「強くなる代わりに、失っているもの」
妻の顔が、思い出せない。
名前も。
声も。
確かに、
誰より大切だったはずなのに。
もう何一つ、
はっきりと思い出せなかった。
——代わりに、俺は強くなっていた。
剣を振るえば、迷いなく敵を斬れる。
初めて見る魔物ですら、
体は自然に動いた。
理由は分かっている。
この力の代償は、“記憶”だからだ。
強くなるたび、
何かを失っていく。
そして気づけば——
一番大切だったものから、
順番に消えていった。
三ヶ月前。
俺は、
終わりかけた人生を生きていた。
郵便局で課長代理を務め、
営業成績も悪くなかった。
周囲から見れば、
それなりに順調な人生だったと思う。
だが。
家に帰れば、
そこには冷え切った空気しかなかった。
「……帰った」
返事はない。
リビングの灯りだけが、
静かについたままだった。
同じ家にいるのに、
会話はほとんどない。
「おはよう」も、
「おやすみ」も。
いつから、
こんな風になったのか。
思い出そうとしても、
うまく思い出せなかった。
ただ。
少しずつ、
何かがズレていった。
気づいた時には、
戻し方が分からなくなっていた。
正直。
このまま終わるんだろうと思っていた。
そんなある日の夜。
俺は、
何も考えず眠りについた。
そして——
夢の中で、“神様”に会った。
「時間がない」
白い空間の中で、
男がそう言った。
「一年後、
異世界の災厄が地球へ流れ込む」
「世界の境界は、
すでに崩れ始めている」
あまりにも現実離れした話だった。
だが。
不思議と、
否定する気にはなれなかった。
男は静かに続ける。
「君には、
向こう側で生きる力を得てもらう」
「……俺が?」
「望む力を一つ与えよう」
何でもいい、と。
俺はしばらく黙っていた。
頭に浮かんだのは、
仕事で評価されている自分じゃなかった。
家の中で、
何も言えなかった自分だった。
向き合うことから逃げて、
気づけば、
全部壊れかけていた。
もし。
本当にやり直せるなら。
今度こそ——
「……間違えたくなかった」
神がわずかに目を細める。
「何をだ?」
俺は小さく息を吐いた。
「全部だ」
「仕事も。
生き方も。
大切な人との向き合い方も」
「気づいた時には、
何も戻せなくなってた」
胸の奥が、
少しだけ痛んだ。
そして。
気づけば、
口にしていた。
「今度こそ、
後悔しない選択ができる力が欲しい」
数秒の沈黙。
やがて。
神は静かに笑った。
「……いいだろう」
「ならばお前には、“創造”を与える」
その瞬間。
視界が、
白く弾けた。
——目を開けた時。
俺は、
知らない世界に立っていた。
そして。
その瞬間から——
俺は少しずつ、
大切なものを失い始めていた。




