#10
「兄さん……なの、本物の?」
私は目の前に立つ、兄さんにそっくりのその人物に声をかけた。気丈に振る舞ったつもりだったが、この喉を通り抜ける声はどうやっても掠れてしまう。一文字一文字を口に出すたび、何千年も昔に置きっぱなしにしてきた私の記憶も、感情も、途端に色を持って溢れ出していく。
「あの、兄さん、えっと、その」
口が追い付かない。聞きたいこと、話したいことは山のように積み重なっていくばかりだというのに。
「本物だとも。DNA検査でもするか、それとも舞夏の幼少期のエピソードでも話すかい?」
和服に身を纏った彼は、羽織っていた上着のフードを脱いで、その頭を顕わにする。私の記憶では黒髪であった彼の頭髪は、目を奪われるような鮮やかな銀色に染まっていた。
「いつの間に染めたの」
間の抜けた質問だ。この八千年の間のいつかに決まっている。
「はは、八千年ぶりに再会した兄に対して、二番目の質問がそれとは驚いたな。他にもいろいろあるだろ」
これは倫敦に行った時に染めたんだ、と兄さんは恥ずかし気に毛先をつまみ上げた。
「似合ってるだろ。さ、他に質問はあるかい?」
「あるとも、兄貴殿」
距離感を掴み損ねた会話を連ねる私と兄さんの間に、突然美龍が声を上げて割って入ってきた。彼はセキエンちゃんを乗せたままにずずいっと前に出て、私と兄さんの間に滑り込む。
「君は……ああ、君が例の人魚の霊だね。マイカがお世話になっているようで」
「こちらこそ」
美龍の口調はぶっきらぼうで、素っ気ない。
「本当はゆっくり話をしたいところなんだが、生憎俺はオマエを信用していないんだ。万が一マイカの兄貴がなんらかの理由で不死になっていて、今俺の目の前にいるオマエがそうなのだとしても、八千年も妹を放っておいたのはどういうことだ。今になってのこのこと姿を現したかと思えば、今度はビルの上から突き飛ばすときた。行動の意味が分からない。ハンカチ出した程度で信用できる訳が無いだろ」
彼はその言葉と視線に明確な敵意を宿らせ、静かに兄さんの反応を待っている。
「……ふむ。美龍君、だったね。君はお気楽な性格だと聞いていたが、実際はずっと慎重派のようだ」
「……俺の名前を誰から聞いた?」
「おっと失言ですね……。まあ今言わずとも、それは後々わかるでしょう。今公開しても混乱を招くだけだ」
「そうか、なら今追及するのはよしておこう……」
美龍は軽くため息をつくと、穏やかなにらみ合いから視線を逸らした。
「マイカは不死で、俺は既に死んでいるんでな。たいてい何が起こっても、気楽に構えたって特に問題はない。……だがマイカが死ぬなら話は別だ。最初は俺も軽く流していたが、こうも不可解な事象が立て続けに起これば態度を変えざるを得ない。俺だってのんびりこの街で暮らしていきたいのはやまやまだが、お気楽ってのは根拠のない楽観主義とは違う」
「……一理あるね」
「それになんだ、妹を突き飛ばしておいてオマエは謝罪の一つもないのか。マイカは不死身だからって痛覚が無いわけじゃないんだぞ。ヒトにしては丈夫な方だが、実際骨は折れてる。なぁマイカ」
「う、うん……」
胸の内に渦巻く相反する感情を未だ整理しきることができず、私は曖昧に頷いていた。何千年かの再会を祝するべきか、不審な点に警戒して距離を取るべきか、答えはまだ出ていないのだ。
「ああ、それに関してだが……」
兄さんはそこで美龍から視線をそらすと、私の目に視点を合わせる。その時私は初めて再会した兄さんの瞳をしっかりと見ることができたのだが、その奥をどれだけ見つめても、そこから感情を汲み取ることは出来なかった。私は、そういう類のことは得意だというのに。血縁関係であるはずの、一番近い存在であるはずの兄の目だというのに。
「……謝罪か、うん。当然だがするつもりはないよ」
優しく微笑んだまま、そして私から目を離さぬまま、驚くべきことに彼はそう言い放った。そして全く悪びれる様子もなく言葉を続ける。
