… Monday …
… Monday …
「……んー……わっ」
目覚めた途端に轟のどアップが視界を占領して、慌てて飛び起きた。薄暗闇に眼を凝らすと、子供みたいにあどけない顔をした轟が寝息を立てているのがわかった。どうしてわたしのベッドで一緒に寝てるんだろう。
「やっと起きてくれたんですか……」
その声に見回せばローテーブルに置いたパソコン画面の向こうから、何故だかすごーく不機嫌そうな千歳が覗いた。
「あれ? 二人とも泊まったの?」
枕元の目覚まし時計を引っ張り出すと、まだ朝五時だった。
「……ひろさんが轟を酔い潰して、泊まってけって無理矢理ベッドに寝かしつけたんじゃないですか」
「そうだっけ」
わたしはそこに潜り込んで眠っちゃったのかな。何だかよく覚えてない。
「なーんだ、なんか寝苦しいと思った。で、千歳は? 床で寝たの?」
いくら何でも、シングルに三人が川の字で寝られたとは思えない。すでに轟は、ベッドを押し付けてある壁に座礁した鯨みたいに半分乗り上げている状態だ。轟を寝かしつけたとはいえ、結局わたしがど真ん中で寝ていたらしい。
「こんな状況で寝れると思いますか」
どうでもいいけど、そんなに睨まないで欲しい。
「床がダメなら、自分の部屋に帰ってベッドで寝ればよかったのに」
「問題は床じゃないです。酔ってる轟とひろさんが仲良くベッドで寝てるような状況で、帰れると思いますか」
ただ飲み会で潰れただけだと思うんだけど、何をそんなに怒ってるんだろ。
(あ、轟の簿記がヤバいのに飲ませちゃったからか……)
「うえー。気持ちわるー……」
背後で轟が呻いた。手の甲を額に当てて天を仰いでいるその顔は、確かにあまり気分が良さそうな色ではない。
「轟、ごめんね。飲ませちゃったみたいで」
「うーん、酒っていうより……組み合わせが気持ち悪かったです……」
もぞもぞと起き上がりかけて轟は一旦停止し、それからばばっと辺りを見回した。
「ここ……ひろさんの部屋じゃないですかっ?」
その辺は覚えてないらしい。二人してそんなに酔っ払ってたんじゃ、そりゃ千歳は帰るに帰れないか。
「ってことはこれ、ひろさんのベッド……ですよねー……」
「まあ普通に考えたら、わたしの部屋に轟のベッドがあるわけないよね」
轟が一段と蒼い顔になって頭を抱えているのは何でだろう。
「あー、そっか。大丈夫、ちゃんと服着てたよ! あはは」
「そりゃそうですよ! そんなことになってたら今頃、僕生きてないと思いますけど……」
わたしが男を食って生きてる鬼婆であるかのような言い方はやめて欲しい。千歳まで腕組みしてしきりと頷いている。
「同意しないのっ! ……よし、迷惑かけたみたいだから、朝ごはん作ってあげる!」
明るく奉仕を宣言しているというのに、千歳も轟も黙って遠慮したそうな顔をした。
「……また、ビールに醤油入れて和風コーラとか言い出しませんよね?」
(へ?)
