第一話 名無しの男
日本海側の港で、一人の男が死んでいた。
財布もない。
スマートフォンもない。
身元を示すものは何もない。
残されていたのは、水に濡れた中国のコンビニのレシート。
かろうじて読めたのは、「寧」という一文字だった。
身元確認を命じられたのは、県警捜査一課の窓際刑事・真壁修司、56歳。
ただ一人の名前を調べる。
それだけのはずだった。
※本作は、現実の国際犯罪に関する報道から着想を得て構成したフィクションです。
登場する人物・企業・事件・捜査内容などは創作であり、実在する特定の人物・企業・団体とは関係ありません。
全18話。
男は、海を見ていなかった。
うつ伏せだったからだ。
九月の日本海は、夏の名残を残していた。
午前六時十二分。
港の東防波堤で釣りをしていた男が、消波ブロックの間に人間らしきものが挟まっているのを見つけた。
最初は漂着したゴミ袋だと思ったという。
紺色の上着。
黒いズボン。
片方だけ残った革靴。
波が引くたび、右手がわずかに動いた。
生きていたからではない。
海が動かしていた。
---
「五十前後かな」
所轄の刑事が言った。
「もっと若いかもしれん」
男は答えた。
「海に浸かると分からんよ」
県警刑事部捜査第一課。
警部補、**真壁修司、五十六歳**。
肩書だけなら、それなりだった。
だが県警本部で真壁の机が置かれている場所を見れば、肩書が必ずしも人間の現在地を表さないことが分かる。
窓際だった。
比喩ではない。
本当に窓の横だった。
真壁は、その場所を案外気に入っていた。
朝、人が少ないうちに出勤すると、まず机の脇に置いた小さな缶を二つ取り出す。
一つはモカ・マタリ。
もう一つはブラジル・サントス。
配合は真壁が自分で決めた。
何対何なのかと以前、若い刑事に聞かれたことがある。
「湿度で変える」
そう答えて以来、誰も聞かなくなった。
豆は飲む直前に手で挽く。
電動ミルは使わない。
湯は八十度。
八十一度でも七十九度でも駄目、というわけではない。
飲めないことはない。
ただ、
「八十度が一番うまい」
と本人が決めている。
ペーパーフィルターをセットし、少量の湯で豆を蒸らす。
三十秒。
それから細い湯を円を描くように落としていく。
捜査一課の朝に、ガリガリという手回しミルの音が響く。
「真壁さん、それ毎朝やるんですか」
若い刑事が一度だけ尋ねた。
「毎朝飲むからな」
「缶コーヒーじゃ駄目なんです?」
真壁はミルを回す手を止めた。
「お前は取り調べで、だいたい同じ話なら聞かなくていいと思うか?」
「思いませんけど」
「同じだ」
「絶対違うと思います」
それ以来、その刑事も聞かなくなった。
真壁はそういう男だった。
気になったことを放っておけない。
上司が「もういい」と言っても調べる。
必要のない報告書を増やす。
一つの数字が合わないだけで、全部ひっくり返して確認する。
コーヒーの湯の温度を気にするのと、供述調書の時刻が三分ずれているのを気にするのとで、本人の中にはおそらく大した違いがない。
その結果、何度か当たりを引いた。
同じくらい何度も外れた。
組織にとっては、当たるか外れるかより、
**止めろと言ったとき止まる人間かどうか**
の方が重要だった。
真壁は、その点であまり優秀ではなかった。
「所持品は?」
「ほとんどありません」
鑑識員が答えた。
財布なし。
運転免許証なし。
旅券なし。
スマートフォンなし。
腕時計もない。
衣服のタグから購入先を追える可能性はあるが、どれも量販品だった。
「金も?」
「硬貨が少し」
「日本円?」
「はい」
真壁は遺体を見た。
「じゃあ日本にいたことだけは確かだな」
「港で死んでるんですから」
所轄の若い刑事が笑った。
真壁は笑わなかった。
「そういう意味じゃない」
若い刑事は黙った。
---
午後、鑑識課から電話があった。
ポケットから見つかった水損した感熱紙には、わずかに文字が残っていた。
**美宜佳**
そして、
**寧**
中国のコンビニのレシートらしい。
だが「寧」が人名なのか、店名なのか、地名なのかは分からない。
真壁はコピーを受け取り、胸ポケットへ入れた。
翌日、真壁は「寧」を調べなかった。
まず死んだ男の顔を持って港を歩くことにした。
その方が、ずっとまともな捜査だった。
――少なくとも、八十度の湯でコーヒーを淹れる程度には。
お読み頂きありがとう御座います。
続きは明日、3話投稿予定です。
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