… Sunday pm …
… Sunday pm …
わたしと少し似てるリョウ。霊道の話を聞いて、豪快に笑ってたリョウ。リョウの眼には、世の中は面白くて仕方ないおもちゃ箱か何かみたいに映ってるんだと思ってた。
でもリョウは、彼氏である自分の顔を見分けられなくなってしまった彼女をずっと想ってる。その彼女をもっと早く助けられなかったことを悔いて、鍵屋になったりして。
ただ自分勝手で横柄で、やりたいようにやってるだけだと思い込んでた。めんどくさくてダルいことは、即座に足蹴にして放り出す人だと……
「ひろさん、もうすぐ着きますよー」
遠慮がちに声を掛けられて我に返る。
アコードは理沙さんの実体がいるリハビリセンターに向かっていた。昨夜は理沙さんの生霊と話している間に眠ってしまったらしい。眼を覚ますと轟はとっくに起きて布団を畳んでいた。またしてもスーパーと健康ランドの世話になり、理沙さんの実体に会いに行くことで話がまとまった。
「多重人格障害の場合、別人格が活動しているあいだは、主人格は何が起きているか知らないんです。例えば虐待された人なら、つらい経験を処理できずにそれを請け負わせるための別人格を生み出すんだから、知らないのが当然ですよね。もし理沙さんが同じような感じで、酷な体験を別人格でなく生霊に背負わせたんだとしたら……」
「実体の理沙さんは、性犯罪の被害に遭ったことを知らない可能性があるのね」
リョウのことは頭から追い払って、轟の意見に集中した。車は狸が道路に飛び出してきそうな、緑豊かな丘陵地帯を抜けていく。市が林を切り拓いて医療施設やビジネスセンターを誘致したんだろう。整備された道路の両脇には広い敷地が開け、芝生や花壇の向こうに伸びやかに横たわる近代的な建物群が見え隠れした。
「はい。それで、治療としては主人格と別人格を交流させて、主人格が過去の経験に向き合うことで別人格を解放させるのが主流だって話しましたよね。それは理沙さんの場合、生霊を実体に戻すことだと思うんですけど、そうなると……」
「……理沙さんの実体が、事件を思い出して向き合わなきゃいけなくなるわけね」
「そうなんですよね……」
理沙さんの実体は、それを望むだろうか。それに耐えられるだろうか。確かめないうちに、生霊に実体へ戻れと説得するわけにはいかない。
リハビリセンターは最近の総合病院によくある感じの、機能的でいて威圧感のない建物で、豊かな木々ときっちり手入れされた植え込みを従えていた。パーキングチケットで管理された駐車場にアコードを停め、本館らしきクリーム色の建物へ入ってみる。
吹き抜けのロビーには陽がやわやわと射し込み、床は土足で歩いていいのかと思うくらいぴかぴかだ。総合受付のお姉さんというのは企業の経営のバロメーターだと密かに思っているのだが、ばっちり美人である。儲かってるに違いない。
「ここは高次脳機能障害専門のリハビリセンターみたいですね」
その美人のお姉さんにもらったらしい案内パンフに顔を突っ込みながら、轟が報告してきた。だから専門用語言われても分からないってば。
「脳挫傷とか脳梗塞とか、それこそ理沙さんみたいに一酸化炭素中毒の後遺症として高次脳機能障害になった人専門の施設だそうです。脳の病気なんかで起きる、判断や記憶の障害を認知症って言って、アルツハイマーも認知症です。でも、ここは老人性の痴呆は扱ってなくて、あくまでも後遺症として認知症になった人専門みたいですよ。全国でも少ないと思います」
怪我や病気の後遺症で脳に障害が残った人専門のリハビリセンター、ということらしい。うーん頼もしいぞ、轟。
「あのさあ、轟……今からでも医学生になれば?」
轟の二人のお姉さんも医療関係者らしいが、おまえは経営を学んで来いと言われて経営学部に来たらしい。でも経営者より医者になる方が、轟にとっては自然で近道で向いている気がする。
とほほ、という擬態語はまさにこういう時のためにあるんだなと納得してしまうような弱りきった困り顔をして、轟は肩を落とした。
「僕もそのつもりだったんですけど、受験準備中に急に医者はもういいって言われちゃって。だから浪人しちゃったんですよー。卒業したらオランダにMBA留学しろとまで言われてるし……」
びっくりしているわたしに、オランダは病院経営学の進んだ国なのだと轟は説明した。だから第二外語に蘭語を履修しているのか。
「卒業したらいなくなっちゃうの? そんなの困る! うえーん、わたしが男だったら轟をお嫁さんにするのに!」
「すいません、でも二年で帰ってきますから……っていうか僕、男なんですけど……」
そうだった。
病院棟に進んで、理沙さんの病室を訊いてみる。
「二一五の個室ですね」
入院案内の、消費者金融の広告並みに爽やかな笑顔のお姉さんに教わって二階へ上がった。エレベーターのGは頭がフラフラするので苦手だが、このエレベーターには取り扱い注意のシールでも貼ってあるらしい。実にスムーズに停止してドアが開く。
柔らかなグリーン系で統一されたナースステーションで、薄ピンクの制服の看護婦さんたちが立ち働いている。忙しいのだろうけどギスギスした感じはなくて、表情にも余裕がある。そんなところから、施設だけでなくて働く者、ひいては患者にとってもいい病院なんだろうなと分かる。
「こんなとこに入院してるなんて……すっごい高そう。しかも個室って言ってなかった? 差額ベッド料いくらだろ」
何かにつけお金のことを考える自分がセコい。が、思わず呟かずにはいられないくらいどこもかしこも新しく整って、お金のかかっていそうな施設だった。
(理沙さんはあの古くて安そうな部屋に住んでたくらいだから、お金持ちとは考えにくいし……もしかしてここの入院代や医療費を出してるのもリョウ?)
