第九話
第九話
昼を食べる気力がいまいちなかったので、アキはオフィスの自動販売機でパンを買った。隣の自動販売機でコーヒー牛乳も買う。
コーヒー牛乳は神の飲み物だよと、マキがよく言っていたのを思い出した。
マキに連絡しようとしたが、仕事中にずっとやっかいなことを考えることになりそうな気がしたので、アキはマキに連絡をしないことにした。
マキは詳細を話さなかったが、マキの仕事がどうなっているのか、アキはとても気になっていた。
マキのことを思うと、なんだか気分が落ち着かない。
気分転換に外でパンを食べようと思い、アキはオフィスの屋上にむかった。
オフィスの屋上は内側から施錠されているだけなので、簡単に出ることができる。
重い金属の扉を開けると建物内にまぶしい光が差し込み、よどんだオフィスの空気とは全く違う外の空気がアキを吹き抜けていった。
地上よりそれなりに高い位置にあるせいか、日差しも明るくて眺めもいい。
上空に広がる雲ひとつない青い空を見上げて、アキは深呼吸する。
考えても仕方ないのか?
そんなことを思っていると、風の音にかすかな音が混じっているのが感じられた。
またか。
アキは思った。今日は一日中、この音につきまとわれているような気がする。
音のする方向に目を向けた先にあるのは、屋上に出る扉のある壁に開けられた窓だった。
その窓のガラスが、やはりかすかにびりついて、みみざわりな音をたてていた。
やはり、この建物もわずかに振動しているのだろうか?
そう思い、朝の食器棚のことを思い出す。自宅とオフィスが、同じように揺れているなんてあるだろうか?
アキは窓に近づいて、ガラスに手を触れてみた。
やはり、ガラスは小刻みに震えていた。
気持ちが悪いな。
アキは思った。だから、アキは考えないようにすることにした。
今日は一日、仕事中にいろんなことを考えてしまいそうだった。だから、アキは自分に考えないようにしようと言い聞かせることにした。
パン食べよ。
そう思って、アキは屋上を囲んでいる柵のところまで行く。
マキが神の飲み物と呼ぶコーヒー牛乳を柵のうえに置いて、パンの包装をあける。
食欲はなく気分も良くないので、アンパンにした。
アンパンを食べてコーヒー牛乳を飲んだら、コーヒー牛乳がやたら苦く感じた。
組み合わせ、失敗した。
アキはそう思いながら、柵に向こうに広がる世界を眺めつつアンパンをかじった。
何度かアキはこの屋上にきていた。
眺めがいいし、簡単に出れるし、何より誰もいない。不思議とこの屋上で、同僚と出会ったことはなかった。みんなずっとオフィスにいるから、当たり前と言えば当たり前の現象だった。
わりといいところなのになと、アキは思う。
見慣れてはいるが、外の景色を見ながら風に吹かれるのは、いい気分転換になるのに。
その見慣れた景色を、アキは眺める。
オフィスの屋上からは足元に広がる町並みと、その先に遠く連なる山々が見える。
あの山、行ったことないな。そんなことをアキは思いながら、アンパンをかじる。
奇妙なことに、馴染み深いその風景に、何か違和感をアキは感じた。
なんだろう?
心が落ち着いていないせい?
いや、違う。違和感じゃない。
見慣れたはずの風景が、記憶にある風景とちょっと違う。アキは明確にその異様さに気がついた。
あの山の後ろに、もっと大きい山があったはずだ。
アキは記憶の中の風景と、いま目にしている風景の差異に気がついた。
あの大きい山が風景から消えている。
山の名前はわからないが、その巨大な姿は馴染み深く、アキの中に染み付いているものだった。
そんなことがあるか?
この風景、目を閉じて描けるか? と言われたら描けないが、それでも記憶にある風景と、今みている風景が違うことがわかる。
さらによく見てみると、いくつか記憶にあるものが風景から消えていた。
アキの記憶の中にある連なる山の風景から、山のいくつかが明確にいまは存在していなかった。
そんな馬鹿な……
アキは、雲か霧で隠れているのではないか、と思ったが、空には雲ひとつ浮いていないし、もやすら出てはいなかった。
山が見えないのは、雲のせいでも霧のせいでもない。
では、なぜ、この風景は自分の記憶にある風景と違う?
蜃気楼だったとしたら、こんな現象が起こり得るのだろうか?
蜃気楼による光の屈折であるはずの山が見えない。そんな現象が成立可能だろうか?
目の前の事実にアキは思考をめぐらすが、どうにも納得できる考えが出てこない。
自分の頭がおかしくなったのか?
アキはなかば呆然と、遠くつらなる山々を見つめていた。
そして、アキの目の前で、山がひとつ消えた。
まるで実体のある山が、突然幻になってかき消えたかのように、アキの目の前で山がひとつ消えた。
アキは絶句した。
何が起きているのか、脳が理解することを拒否した。
アキはただ立ち尽くした。
その目の前で、またひとつ山が消え、見慣れた風景はどんどん変化していった。
これはなんだ?
