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翌朝、オリアーヌはこの顛末をまったく誰にも告げなかった。
どうも、魔獣の夜襲に気づくのは自分だけらしい。
一方自分は、かなり熟睡していてもまちがいなく気配を汲み取ることができるようだ。よく分からないがおそらく、加護で食材の存在に気がつく能力の延長のようなものだろう。
自分一人で察知できて、撃退できる。だとしたらこれを広めてまた前回のような騒動にするのは、煩雑極まりない。自分たちの行動が制限される。何よりも狩りがしにくいし、ランベールが自由に遊べない。
魔獣がひと月以上の間を置いて再来した、理由は分からない。
もしかするとアヒイの記憶が鮮明なうちは近寄るのをためらっているが、そのうち忘れ去って人肉の匂いに誘われるということなのだろうか。
それにしてもとにかく、この程度の頻度の暗躍で今の生活の劣化が防げるなら、自分一人の胸に収めていてもいい気がしてしまうのだ。
「おお、いい太刀筋だ、坊ちゃん」
「頑張れ、ランベール!」
「うん!」
夕食準備の終わった厨房から庭に出ると、ランベールの木刀の打ち込みを庭師のイニャスがこれも木刀で受ける稽古をしているところだった。
偶然、師匠役からの賛辞が聞こえてきた。褒められたという日はよく弟が嬉しそうに報告してくるが、実はめったにないことらしい。
師匠のイニャスはいつもにこにこしているが、最近はその笑顔のまま延々と素振りを指示したり、ただ打ち込みを受けて何も評価しなかったりが多いという。
この剣の稽古は、自分の道楽でやっている。ランベールが望む限りは続けるが、いつでもやめるのは自由だ、とずっとオリアーヌにも告げていることだった。
だから今の賛辞も、主筋の男児に対するおべっかでもないし、ちょうど娘を見かけた理由でもないはずだ。
「いつもご苦労様、ありがとうね、イニャス」
「はは、少しは坊ちゃんも向上が見えて、やり甲斐が出たかというところですわ」
「少しかあ」
「はっきり言って、まだまだじゃな。じっとしている野兎なら倒せるかもしれんが、動いている動物には決して近づいちゃいかん」
「わあ」
頬を膨らませるランベールに、師匠が嘲笑をかけている。
もうすぐ六歳になるランベールは体幹もかなりしっかりしてきて、剣の振りも安定していると少し前に評価されていた。この年頃としてはまず十分なところだろう。
「嬢ちゃんの方はどうかな。その杖、使いにくくなったりしてないかい」
「大丈夫、ちょうどいいところ。私はさっぱり背も伸びていないみたい」
「十二歳じゃろ。まだ諦めるもんでもないぞ」
「そろそろ段々、期待もできなくなってきてるんじゃないかなあ」
こないだ比べたところ、ランベールの背が肩を越えていて衝撃を受けた。
つい少し前まで抱いて運んだり膝であやしたりしていたのに、と悲しく思ってしまう。
生意気にも最近の口癖は、「剣で強くなって姉様を守る」というばかりになっていた。
日頃のいろいろも、手伝うと言って聞かなくなっている。
厨房の下働きも手伝うと言い出したが、姉の手さばきを見て断念した。何しろたださぼる気ばかりでなく厨房の他の面々が手を出す気をなくしている、という以前からの現状なのだ。
ということで最近は、水運びや薪拾いなどでランベールが活躍することになっている。井戸から二階の住居まで水を運ぶのは確かに脚に障害のあるオリアーヌには困難で、ずっと少量に分けて行ってきたものだ。いつの間にか弟なら一度に倍量を運べることを知って、暗澹とした気になってしまった。
就寝時も二人で一つの寝具では狭くなり、寝台を二つ並べて休むようになっている。
「ん、姉様、手がどうかしたの?」
「ううん、何でもない」
稽古の汗を水で絞った布で拭いている弟の横で手を洗いながら考え込んでいると、不審げに問いかけられた。
笑って首を振り、忙しげに両掌を擦り合わせる。
別にあえて隠すほどのものでもないのだけど。自分の手を見るにつけ、情けない苦笑が浮かんでしまうのだ。
考えてみるともう四年、休まず毎日厨房の仕事を続けている。
手の荒れが目立つなど、当然の帰結だ。
もうしばらく前から、手の外観だけなら老婆と思われても仕方ない見てくれになっている。
