていますよ。冗談はそれくらいにしてください。父上も、……母上も」
少し戸惑いはあったものの、アレックはお母さんにお母さんと呼び掛けることが出来た。
お母さんは一瞬豆鉄砲でも食らったような表情をしたが、その言葉の意味を理解すると先程までの魅惑的な笑顔ではなく、子供のような無邪気な笑顔を浮かべた。
私は魅惑的な笑顔も好きだが、無邪気な笑顔の方がより魅力的だと思った。
アレックが恥ずかしそうに顔を背けている姿も、可愛いらしく私の目には映った。
「あら、半分本気よ」
いったい何処から何処までが本気だったのか、聞いてみたかったが、なんとなくこれ以上深追いするのはよくない気がして諦めた。
「もういいですから。家のなかに入れてくれませんか? 長旅で疲れてるんです」
アレックはご両親に対して丁寧な言葉で話す。そんなところに距離を感じて少し悲しくなった。
アレックはお父さんのことについては、あまり話してくれなかったので、どう思っていたのか、どんな関係性なのか、私は知らない。
「おお、それはすまなかった。皆さん、遠いところをよくおいで下さった。さあ、中に」
お母さんにシカトされたことに身悶えていた(勿論喜びで)お父さんは、漸く家主らしい挨拶をして私たちを中に招き入れた。
招かれた家は、城というほどの華やかさはないにしても、豪邸と呼べるだけの広さがあった。
所々に施された細工や置物は職人さんの細かな技が光っているような一級品だと見て取れた。
落ち着いた雰囲気を演出されたこの家は、隠居暮しには相応しいもののように見えた。
ただ、草原の中に一つだけぽつんとたっているこの家は、仲間がいないことを少し寂しがっているように感じられた。
「まずはお部屋にご案内致します」
腰の曲がったお婆さんが私たちを部屋まで案内してくれた。
私とアレックの部屋は二階の一番奥の部屋だった。
「お食事が出来ましたらお呼びに参ります。それまでは長旅で疲れているでしょうからゆっくりと寛いでいただきますようにと、奥様のご伝言でございます。只今、お飲み物とお菓子をお持ち致しますので」
曲がった腰をさらに曲げて頭を下げると部屋を後にした。
私は部屋に入ると正面にあったバルコニーに真っ先に出てみた。
「あっ、アレック。あそこに小川が流れてるよ。行ってみてもいい?」
遅れて入って来たアレックの腕を引いて、キラキラと流れる小川を指差した。
「行くのは良いが少し休ませてくれ。婆やが飲み物を持ってくるからそれを飲んでからでも遅くはないだろ?」
「別に私一人だけでも大丈夫だよ。すぐそこなんだし」
今すぐにあの小川の近くまで飛んで行きたい。
だって、さっきからパチパチと魚が跳ねているのが見えるのだ。
「ダメだぞ。一人で行ったらお前は何をしでかすか分からないか……」
アレックの言葉が聞こえたのは、途中までだった。
バルコニーにいたはずの私は、無意識に小川に行きたいと強く願ってしまったせいで小川の前に転移してしまったのだ。
「マリィっ」
バルコニーから驚き、呆れ、怒りの交じる声でアレックに呼ばれた。
「ごめんなさいっ」
「仕方ない。今そこに行くから、お前は大人しくそこで待ってろ。いいなっ」
私の返事を聞かずにアレックの姿はバルコニーから消えた。
小川に近づくと水の中には沢山の魚が泳いでいるのが見えた。
「こんなにいっぱい」
ふと『メダカの学校』という童謡を思い出し、口ずさんでいた。
「あんたがお兄様が連れてきた子?」