第十八話 寧を洗った男
日本海側の港で、一人の男が死んでいた。
財布もない。
スマートフォンもない。
身元を示すものは何もない。
残されていたのは、水に濡れた中国のコンビニのレシート。
かろうじて読めたのは、「寧」という一文字だった。
身元確認を命じられたのは、県警捜査一課の窓際刑事・真壁修司、56歳。
ただ一人の名前を調べる。
それだけのはずだった。
※本作は、現実の国際犯罪に関する報道から着想を得て構成したフィクションです。
登場する人物・企業・事件・捜査内容などは創作であり、実在する特定の人物・企業・団体とは関係ありません。
第十八話 寧を洗った男
港へ戻った。
事件から二か月近くが過ぎている。
九月だった海は、もう秋の色ではない。
風が冷たい。
真壁は防波堤を歩く。
若い刑事もついてきた。
「何でここ来たんです?」
「見たかった」
「何を?」
「分からん」
「最近それ多くないですか」
「昔からだ」
死体が見つかった場所には何もない。
当然だ。
規制線もない。
鑑識もいない。
釣り人が一人いるだけ。
波が同じ場所へ何度もぶつかる。
「ここだったな」
真壁が言う。
「はい」
最初はただの身元不明死体だった。
財布がない。
携帯がない。
旅券もない。
ポケットには濡れたレシート。
**美宜佳**
そして、
**寧**
それだけ。
若い刑事が海を見る。
「結局、寧波だったんですね」
「たぶんな」
「まだ言うんですか」
「レシートが寧波のものだった可能性が高い。それ以上は別だ」
「男が寧波にいた」
「それも可能性が高い」
「会社とも関係してた」
「それは分からん」
若い刑事がため息をつく。
「何なら分かってるんです?」
真壁は海を見る。
「随分分かったぞ」
中国側の企業。
名古屋の会社。
海外へ伸びる金。
フェンタニルに関係するネットワーク。
中国人として日本へ入り、別の身分で国外へ現れた人間。
日本人という属性。
信用。
それを利用する人間たち。
いくつもの線は見えた。
何人かは拘束された。
いくつかの会社は調べられている。
経路の一部も止まった。
それでも。
「名前」
真壁が言う。
「え?」
「あいつの名前」
若い刑事は黙った。
それだけは分からない。
---
県警へ戻る。
窓際の机。
二か月前と何も変わらない。
真壁はファイルを開く。
表紙。
**身元不明死体**
ページをめくる。
推定年齢。
身体的特徴。
発見場所。
所持品。
写真。
DNA。
指紋。
照会結果。
中国。
寧波。
名古屋。
国外機関。
公安。
大量の紙が追加されている。
最初は薄かったファイルが、今では閉じにくい。
それでも一番上の欄は埋まっていない。
**氏名:不詳**
若い刑事が横から見る。
「このままなんですかね」
「今のところな」
「佐伯さんたちも分からない?」
「分からん」
「中国側は?」
「照会してる」
「国外の機関」
「同じ」
若い刑事はファイルを見る。
「ここまで調べても?」
「ああ」
真壁は写真を一枚取り出す。
公安が持っていた生前の写真。
死体ではない。
生きている男。
街のどこか。
少し横を向いている。
何かを見ているようにも見える。
誰かを待っているようにも。
「変ですね」
若い刑事が言う。
「何が」
「写真まであるのに、名前がない」
「そうだな」
「顔は残ったのに」
真壁は写真を見る。
「名前だけ残らなかった」
机の上には、あのレシートのコピーもある。
**美宜佳**
その下。
水で崩れた文字。
そして一文字。
**寧**
最初、この字を人名かもしれないと思った。
店の名前。
商品の一部。
地名。
何でもあり得た。
実際には寧波へつながった。
そこから名古屋。
金。
薬。
人。
いくつものものが洗われていた。
金の出所。
会社同士の関係。
人間の経歴。
国籍。
信用。
誰がどこから来たのか。
誰が誰なのか。
洗えば洗うほど、元の形が見えなくなる。
真壁は生前の写真へ目を戻す。
この男も、その中にいたのかもしれない。
誰かを洗った側なのか。
洗われた側なのか。
途中で抜けようとしたのか。
最初から別の役割だったのか。
そこも分からない。
若い刑事が聞く。
「真壁さん」
「ん?」
「この人、何者だったんでしょうね」
真壁はしばらく写真を見ていた。
「知らん」
「ですよね」
「でも」
若い刑事が待つ。
「人間だったことだけは分かる」
それ以上は言わなかった。
---
夕方。
真壁は豆を挽く。
モカ・マタリ。
ブラジル・サントス。
いつもの配合。
手回しミルが音を立てる。
ガリ。
ガリ。
ガリ。
若い刑事が自分のカップを持ってくる。
「俺のもお願いします」
真壁の手が止まる。
「自分で淹れろ」
「最近教えてくれたじゃないですか」
「教えたから自分でやれ」
「八十度でしたっけ」
「そうだ」
「一度くらい違っても」
真壁が見る。
若い刑事は言い直した。
「八十度にします」
「それでいい」
「面倒くさいなあ」
「聞こえてるぞ」
窓の外は暗くなり始めている。
事件についての報告書は、もうすぐまとまる。
新聞には別の名前で載るだろう。
国際犯罪。
薬物。
資金。
複数国にまたがるネットワーク。
そんな言葉が並ぶ。
真壁の名前など出ない。
別に構わない。
昇進の話もない。
席も変わらない。
窓際のまま。
湯を落とす。
一滴。
また一滴。
若い刑事が自分の席へ戻ろうとする。
真壁が呼び止めた。
「なあ」
「はい?」
写真をもう一度見る。
二か月前。
日本海の港で、名前も持たずに横たわっていた男。
「結局、お前だけ分からなかったな」
若い刑事は何も言わない。
真壁は写真をファイルへ戻す。
閉じる。
表紙には事件番号。
その中には何十人もの名前。
会社。
国。
金額。
日付。
すべてが記録されている。
ただ一人を除いて。
ファイルの最初のページ。
**氏名:不詳**
その文字だけが、最後まで消えなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「ここで終わるの?」
そう思った方もいるかもしれません。
たぶん、それで正解です。
この物語は、事件のすべてを解いて終わるミステリーとして書いたものではありません。
一人の身元不明死体から始まり、中国、寧波、名古屋、国際犯罪、フェンタニル、そして「人間を洗う」という架空の犯罪構造へ話は広がっていきました。
事件の輪郭は見えてくる。
多くの名前も出てくる。
会社にも、国にも、記録にも名前がある。
それなのに、最初に死んでいた男の名前だけが最後まで分からない。
真壁は最初から最後まで、世界を救おうとしていたわけではありません。
命じられた仕事は、ただ一つ。
「この死体の身元を調べろ」
結局、それだけは果たせませんでした。
なお、本作は現実に報道された国際的な薬物犯罪や、日本を含む企業・人・金の国際的なつながりから着想を得ていますが、物語そのものはフィクションです。
特に作中の「人間ロンダリング」は、本作のために設定した架空の概念です。
実在する特定の企業や人物が、作中の犯罪行為を行っていると示すものではありません。
そしてタイトルの、
『寧を洗った男』
誰が、何を「洗った」のか。
あの男は洗う側だったのか。
それとも、洗われた側だったのか。
そこだけは、作者から答えを決めないことにします。
真壁に聞いても、おそらくこう答えるでしょう。
「俺もそれを調べてたんだよ」
――氏名、不詳。
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