第五話 百面鬼
「触らないでください!」
エリシアの制止する声より、敬由の指が面へ届く方が早かった。
冷たいはずの木肌が、心臓のように一度脈打つ。
ドクン
次の瞬間、無数の光景が敬由の頭を駆け抜けた。
知らない戦場。燃える町。槍を構える兵士。泣く子供を抱きしめる女。荒れる海を前に立つ男。巨大な橋へ最後の石を据える、小さな背中。
すべて一瞬で消え、敬由は祭壇の前へ膝をついた。
「敬由!」
リネットが駆け寄り、心配そうに肩を支える。
「だ、大丈夫。たぶん」
「たぶんで触れる馬鹿があるか!」
ボルガが面を調べる。古びているが傷一つなく、材質も判別できない。
「神器の可能性があります」
静かに告げる。
エリシアの声は硬かった。
神器。現代の魔法技術でも再現できない、由来不明の道具。国宝として管理されるものもあれば、行方の分からないものもある。
「選ばれし装備……」
敬由の目が好奇心を隠せない様子をしている。
「その顔をやめなさい」
エリシアに窘められる。
敬由は面を持ち上げた。内側に、読めない文字が刻まれている。
「触れても大丈夫なのか?」
ボルガが問う。
「今度は大丈夫みたいです」
なぜか意味だけが理解できた。
「百面鬼」
「読めるのですか?」
「いや、文字は分かんない。でも、そういう名前だっていうことは分かる」
エリシアは面と敬由を交互に見た。敬由の考えを見透かしたエリシアが注意する。
「装着しないでください。まずギルドへ持ち帰り、専門家に――」
エリシアが言い終わる前に背後で金属音が鳴った。
撤退したはずの襲撃者たちが、増援を連れて戻っていた。
「神器を渡せ!」
矢が飛ぶ。リネットの盾が受け止めた。
「諦めたんじゃなかったの?」
「逃げるぞ!」
リネットは驚き、ボルガは素早く指示を飛ばす。
四人は別の通路へ駆け込んだ。しかし遺跡の出口は襲撃者に塞がれている。
ボルガが狭い場所で戦線を支え、エリシアが水の障壁を張る。リネットは先ほどの戦闘で傷ついた左腕を庇っていた。
敵の数は十人以上。
敬由は面を握った。
「これをつけたら、何かできるかもしれない」
「何が起きるか分からないんだよ!」
「でも、何もしなかったら全員捕まる」
自分の声が震えているのが分かった。
怖い。逃げたい。誰かに代わってもらいたい。
それでも伊織さんなら、こんなとき迷わないのだろうと思った。
「くそっ、どうなでもなれ!」
敬由は百面鬼を顔へ当てた。
その瞬間、世界から音が消えた。
視界の中で、リネットの動きが鮮明に映る。踏み込む角度。肩の回転。盾へ力を逃がす方向。呼吸と魔力の流れ。
理解したのではない。身体へ直接、正解を流し込まれた。
敬由は咄嗟に床へ落ちた小盾を拾う。
敵の剣が振り下ろされる瞬間、敬由は左足を引き、重心を落とし、盾を斜めに当てた。
キンッ
刃が横へ滑る。
身体が勝手に前へ出た。短剣の柄で男の顎を打つ。
「え……?」
自分の口から漏れた声が、面の内側で反響した。
次の敵。剣を受け、逸らし、足を払う。自分でも驚いている。
それは間違いなくリネットの盾術だった。
「私の動き……」
敬由は喜びに胸を膨らませた。
「これだ。これが俺の力だ!」
だが三人目の攻撃を受けた瞬間、左腕に激痛が走った。
「痛っ」
形は再現できても、敬由の筋力はリネットほどない。盾ごと弾かれ、壁へ叩きつけられる。
「調子に乗るな、敬由!」
ボルガの戦槌が敵を薙ぎ払った。
四人は崩れかけた脇道を見つけ、地上へ脱出した。追手が通路へ入ったところでボルガが支柱を砕き、道を塞ぐ。
陽光の下へ転がり出ると、百面鬼は敬由の顔から自然に外れた。
エリシアがその胸倉を掴む。
「二度と勝手な真似はしないでください!」
「でも、俺、戦えましたよ」
「腕を見なさい」
左腕は赤黒く腫れていた。骨に異常はなかったが、筋肉を傷めている。
リネットは喜ぶ敬由を、複雑な表情で見つめていた。