「僕には僕の目的がある。舞夏の事情なんて大局からすれば些事に過ぎない」
「なッ……」
ゆっくりと、兄は視線を移す。
「ああ美龍君、些事だとも。大局のための仕事の一環だ。その対象が実の妹だったのはまったくの偶然だったが、私情を挟むわけにはいかない。結果としては全て上手くいっている。兄妹なのだから世間話はぜひともしたところだが、それとこれとは話が別だ」
「…………長生きしすぎて頭のネジでも失くしたか、オマエ?」
「いいえ、僕はいたって正気ですとも。ですが説明不足なことは認めましょう。最初から説明しろと言われれば、喜んでしますとも」
顔色一つ変えず、淡々と言葉を並べ立てる兄さんを前に、美龍は静かに、深く、ため息をついた。
「……はぁ。なぁマイカ、こんなんがオマエの兄貴だってよ。感動の再会もあったもんじゃねえよ」
サイアクだ、と彼は毒づく。
「マイカの昔話を聞いて、食事をこっそり持ってきたっていうお前の兄貴の話を聞いて、俺はヒトをちょっとは見直した筈だったんだぞ」
美龍は兄さんを見たが、彼は肩をすくめただけだった。
「……俺が馬鹿だった。とっととツリーに行くぞ、時間の無駄だ。まったくヒトってのは、昔はこんな機械的じゃなかったろうに」
そのまま私の腕を強引を引っ張ると、兄さんを追い越してずんずんと前に進もうとした美龍だった。だが私はその手を振りほどき、強引にでも立ち止まることにした。通り過ぎる兄さんの顔に、未だうっすらと笑みが浮かんだままであることに気付いたからだ。この人は何か、重大なこと隠している。たとえ美龍がこのまま自分を置いていったとしても、彼は必ず自分のもとに戻ってくると信じて疑わないような、その含みを持った笑み。
「ああ待ち給え、それは残念ながら無駄な努力だとも。なにせ正面玄関には、優秀な警備員がいるからね」
「ツリーにいるのは宗教団体だろう、入信希望と言えばいい」
「無理だ。クラフティアンには信者が存在しないのだよ、知らなかっただろうが。だからそのロジックは通用しない。万が一、君のその良く回る頭で玄関を通りぬけられたとしても、君たちの目的である上層行きエレベータに辿り着くためには、合計五段階のセキュリティチェックを突破する必要がある」
「ちょっと待って……どうしてそんな詳しいことを兄さんが……」
振り返った私に、わざとらしくウインクして見せた兄さんが、懐から一枚の磁気カードを取り出して見せた。それは光沢のある黒色のカードだったが、血のように赤いゴシック体で記された"Agent YAKUMO"の文字が、そのカードが所有者を無言のうちに語っている。
「そしてこれが、その全てのセキュリティを突破できるカードだ。どうだ、僕の話を聞く気になってくれたかい?」
美龍は苦々しげな表情を浮かべ、とうとう振り返った。そして彼の目も、黒いカードに向けられる。YAKUMO……八雲。それは間違いなく、私の兄の名前であった。
「良い判断だ。背中の《来訪者》を落とさないように気を付けてくれよ」
彼はそこではじめて、美龍の背中できょとんと首をかしげるセキエンちゃんの方を見た。
**
スカイツリーの入口が近づくにつれて、その異様さが次第に私たちに突き付けられていった。前々から小綺麗な印象を持っていた建物ではあったが、目につく限りガラスの一枚も割れていないし、そのどれもがピカピカに磨かれているのだ。なぜそれが異様かといえば、つい先ほどまで私たちは下層の通りを歩いてきたことが関係している。
「驚いたな……何千年か前に戻った気分だ」
背中で眠ってしまったセキエンちゃんを起こさないように若干の小声になりながらも、美龍は上を見上げて感嘆の声を漏らす。彼の言う通りだった。この塔は、かつて人類がもっと蠢いていた時代とほぼ変わらない姿を、見上げる私たちに堂々と見せつけていた。