何のことかと思ったが、轟は本気で怯えているようだ。
「焼酎にヨーグルト入れたり」
千歳までげんなりした様子で言う。
「ラムを青汁で割ったり」
轟は思い出しただけで吐きそうな様子だ。
「……誰が?」
轟の指はきっぱりとわたしを差していたし、千歳には頭をはたかれた。
「わたし、そんなもの飲んだのー?」
酒というより組み合わせが気持ち悪いと言った轟の台詞がようやく理解できた。
「作ったひろさんは一口だけで、飲んだのはほとんど俺たちです」
「……飲まなきゃいいのに」
飲ませておいてなんて言い草だと自分で思ったけれど、そんなもん律儀に飲むバカがいるとは。
「飲まなきゃ脱ぐって迫り倒したのは誰ですか!」
穏やかでない事態に、眠気も吹っ飛ぶ。慌ててもう一度、服が乱れてないかチェックしてしまった。脱いだ形跡はない。
「あのね、それ……わたしじゃない」
ほっとしながら言うと、えらい早業でまたはたかれた。頭をかばって千歳から距離を取りながら、わたしは必死に訴えた。
「ほんとだもん! それ絶対、友紀だ」
「ユキって……」
昨日見習いについてしまった高校一年生だ。
「新しい見習い。なんか、いいとこの制服着てたなー。濃紺のブレザーの胸ポケットにこんな感じの綺麗な刺繍してあって、下はグレーで」
「ちょっと待って下さい……これじゃないですか?」
千歳はパソコン画面をずるずるとこっちに向けた。どうやら一晩中、ネットサーフで時間を潰していたらしい。手際よく検索をかけると、制服姿の女子高生の画像がずらりと表示された。有名私立校の制服が一覧できるサイトのようだ。
その画像群の中から、迷わず一枚を指差す千歳。友紀と同じジャケットを着た女の子の写真には、聖ウェズリー学院と書いてある。
「……やらしーなー、何で聞いただけですぐ当てちゃうわけ?」
年頃の男には常識です、ときっぱり答える千歳の横で轟は首を傾げている。轟にとっては常識じゃないらしい。
「お嬢様なんですね。そっか、轟に迫り倒したのはひろさんじゃなくてその子だったんだ」
気のせいか急にうきうきしだした千歳は、友紀にやけに興味を示しているようだ。
(下はグレーのプリーツスカートじゃなくて、ズボンだと知ったらどんな反応するんだろ……)
「そのお嬢様が、あんな酒を作っては飲ませてたって言うんですか?」
轟に指摘されてやっと、当初の問題点を思い出した。
「そうなの! わたしが酔っ払った隙に乗り移って遊んだんだな、あいつ……」
でも、迫ったというのは本気だったかもしれない。この二人のこと、やけに気に入ってたし。ベッドに潜り込む以上のことはしないでくれてて助かった。
「なんかね、ハル……ハルシオン? のせいで好みが変わったって言ってた気がする」
ビールを飲みながら改めて卵マヨネーズ唐辛子ご飯について説教していたら、だってーと言いながらそんな理由で言い訳していたのを思い出した。
「あー、ハルシオンのキレート作用ですね」
ふんふんと頷く轟の横で、今度は千歳がぽかんとしている。たぶん、わたしも似たような顔をしてると思うけど。
「睡眠導入剤ですよ。自律神経失調症やうつ病に処方されるんですけど、亜鉛の吸収を阻害する副作用があるんです。亜鉛が不足すると味覚障害になることは知ってますよね」
すらすらと答えている。少なくとも簿記より遥かにそういうことには詳しそうだ。感心していると、轟は照れ臭そうに首をすくめた。
「いえ、姉が医学生だった時テストで暗記したのを、答え合わせするのに付き合わされて覚えちゃっただけです。そんな余計なことに記憶細胞を使い切っちゃってるから、簿記が出来ないのかも……」
……微妙に違う気もするけど……黙っとこ。
「味覚障害か……そっか、だから普通の人にとっては美味しい組み合わせが美味しくなくて、自分的に美味しく思えるのを探してるのかも……」
突発性難聴でいい音収集癖のあるわたしとしては、なんだか他人事ではないような気がしてきた。事情を知ったためか、轟も千歳も急に静かになる。
「その子、うつ病なんですか」
心配そうに轟が聞いてくる。幽霊を怖がるくせに、もう死んじゃった子のうつを心配するなんて矛盾してるんじゃないだろうか。でも轟らしいと言えば轟らしいか。
それにしても、あんな能天気なうつ病がいたら嫌だ。
「そこまでじゃないみたい。ちょっと悩んでることがあって、お母さんのをこっそり失敬してたんだって」
その悩みについてはまだ聞き出してないけど、それが見習いさせられる原因なんじゃないかという気がする。
「だから、友紀を助けると思ってヘンなものでも食べてあげてよ」
轟がしみじみと頷く隣で、千歳は苦々しい顔で首を横に振っている。この二人は気が合うくせに、時々やけに正反対な反応を示す。
「だってその友紀って子は、ひろさんの舌を通じて味わうんでしょ。だから、ひろさんがヘンなもの一杯食えばいいんじゃないですか」
……すごく正論だけど認めたくない。ヨーグルト焼酎を思い浮かべて背筋に寒気が走った。
「そんなのイヤー!」
「俺たちに食えと言っといて、自分は逃げるんですかっ」
よっぽど昨夜のことを根に持っているらしい。
「じゃあさ、じゃあ、味覚障害の方をどうにかすればいいんじゃない? 轟、亜鉛の入ってる食べ物って何?」