下働きの女に教えられて油を塗り込んでみたこともあったのだが、たまたま肌に合わなかったらしく、痛みはないものの荒れの具合はさらに酷くなってしまった。
治療の方法など見つからないし、あったとしてもおそらくそれなりに費用のかかるものになるだろう。
痛みがない限り気にすることもない。貴族の娘としてますます嫁の貰い手がなくなるかどうか、という今さら悩むまでもない程度のことだ。
というわけで、自分の中で笑い飛ばしている。これも前世らしきぼんやり記憶のもたらす太々《ふてぶて》しさかもしれない。
「さあ早く、夕食の支度をしよう。今日は野兎肉のピリ辛ステーキだよ」
「わあ、僕あれ好き」
食事に野鼠や野兎の肉を惜しまず使えるようになって、かなり栄養面は豊かになっていた。だいたい肉料理と、ナガムギと野菜のスープという二品だが、何とか香辛料などで目先を変えて飽きがこないようにしている。
香辛料もそれほど種類はないのだが、これも不足を心配せずに使えるアヒイをごく少量振りかけることで、何とか変化をつけていた。ランベールがまだ幼児のため、本当にかすかな量に留めるのが調理の工夫だ。
あと季節によっては、森で獲れた果物を味つけに加えることもある。
貴族の端くれとしては何とも貧しい献立だが、本来のものを何も知らないランベールは、姉が作ったものならとにかく喜んで食べてくれるのだ。
向かい合って、旺盛な食欲を眺めながら。どうしても、思ってしまう。
「……一度は、王都の料理を食べさせてあげたいねえ」
「え、姉様何か言った?」
「ううん、何でもないよ」
「何だか姉様、独り言が多くなってない?」
「え、そう? 気をつけなくっちゃね。まるで何処かのお婆ちゃんみたいに思われる」
「こんな若くて綺麗なお婆ちゃん、いないよお」
「煽てたって、何も出ないよ」
「ええーー、本気で言ってるのに」
そんな評価、弟にできるはずもない。そもそも、本当の老婆を見たこともないはずだ。
生まれてから約六年というそれなりに長い年月、身近で目にしたのは姉以外で侍女と数名の使用人しかいない。
知識だけにしてもせいぜいが勉強で使っている書籍で、かすかに社会常識の一端に近いものを読んだかという程度だ。
それを考慮しても、できれば弟に広い世界を見せてやりたい、と思う。
狩った肉を売ることで得た収入は、それなりに貯まってきていた。そろそろ、子ども二人で何処か町に住んだとして、数ヶ月は生活できそうな額になっている。
この屋敷を出奔する策も、あるいはもう考えていいかもしれない。
しかしどうしても障害として立ちはだかるのは、移動方法の問題だ。
北の隣町までは、大人の足で一日あまり。南の町なら近くても三日以上。姉弟の足なら今でも、少なくともその倍以上はかかると見なければならない。
また街道の徒歩移動には、魔獣に遭遇する危険を伴う。現実的には、魔狩人のような護衛を雇う必要がある。
そうした護衛を頼むとすると、今の所持金で足りるかどうか。おそらく足りたとしても、その後の生活費の余裕はほとんど残らないだろう。
もうしばらくは今のまま、貯金を続けなければならないか。
その上金が足りたとしても、ここの子爵の目が届く領都で、実際護衛を見つけることができるか。立ちはだかる難問はまだまだ多い。
時間的余裕はどれだけあるか。
最も後ろまで引っ張って、ランベールが十五歳で成人する九年後には、子爵が継承されることが決まっている。現子爵がこの家を乗っ取る気なら、それ以前に自分の息子との入れ替えを果たすことになるだろう。
現実的に考えて、九年後ぎりぎりまで待つとは思えない。段階的にいろいろ手続きを進めて、それより余裕をもった以前にランベールの抹殺を考えると思う。
また、今から約三年後にはオリアーヌが成人を迎える。そうすると、オリアーヌの社会的に何かをする権利が増えてくる。それを子爵は許す気がないのではないか。
そうするとやはり、長めに見ても三年以内に、何か措置をとってくることが考えられそうだ。
またもう一つ、二年後にはランベールが、加護を賜ることになる。その内容によって、何か動きが生じるかもしれない。もしかすると、加護の儀以前にランベールとオーバンの入れ替えを果たす気かもしれない。
とすると、最短期限目標は二年後、ということになるか。