だから盗聴屋を兼業したり、鍵屋としてもおじいちゃんの時みたいな怪しい仕事を請け負って、お金を稼いでるのかもしれない。脳裏に浮かぶリョウの悪そうな笑顔が痛々しかった。
(そんな事情があるようには全然見えないくらい、いつも笑ってたのに)
「面会ですか?」
カウンター越しに、二十代後半くらいのショートカットの看護婦さんがきりっとした笑顔で訊いてきた。高校あたりでソフトボール部かバレーボール部に入ってたに違いないと思わせる、体育会系の明るさだ。
「はい、高木理沙さんに……」
名前を口にした瞬間、看護婦さんは驚いたように強い眉を上げた。初めてだわと呟くのが、左は聞こえないわたしの耳にも届いた。理沙さんへの見舞い客第一号らしい。
(そうか、事件後はリョウさえ怖がるようになったんだっけ。だからリョウも理沙さんの知り合いも、お見舞いに来るのを遠慮してるのかも……第一ここ、遠いしなー)
「高木さんのお知り合い?」
「んーと、知り合いの知り合いで、直接会ったことはないです」
生霊には会ってるけど言えるもんか。言ったら実体の理沙さんに会う前に、病院内の違う場所に連行されそうな気がする。
何故か看護婦さんは腕を組んで考え込んでしまっている。困った様子で轟を見て、そして次に上から下までわたしを眺め回した。
「僕はここで待ってます。ほら、多分男はいない方が」
通すのをためらっている気配を察して、轟はナースステーションの隣の休憩スペースへ後退した。
「あのー、女ですけどダメですか? 怖がられちゃいます?」
千歳には散々女の子らしくないと説教されたが、見た目で男に間違われたことはない。轟が面会を辞退して、それでも表情が曇ったままの看護婦さんに、念のため女だと主張してみた。
「あなたジーパンですしねえ……。高木さんは看護士や男性スタッフも苦手で、看護婦でないと……」
「そんな」
会えないと困る。女性相手にも泣き落としは通じるだろうか、と懸念しつつ涙声を作ってみた。
「遠くに住んでるからなかなか会いに来られなかったけど、やっと来れたのに。これ、理沙さんに治って欲しくて、一生懸命彫ったのに……」
使えるものは何でも使ってやれ。理沙さんのお隣さん、バーコードおじさんに託された木像をごそごそ紙袋から取り出す。でも頼むから何を彫ったのかとは聞かないで欲しい、分からないんだから。
「直接手渡したいんです。会えませんか」
あまり目に触れないように木像を抱きしめつつ、声を詰まらせるフリをする。看護婦さんは慌てて組んでいた腕を解いた。
「そうよね、うんうん。会いたいよね」
体育会系の人は情にもろいのである。確信犯ですみません。
急に看護婦さんは、そうだ、と明るい声を出した。
「あなた、わたしとそんなにサイズ違わなそう。わたしの制服、貸してあげる! この制服なら高木さん、警戒しないから」
「えええっ?」
スカートなんていつからはいてないのか、思い出せない。しかも薄ピンク。しかもナース服。
(勘弁して、柄じゃないよ……)
理沙さんに会うためとはいえ、ゲンナリしながらロッカールームへついて行った。制服を手渡してくれたショートカットの看護婦さんは自分の名案にご機嫌なのか、長時間ナースステーションを空けられないのか、終わったら寄ってねとだけ笑顔で言い残して戻って行ってしまった。
ペールブルーの扉が並ぶロッカーのあいだにぽつんと取り残される。化粧品や制汗剤の入り混じった匂いがするロッカールームはシフトの谷間なのか、他には誰もいない。畳んでベンチに置いた制服を見下ろし、しばらく抵抗と戦う。
そこへパンツタイプの制服の、掃除スタッフらしき人が入ってきた。掃除用具を抱え、サンバイザーなんて懐かしいものを装着している。落ちているごみを捜索するように下向き加減だから顔は見えないけど、長くて金に近い茶髪からすると若い女性だ。
掃除おばさんというより掃除ヤンキーさんはわたしに痩せた背を向けてロッカーの扉を拭きつつ、ちらちらこっちを窺っているようだ。人が増えると、見慣れぬ顔だと不審がられるかもしれない。意を決して着替えることにした。