「えーと、牡蠣」
轟の答えに、思わず呻いてしまう。
「そんな高価の見本みたいなもの、買えない……」
「日々の食事にも困ってるってのにね」
べしっ、と千歳の膝を叩いた。
「朝食ぐらいならあるもん! そうだ、わたし自身は味覚音痴じゃないんだから、友紀に乗り移られないように気を抜かなければいいんだ」
「轟、騙されるな。あれは経済的理由をごまかそうとしてるぞ」
はっきりと疑っている声を背に、食パンと卵くらいならあるはずだと冷蔵庫を開ける。そこには、千歳がカクテル用に持って来たらしいシロップやジュースが並んでいた。
「わたしアイスティー作る。千歳、トースト焼いてくれる? 轟はスクランブルエッグねー」
はい、と素直に腰を上げる轟の横で、千歳がぼそっと呟いた。
「……さっき、迷惑かけたから自分が朝ごはん作るって断言したのは、誰でしたか」
そんなこと言ったっけ。
「わー、きれいですね」
オレンジジュースにアイスティーを注いで、最後にグレナデンをグラスの底に滑り込ませる。琥珀、オレンジ、鮮紅の三層になったグラスを、轟は珍しそうに眺めた。
「でもごめんねー、ストローないから混ぜちゃう」
千歳のバー・スプーンでがしがしとステアする。
「あああ、もったいない」
残念そうな顔をする轟の前で、グラスの中は橙がかった優しいピンク一色になった。
「……ひろさん、信じられない」
一口飲んで、千歳が文句を言い出した。
「何よー、やっぱり味覚音痴って言う気……」
「こんな美味しいもの知ってるなら、何でもっと早く教えてくれないんですか!」
いや忘れてただけなんだけど。
どうやら味覚音痴疑惑は晴れたらしくて、わたしは安堵しながらトーストにかじりついた。
「これってめちゃめちゃカクテルに出来るじゃないですか! 今まで何で一言も……」
そういえばオレンジジュースとグレナデンって、テキーラ・サンライズに使うんだっけ。
「でもこれ、お酒じゃなくて紅茶なんだけど」
「紅茶のリキュールってあるんですよ。ティフィンって言うんですけど……それ使ってカクテルに出来るじゃないですか」
合コンに行ってもろくろくカクテルメニューなど見やしないわたしが、そんなお酒の存在を知るはずもない。
「だって……アルコールって確か、糖分が醗酵して出来るんでしょ。紅茶なんて、どうやったってお酒になれない体じゃない」
千歳はちょっと呆れ顔をした。
「リキュールってのは他の酒にエキスや甘味を足して作ってるんですよ。抹茶や桜なんかもあります」
そうか作り物だったのか……。それにしても抹茶って。
「わざわざそこまでして、お酒に仕立て上げる必要があるわけ? 無節操なっ」
「酒に節操求めてどうすんですか。大体、ひろさんの好きなアマレットだってリキュールですよ」
思わず手が力んで、スクランブルエッグが隠れるほどケチャップを絞ってしまった。
(そ、そういえばそうだったような気がする……)
「とっ……とにかく、わたし自身は味覚音痴じゃないってわかってくれたよね?」
何かまだ言い足りなさそうな千歳から無理矢理視線を外して、アイスティーを作った目的の達成を確認しておいた。
「友紀に一言、文句言ってやらなくちゃ」
そう言って仏壇の方を睨むと、二人は慌てて呼ばなくていいと騒ぎ出す。
「だって轟、心配してたじゃん。千歳も制服に興味津々だったくせに」
下はスカートじゃないけど。
「味覚音痴を食事中に呼ぶのだけはやめて下さいっ!」
あ、そうかと思った時にはすでに霊の気配がした。見上げると、そこにいたのは……天使でなくて般若だった。
『こりゃっ、シロ! 見習いに、しかもだな、未成年に酒を飲ますとは何事か!』
いきなり怒られる。
「飲ませてないもん。わたしが酔ってる間に、あの子が勝手に飲んだんだもーん」
本当のことを言ってみたが、案の定、絹さんは聞き入れる様子もない。
不穏な空気に絹さんの出現を察知したのか、轟と千歳は皿を手に部屋の隅へ移動を始めた。いつも何かと助けてくれる二人も、絹さんに関しては不干渉を貫いている。
……できればわたしも関わりたくないのは山々である。
『おまえには、監督する立場の自覚ってもんがないのか!』
その言葉、そっくりそのままお返ししたいんですけど。
「ない」
絹さんは仏壇に供えられた青汁を振り返って、苦々しい顔で舌打ちした。
『あの青臭い液体ばかり置くくせに、見習いには好きなものやりおって……』
……結局、羨ましかったのか。
「こしあん大福が食べたかったら、見習いはちゃんと自分で面倒見てよね。青汁だって安くなくて困るんだか……ら……」
絹さんがにやりと笑ったのを見て、自分の失言を知った。
『ほう。金が足りんか』
「そ、そんなことないもん」
昨日の晩御飯はカンパでしたなんて言ったら、当たりクジを餌に見習い監督を約束させられるのは目に見えている。
『まあ、見返りなしに見習い育てるってのは殊勝な心がけだな。おまえの母親はちゃあんと、こしあんを供えてくれとるしな』
最近見かけないと思ったら、実家でしっかり食っていやがったか。
(ってことは、青汁攻撃は効いてない上に見習いを押し付けられて、挙句に生活費援助を打ち切られてるって……わたしの丸損じゃないか……?)