今まで通りで目にする建物は、以前ほど使用されなくなった関係からか、老朽化が目立つものが多かった。それこそ上層であるならば、怪異や妖怪たちが居住している以上、清掃や修繕はこまめに行われる。私の仕事の何割かもそれの手伝いだったほどだ。居住者がいるから綺麗なままに保たれるのは自明の理。裏を返せば、居住者がいない空間はどんどんと古びていく。汚れていく。壊れていく。エントロピーは増大し続ける。
下層は本来そういう空間なのだ。社会の役割を得そこねた怪異の行きつく場所。働きアリの法則ではないが、下層は下層の中ですこしは役割を得る者もいる。とはいえその量は少なく、かつての文明の残滓をそのまま引き継げるほどの生産能力はない。増築と肥大を繰り返す上層とは違う。
だからこそここの異様さが際立つのだ。今や少し傾き始めた陽光を浴び、オレンジ色に染まったスカイツリーはどこを切り取っても美しい姿のまま。そしてそのことは同時に、この建物を常用する存在がいることを意味していた。
「上層から展望台への通路は封鎖されてるから、来るのは久々だろう。ひょっとして初めてかい?」
「いえ、開業したときに一度来たわ。あの頃から何も変わってないのね」
不死になって千年も経っていない頃のことだ。気分はまだまだ平安時代のままだったし、美龍も特に止めようとしないので、場違いな行動も結構やらかしていたのを思い出す。あの頃はいい意味でも多様性が叫ばれていた世の中だったから、隣人に深入りしようとする人間なんて滅多にいなかったのがせめてもの救いだった。
「ああ、そう言ってもらえると嬉しい。保存も僕たちの仕事だからね」
そう言うと、兄は入口まであと少しというところで立ち止まると、腕を横に伸ばして私たちを制止した。つられて下のタイルを見るが、特に目印らしいものはついていない。何の目的で立ち止まったのか判らなかった私は、きょろきょろと辺りを見回した。
整然とした入り口前の広場だったが、ただ一点を除いて、開業当時の面影を保っていた。落ち葉ひとつ、煙草の吸殻ひとつ落ちていない、清掃の行き届いた広場。
そしてその唯一の相違点とは、入口を遮るように不自然に配置された、巨大な大理石の石像のことだ。石像はヒトのカタチをなしており、その眼にはめ込まれた水晶とおぼしき球体が、あやしくオレンジの陽光を吸い込んでいる。遠目だが、その像は細部まで彫り込まれているのが判る。
今にも動き出しそうな雰囲気を、石像は醸し出している。
「ここから先は、カードが必要なんだ」
彼は一歩を踏み出す。すると突然、その石像は音を立てて動き出した。滑らかに動くその巨体は本物の生き物のよう。石でできた、巨人のよう。
「あの石像って……」
「ああ……いや信じられん。まさかそんな、どうして……」
兄さんの後ろを慎重についていく私と美龍は、石像と距離を詰めるたびに顔を見合わせることになった。最初に兄から警備員の存在を聞いた時、私たちはてっきり警備ロボかなにかが設置してあるのだと思っていた。もしなにか特別なものがあるとしても、塗壁かなにかが入口を塞いでいるのだろうと高をくくっていた。だが現実は全く違っていた。兄さんが何のためらいもなく進む先、スカイツリー正面入口に立ちはだかるその石像は、そんなものではなかったのだ。
「どうして、西洋の怪異がここにいるんだ」
石の巨人と兄さんの間の距離は、もう数メートルもない。やがて石像が跪くと、その額が開き、ディスプレイパネルが顕わになった。デジタルな「魂」の一文字が浮かび上がる。すると兄さんは一切の躊躇もなく、黒いカードキーをそのパネルにかざした。まるでそれが出勤前のルーティーンであるかのように。
「ゴーレム、追加で客人が三人だ。客人用の通行証の発行は不要。僕のキーカードで四人まとめて通れるようにしてくれ」
「認証、エージェント・ヤクモ、御客人三名様。ようこそクラフティアンへ」
石像は額のディスプレイを収納すると、ずずず、と音を立てて道を空けた。
「さァ、この日を待ち侘びていた。ようこそクラフティアンへ、舞夏」
自動ドアが通行を感知して開く。その奥から吹き込むクーラーの効いた風が、兄さんの羽織るコートの裾を、そして私の髪をすこしだけ揺らした。