アキの胸に、得体の知れない恐怖がわきあがるが、視線をどんどん変化する風景から外すことができない。
釘付けにされた視界からまたひとつ山が消え、またひとつと消えていく。やめろやめろ! あの山はマキがとんがり山と勝手に呼んでいた山だ。
それがかき消え、いまはもうない。つぎつぎに、連なる山々が消えていく。
そしてそれを、アキはついに目にした。
地平線だった。
いまはもう連なる山々はひとつもなく、地平線が現れていた。
そして、その地平線は、アキのいる街にむかって、すべてのものを消滅させながら、どんどん接近していた。
地平線のむこうには、ただ無だけがあった。
無がアキのいる街にむかって迫ってくる。全てを無の中に呑み込む地平線。
「破滅だ。あれは破滅だ!」
アキは恐怖にかられそう叫んだ。
その瞬間、アキの耳に、大音量で絶叫するサイレンの音が満ちた。
アキが呆然とみつめる、消えゆく西の大地から、アキの目前に広がる街から、アキ自身がいるビルの屋上から、ありとあらゆる場所でサイレンが叫び、この世界の破滅を告げている。それは街中に反響し、うなりとなって世界を覆い尽くしていた。
その音はアキの脳内でも反響し渦を巻き、破滅の到来をアキに告げる。
渦巻くサイレンの音が、脳の中で全てをつなげていく。
マキには聞こえるサイレン。朝、台所で見た震えるガラス。オフィスの震えるガラス。そして、ついさっき見た屋上の震えるガラス。きっとサイレンはずっと鳴っていた。ガラスが共振して振動するほどに。サイレンはずっと破滅の到来を告げていた。でも、アキにはその音を認識することができなかった。その理由はわからない。
私には聞こえなかったんだ。迫りくる破滅を、この目で認識するその瞬間まで。
アキが破滅を認識した瞬間、その破滅を警告するサイレンの絶叫を認識することができた。世界はもう破滅するのだと、サイレンが泣き叫んでいることを、ついにアキはいま聞いて完全に理解した。
アキの思考は簡単な答えを出す。
破滅はやがて、この街に届く。
遥か彼方の遠い東にある丘の上で、涙を流すマキの姿が浮かぶ。
アキは屋上を飛び出し、階段を駆け下りた。その階段にも、サイレンの音は渦巻いていた。
血相を変えて階段を駆け下りるアキを、怪訝な顔でみつめる人。そんなことはアキにはもうどうでもよかった。
どうせサイレンは聞こえてない。
ついさっきまでのアキのように。
昼休みのオフィスに飛び込み、壁にかけられた社有車の鍵をもぎとる。
「おい。アキ、車なんか何に?」
その言葉に返事をすることもなく、アキはオフィスを飛び出し再び階段を駆け下りる
さっき、いったいどれくらいの時間、外を眺めていた?
すべてを無へと呑み込む、あの地平線に追いかけられて、果たして勝ち目はあるのだろうか?
マキの元にたどり着いたとして、その先に逃げ場はあるのだろうか?
どこか冷静な部分が、アキの行動に疑問を投げかける。
だが、アキの頭にあるのは、遥か彼方東の地に残してきた、マキの姿。
駐車場に駐められた社有車に乗り込み、ためらうことなく走り出したアキは職場を後にする。
運が良かった。燃料計の針は振り切れるほどの残量があることを示している。燃料はしばらく心配がない。
アキはアクセルを踏み、大通りに出る。
昼下がりの国道は空いていて、多数の車は制限速度を超過気味に走る。その横を大幅な速度超過で走り抜け、アキはマキのいる東へ向かう。
背中からは、全てを無に呑み込む破滅の地平線が追いかけてくる。車内にはうなりをあげるサイレンの音が満ちている。
遥か彼方、東の地にある丘の上で泣いていたマキのもとにむかって、アキはアクセルをひたすらに踏み込む。
盗み出した社有車のエンジンがうなりをあげ、アキはどんどん加速していく。
何も気にすることはない。会社なんてすぐにあの地平線に呑み込まれる。マキと暮らすふたりの部屋が脳裏をよぎる。あの部屋も無に帰するのだろう。仕方ない。やがてこの世界自体さえ、あの破滅に呑み込まれてしまうのだから。
最後をむかえるのなら、マキと一緒がいい。
アキはただそう思い、マキのもとへとむかう高速道路を目指す。
「数日でいいから、ここにいて」
マキの言葉が、サイレンの音でおかしくなりそうな頭に響く。
ごめんよ。マキ。君を信じられなかった。
マキを取り戻すために? マキと最後をむかえるために? いや、マキと生きるために。アキはアクセルを踏み続ける。
そして窓の外を、何もかもがアキの後方へと流れ去っていく。
※本作品は2021年3月に公開された作品の復刊です。