「あのー、絹さん……」
『あいつは当分、謹慎じゃ。おまえもまずいもん食わされる身になって反省しろ!』
まずいもん食わされる身というのが、友紀の味覚音痴だと気付く。
「ひょっとして友紀を連れて来たのは、青汁の仕返しってわけ? 卑怯じゃないの、あれはもともと陣の時の抗議で……待って絹さん、待……逃げるかこの若作りーっ!!」
さっさと踵を返して消えていく後姿に怒鳴ると、仏壇の青汁のコップががちゃんと倒れた。
「あっ、しかもひっくり返していくなんて、この、この……こうしてやる!」
位牌を掴んでベランダに出ようとすると、すっ飛んで来た千歳に止められた。
「そんなもん捨てたら、マジでばちが当たりますよっ!」
「これ以上、どんなばちが当たるってのよ!」
「ひろさん、ええと、とにかくここを片付けましょう!」
轟は仏壇にぶちまけられた青汁を、鼻を背けながら拭こうとしている。
「あんたたち、絹さんの味方するの? わたしが友紀押し付けられて困ってるのに、絹さんの肩持つなんて、ひ、ひど……」
行き場を失った怒りと悔しさが、涙になってどっと溢れてきそうになった。涙声で訴えると、わたしから位牌を取り上げて仏壇に戻していた千歳が困ったように笑った。
「行きましょうか、聖ウェズリー」
「え?」
「そうですよ、早く終わらせて、そしたらまた簿記教えて下さいね、ひろさん」
轟は泣くのも忘れるような優しい笑顔で言った……が、手に持った青汁まみれのティッシュに顔をしかめる。
「その方が、色んな意味で俺たちのためみたいですし」
……それは簿記だけじゃなくて、わたしが暴れるとか、脱ぐと脅迫しながらおかしな味のものを飲ませるとかいうことを指してるんだろうか。ついでにゲイ少年のターゲットになることも含まれてるけど、それは伏せておいた方が避けられずに協力してもらえそうな気がする。
千歳の言葉に、轟は激しく頷いて同意していた。
「僕、またひろさんに潰されて同じベッドで寝ちゃったりしたら、次こそただじゃ済まされない気がする……」
だから、その鬼婆みたいな言い方しないでってば。
わかってんなら二度とすんなよ、と言う千歳を睨んだら、何故か呆れたような顔をされた。
月曜日の混雑した道路を迷いながらやってきたにもかかわらず、聖ウェズリー学院には一時間程度で到着した。
まだ午前の授業中のようで、友紀の制服の刺繍と同じ校章の飾られた堂々たる鉄門はがっちりと閉まっていた。その向こうには門衛のいる詰め所がある。部外者が下手に近付いてあれこれ聞いたりしたら、追い払われそうだ。
(どうしようかな……)
友紀に聞けば住所なんてすぐにわかるのに、絹さんの言う通り謹慎させられているらしく、いくら呼び出しても返事もない。ここで聞き出さないと、友紀の家も悩みもわからないのだ。
様子を見ながら煉瓦色の塀に沿ってぶらぶらと裏手に回ると、正門と同じくしっかり閉まった裏門があった。が、こっちには防犯カメラらしきものが一台あるだけで、門衛の姿はない。カメラに顔が映らない向きでさりげなく近付いてみると、そこは体育館脇のようだった。バスケの授業でもあるのか、ボールの弾む力強い音が聞こえている。
「……ていいと思ってんのか、こら」
何か険悪な声がした気がして、わたしは右耳を澄ませた。体育館裏にぽつぽつと植えられている木々の間に、紺色のブレザーの背中がいくつか見えている。肩越しに紫煙が立ち昇っているのがわかった。
「生意気なんだよ、一年のくせにこんなとこでたむろしやがって」
「ここはてめえらが来る場所じゃねえんだよ」
どうやらサボって煙草を吸っていた学生が、これまたサボっていた下級生をいびっているらしい。こんな金持ち学校でもちゃんと不良というのはいるもんなんだな、と変なところに感心しながら様子を窺う。
「なんだあ、その目は」
鈍い音が聞こえた。平手でも食らわせたか。
「やる気か? こっちは五人いるんだぜ。二人で勝てるとでも思ってんのかよ」
(数で威張るな、腕っ節で勝負したらどうなんだ)
腹が立って、門に顔を押し付けて精一杯でかい声を出した。
「ちょっとあんたたち!」
怒鳴ると、いびり側らしき数人の学生が慌てて煙草を投げ捨てながら、ぎょっとした顔で振り返った。
「今すぐ喧嘩をやめないと、先生呼ぶわよ!」
やべえ、と言いながら学生たちは奥の方へと駆け出した。わたしが門扉の中にも入れないでいるこの状態で、どうやって先生を呼べると思っているのか。そんなに急いで逃げることでもないのに、小心者ほど強がるということだな。
「待ちなさい、そこの一年坊主!」
おろおろしてから上級生と違う方向へ逃げようとした二人を呼び止める。
「待たないと、その煙草を吸ってたのはあんたたちだって言いつけてやるから! 顔、ばっちり見てんのよ!」
一年生二人はしばらく迷って小声で話し合った後、しぶしぶこちらへ近付いて来た。
「大丈夫、ひとつ教えてくれたらサボってたこと言わないから」
「……何だよ」
痛んだような茶髪と吊り気味な目をしたまだ華奢な少年は、いかにも不本意そうに答えた。その半歩後ろで、痩せぎすのにきび満開な少年がおどおどと神経質に辺りを見回している。
「あんたたちと同じ一年生で、友紀って子がいたでしょ。死んじゃった子」
友紀という名前を聞いても眉をしかめたままだった吊り目少年は、死んだというところで思い当たったようだった。
「実は知り合いだったの。お墓参りに行きたいから、家を教えて欲しいんだけど」
「知るかよ、同じクラスでもねえし……」
「調べて来いっつってんのよ。出来ないんなら、あんたが生活指導と停学を食らうだけの話だけどね」
きっちり睨むと、吊り目少年も睨み返してきた。でも何も言わないところを見ると、自分が不利なのはわかっているようだ。
「お、俺、学年名簿持って来る」
後ろのにきび少年は突っ張るより保身が大事なようで、そう言うとダッシュで走って行った。吊り目少年の方は、その後姿を忌々しげに見送っている。
「……ねえ、学校ではあの子が死んじゃったこと、何て説明があったわけ?」
「別に。朝の礼拝の時に院長先生から死んだって聞かされて、それだけ」
グレているつもりでも院長先生とか言うあたり、育ちの良さが抜け切っていない感じだ。
「死因については?」
「噂じゃ、自殺か事故で落っこちたのかわかんねえってさ」
あの能天気が自殺するとは思えないけど、精神安定剤を欲してたという不安定な要素があるだけに何とも言えない。
「自殺を疑われる原因って? いじめか何か?」
「知るかよ。そいつ、内部じゃねえし」
内部って何、と聞くと内部生だと言われた。聖ウェズリー学院には中等部もあって、そこからエスカレーター式に高等部に上がってきた生徒達を内部生、略して内部と呼ぶらしい。つまり友紀は高等部を受験して入学してきたのであって、中等部からのいじめのしがらみを引きずっていたなどという可能性はないようだ。
「友紀のこと知らないのに内部生じゃないってわかってるってことは、あんたは内部生なのね」
「……だったら何だよ」
嫌な予感がしているのか、吊り目少年は眼の端をますます険しくする。
「友紀のクラスに、同じ内部の知り合いが何人もいるってことでしょ。自殺の原因とか悩みがあったのか、クラスメイトに探り入れてきてよ」
「ざけんな! 何で俺が、んなことしなきゃならねえんだよ!」
少年は門から下がって、威嚇するように怒鳴った。でも高校一年生、しかも不良のフリをしてるお坊ちゃんじゃちっとも怖くない。絹さんと陣で慣れてしまったのかと思うと、それはそれで虚しいが。
「あんた、内部生なんでしょー。おうちってよっぽど金持ちか名家か、どっちにしろ体面の大事な家なんじゃないの? ちょっと聞き込みする手間と、停学食らって反省文書かされて親に怒られて家の恥だとか泣かれたりわめかれたりする面倒と、どっちがマシだと思うわけ」
「…………」
親の仇でも見るような眼で睨まれた。
「お昼休みにでも聞いておいてよ。わたしの携帯、この番号ね。今日中に連絡なかったらどうなるか、わかるよね」
学生手帳からちぎらせた紙にナンバーを書いて渡すと、少年はひったくるように受け取った。そこへにきび少年が戻ってきたので、有難く名簿を頂戴する。金持ち学校だけあって、アルバムと呼んでもいいような写真入りの立派なものだった。
「ひとつ教えろとか言ったくせに、何でこんなことまで……」
少年たちは何やら文句を垂れながら、校舎へと引き上げて行った。
「……ひろさん」
裏門の脇で一部始終を聞いていた轟と千歳が、同情の眼差しで少年たちの背中を見送っている。
「あいつら多分、先輩にボコボコにされた方が良かったと思ってますよ」
哀しいことに自分が絹さんのひ孫だというのが、何となく納得できるような気がしてきた……。
名簿でわかった友紀の家へと向かう途中で弁当屋に寄っていると、携帯が震え出した。左耳が難聴でほとんど聞こえないから、着信音や着メロにしていると気付くまでに時間がかかったりする。周囲に迷惑をかけるといけないので、携帯は常にサイレントモードにしてあった。
右耳で出てみるとかけてきたのは吊り目少年で、結局友紀の自殺の原因になるようなことは誰も知らないらしいと報告してきた。友紀が死んだのは入学式の一週間後だったから、何か悩みがあったとしても打ち明けるような友達関係も確立されていなかったようだ。
(ってことは、本当に転落死だったか……学校以外の場所に自殺の原因があったか)
「ご苦労さまー。楽しいスクールライフをねっ」
『チクるって脅してコキ使ったてめえが言う台詞じゃねえ』
もっともな捨て台詞を残して、電話は切れた。今頃、わたしの携帯番号を書いたメモを踏みにじってるんだろう。念のため少年の番号をアドレスブックに移していると、千歳が弁当屋の袋を抱えて戻ってきた。
「俺のおごり。轟は運転してくれてるし、ひろさんは一度バイト先でおごらせてくれたら帳消しにします」
おごらせてくれたらおごるなんて、おかしな話だけど……お金ないって言ってたから気を遣ってくれたんだろうか。
車中で簡素なお昼を済ませて向かった友紀の家、三島家は家というより屋敷と呼びたくなるような洋館だった。綺麗に刈り込まれた生垣が途切れると、白い鉄門と洋館へ続く煉瓦敷きの小道が見えた。
どうしてわたしの見習いは金持ち坊ちゃんばかりなんだろう。
「こいつ、わたしのごはんより高い餌もらってそう」
門扉の向こうではしゃいでいるゴールデンレトリーバーの毛艶に比べたら、あの吊り目少年の茶髪は野良犬並みだ。
「たぶんこの子自身、もう一台余裕でアコード買えるくらいの値段してますよ」
わたしの呟きのみじめさに気付いていない轟は、柵の間からレトリーバーを撫で回しながらにこにこしている。
「轟、知ってる? 犬ってね、赤が一番うまいんだって……」
「うまいって? 芸がですか?」
きょとんとしている轟の横で、千歳が首を振っている。
「今のひろさんは四本足なら机でも食いそうだ。早いところ通過しないと、高級犬が鍋になる」
そう言いながら千歳がインターフォンを押そうとした時、小道の向こうの玄関ポーチに人影が出てきた。咄嗟に生垣の陰に隠れ、呑気に犬と遊んでいた轟もそこに引きずり込む。
「……んだ、あのザマは!」
「だって奥さんにあんな質問攻めにされたら、ボロも出ますよ! 三島さんに教えてもらってないことまで」
こっそり覗くと安っぽい紫シャツの脂っこいオヤジと、そいつに三島さんと呼ばれたどうやら友紀の父親らしい眼鏡オヤジが言い争いながら歩いて来た。
「うるさい! 昭子をごまかせなかったんだ、謝礼はやらんぞ!」
「そんな三島さん、それはないですよ」
何だか話が怪しい。わたしたちは生垣から急いで離れて、通行人の振りをした。
「全くケチな人だな、金があるなら本物の霊能者でも連れて来ればいいじゃないか」
「わたしはそんなもの信じていない! 出て行け!」
……何だか、とっても美味しそうな話を聞いてしまった気がする。
察するに、昭子さんというのは友紀の母親で、友紀の霊と話をしたいとか何とか言って霊能者を呼んだのだろう。そこで霊魂を信じていない父親が紫シャツと口裏を合わせてあしらおうとしたが、失敗したから謝礼はやれないと突っぱねたというところか。
あのケチが、とぶつぶつ文句を言いながら、紫シャツの小太りな背中が角を曲がって消えて行った。三島さんとやらも一人で悪態をつきながら玄関のドアを閉めたようだ。
わたしは門へ戻ろうとする轟と千歳を引き止めた。
「えっとね、二人とも車で待っててくれていいよ……」
「あんな怖そうな父親のところに、一人で行くんですか? 危ないから僕たちも行きますよ」
轟は話の内容より、三島氏の噛み付きそうな勢いしか耳に入っていなかったらしい。本気で心配そうな轟にもわたしにも呆れ顔を向けながら、千歳は腕組みをした。
「ひろさん、金に困ってるのはわかりますけどね……」
謝礼とやらを狙っていると、千歳にはやっぱりバレているみたいだ。わたしは左耳が聞こえない分、右耳は過敏なほどによく聞こえる。二人には三島氏の言葉は聞きとれまいと思っていたら、千歳はあいにく地獄耳だったらしい。
「何よ。別に詐欺じゃないじゃん、わたしには本当に見えてるんだもん」
とはいえ、友紀は謹慎中で出て来れないけど。
「見習いなんて迷惑だなんて言いつつ、結局人助けしてるんだと思ってたのに」
動機が不純だと言いたいのか。
「あのね、貞操が惜しかったら行かせてよ」
「ひろさんの? 実際、飲まなきゃ脱ぐって言って、ほんとに脱ぎそうではありましたけど……」
(そうだったのか……友紀め)
でもわたしが言っているのは自分のじゃなくて、男二人の男に対する貞操だったりする。ここらで明かして、その隙にまいてやることにした。 しゃがみこんだまま門扉越しに犬に顔を舐めまわされている轟をまたいで、インターフォンを押す。
「すみませーん、ちょっと息子さんのことでお話をさせて頂きたいんですが」
応答したおばさんは昭子と呼ばれた母親なのだろう、友紀に似たその声は少し苛立っているように聞こえた。
「……息子……?」
轟と千歳は二、三度瞬きをしながらお互いの顔を見合わせている。
わたしはその間に、お入り下さいと言われて遠慮なく門の中へ滑り込んだ。二人はその場に茫然としたまま、思惑通りついてくるのを忘れているようだ。
「騙してないよ。女の子だなんて、一言も言った覚えないもんね」
男の子だと言った覚えもないけれど。
やがて猛烈に文句をわめき出した二人の声を、重い木製の玄関ドアでシャットアウトした。
「三島昭子と申します。ごめんなさいね、今、お客様がいらしてて……ちょっとお待ち頂いてしまうかもしれません」
玄関で出迎えてくれた線の細い女性は、友紀と同じ栗色のくりくり髪をしていた。何だか今にも倒れそうに顔色が悪い。精神安定剤を飲んでいたというのが頷けるような弱々しさだ。
名乗りながら玄関の正面のステンドグラスがはめ込まれたドアをくぐると、先客らしきおばさんが振り返っていきなり言った。
「奥様、息子さんがいらしてます」
二階部分まで吹き抜けた広いリビングにはまったりといい茶色のレザーソファがどどんと置かれ、その中央にやたらと血色のいいおばさんが陣取っていた。
「息子さんもあなたのそばにいたいと、そうおっしゃってます」
高慢そうな眉に濃い化粧、いかにも霊媒師らしい変わった雰囲気を醸し出しているつもりだろうが、わたしにしてみれば田舎の成金ババアみたいだ。丸い肩にラメラメなストールを巻き、ぶどう色のグラデが入った大きな……言わせてもらえれば悪趣味な眼鏡をかけたそのおばさんが重々しく述べて頷くと、グラスコードがびかびか光った。
どうやら、三島氏が呼んだ霊能者は紫シャツだけじゃなかったらしい。それにしても怪しいやつって、どうしてこう光もんや紫が好きなんだろうか。
「まあ、本当ですか?」
昭子夫人は途端に、わたしのことなど忘れたようだ。ラメおばさんの隣に急いで腰掛け、拝み倒しそうな眼で詰め寄っている。そんな昭子夫人をなだめるように、ラメおばさんはその細い肩をさすってやっている。存在感と横柄さで言えば、ラメおばさんの方がよっぽどこの家の住人みたいだった。
「あの、それで息子は今どこに……」
「……失礼だが、君は?」
ラメに気を取られていて、奥の窓際に三島氏がいたことに気付かなかった。頑固で神経質なのが一目でわかるような、硬く痩せた顔だ。味も素っ気もない古臭い四角い眼鏡がまた、こっちの気分を憂鬱にさせる。昭子夫人たちに聞こえないようにしているのか、低い声が聞き取りにくくて仕方なかった。
自己紹介をしていると、背後で少し興奮したようなラメおばさんの声がした。
「ほら、あなたの隣に! あなたの手を握ろうとしています」
その台詞で、ラメおばさんを一瞥した瞬間からのむかつきがいきなり沸騰した。
「いい加減なことを言って、人の心をもてあそぶような真似はやめたらどうなんですか。恥ずかしくないんですか」
振り返って言ってやる。しかし相手は怯まなかった。何ですかあなた、と逆に胡散臭そうにじろじろと眺め回された。こいつに話をしても無駄だろうと、わたしは面食らって眼を丸くしている昭子夫人に向き直った。
「息子さんはここにはいません。呼んだって出てきません」
わたしが飲酒させたせいで謹慎中だとは、さすがに言えない。
「昭子さん、あなたが本当に友紀くんに会いたいなら……」
「今、なんて?」
昭子夫人は弾かれたように立ち上がり、そのせいで立ちくらみでも起こしたらしい。ふらりとまたソファに沈むのを、慌てて支えに走った。
「ですから友紀くんに会いたかったら……」
「あなたは、知ってるのね。あなたは本当にあの子に会っているのね」
……あの短い台詞のどこが、昭子夫人にそう信じさせたのかわからない。でもこっちがおののくほどに覗き込まれ、すがりつかれて思わず手を取り合ってしまった。
(会ってるも何も、ヤツは今わたしの守護霊見習いなんですけど……)
「奥様? 奥様っ?」
肩を揺すろうとするラメおばさんの手を汚らわしそうに払ってから、昭子夫人は涙目で言った。
「あの子の名前は、トモノリなんです。でも近頃、同じ漢字で読みをユキに改名したいって言い出して、一人で家庭裁判所にまで行って……それを知ってるのは、わたしだけのはずなのに。あの子が男の子だって知ってたら、普通はトモノリくんって言うはずなのに」
そういえば、男と知っててわざわざユキくんと読むやつはいないだろうな。せいぜいユウキだ。
改名が認められる事例はいくつかあるが、その中に「異性と紛らわしい場合」というのがある。それに逆行しているとのことで、結局、家裁からはあっけなく追い返されてきたらしい。
友紀は、生前には名乗ることの出来なかったユキという読み方を、霊界で果たしたのだろう。
ラメおばさんは、渋い顔の三島氏に押し返されるように出て行った。また謝礼はやらんとかケチなことを言われてるんだろう。
「で、昭子さん。友紀くんに何か聞きたいことでも……?」
戻ってきた三島氏は、わたしに鋭い視線を向けてきた。呼んでもいないのに霊能者としてやって来たことに対して、疑問を抱いているのだろう。昭子夫人の方はわたしも三島氏が呼んだと思ったのか、何も疑っている様子もなくわたしの手を握り続けている。
「ずっとここにいるように言って下さい。ここがあなたのおうちで、あなたの居場所だから、ずっとここにいるようにって」