(ナースの制服に素足でミュールって……あ、しかもラメなペディキュアしちゃってるし)
余計に理沙さんに不審がられそうな気もするが、とにかく着替えてナースステーションに寄った。足やお尻がスカスカして落ち着かないったらありゃしない。休憩スペースでお茶を飲んでいた轟が、カップを取り落としそうな勢いでぽかんと口を開けている。見るな、と手で視線を追い払った。
「あら、似合う似合う」
制服を貸してくれた看護婦さんは満足そうだ。わたしはかなりぶすっとした顔をしてたと思うけど。
「行く前にちょっと。高木さんの症状、知ってるみたいだけど……記憶障害があるから、あなたの名前やお友達のこと思い出せないかもしれない。覚えてるかってしつこく聞かないであげて下さいね」
申し訳なさそうに首をすくめている看護婦さんに、真面目に頷いてみせた。実体の理沙さんはわたしのことなんて知らないんだから、むしろ記憶障害がある方が疑われなくて済む。
「あの、男性を怖がる理由を本人は……」
クリーンそのものの廊下にナースサンダルをぱたぱたさせて足早に病室へ向かいながら、看護婦さんは首を横に振った。
「心当たりがないんですって。でもきっと、何か怖い目に遭ったんでしょうね」
想像はついてるんだろう、怒った眼をしていた。
「理沙さんには、記憶障害や相貌失認以外の後遺症もあるんですか?」
「地誌的失見当に、書字や筆算障害もあったと思います」
何のことかさっぱりだってば……。轟だったら分かるんだろうに。でも色々症状が出てたというのは理解した。
「一酸化炭素の濃度や曝露されてた時間にもよるんですけど、七十五パーセントは一年以内に軽快するんです。高木さんも一年でかなり良くなったんですけど、相貌認知と時間認知だけは回復しないんです」
「えっとー、時間認知って」
うっかり相貌失認なんて医学用語を出したせいで、知識があると思われてしまっていたらしい。恐る恐る聞くと、意外そうにされてしまった。
「今日が何月何日かが言えなかったり、時計が読めなかったりする障害です」
事件を忘れているのは単に、記憶障害の一角かもしれない。でもこうして話を聞くと、轟の読みは当たっている気がする。多重人格障害の別人格が出ている間に起きたことは主人格の記憶にないように、生霊の理沙さんが背負っている記憶は実体から抜け落ちているんだろう。
理沙さんは相貌失認につけこんだ犯人による性犯罪の体験に耐えきれずに、生霊としてそのつらい記憶を出してしまったとする。生霊の理沙さんの中では、事件の被害に遭ってここへ入院するまでのどこかで時間が止まってる。沢山あった後遺症の中でも相貌失認と時間失認だけが回復しないのはやっぱり、それらが生霊が出ちゃった経緯とタイミングに深く関わっているからに違いない。
「手助けしてくれる女性がいれば、本当はもう入院しなくても大丈夫だと思うんです。でも、ご家族がいらっしゃらないみたいで。高木さんお一人で社会復帰するのは、まだ難しいですからね」
ひょっとしてリョウがわたしを呼びつけたのは、生霊云々じゃなくて、理沙さんの生活を手助けして欲しいだけなんだったりして。わたしってば、ものすごーく見当違いなことしてたりして。
(リョウってば、早く出てきて説明してよねー……)
「高木さーん、入りますよー」
大きな声で呼びかけてから看護婦さんは、二一五号室の閉じられたスライドドアに手をかけた。
理沙さんの病室は、理沙さんが住んでいたあの古い部屋よりも広く見えた。長方形の部屋は突き当たりの大きな窓からふんだんに入ってくる太陽光で、病院だということを忘れそうに明るい。手前には小さな冷蔵庫と、簡素ながら床のグリーンをもう一段濃くした応接セットがあって、奥にはベッドとチェスト、TV台が整然と配置されていた。一年におよぶ入院生活のためか理沙さんの私物はすっかり部屋になじみ、病室というより学生寮みたいだ。
ベッドの上にぺたんと座って、雑誌を読んでいたらしい。理沙さんはひょいとそこから飛び降りて素足にスニーカーをつっかけ、律儀にわたしたちを出迎えた。着ているのはジャージと言っても、色使いはビビッドでシルエットが可愛い。髪は栗色だけれどやっぱりグラボブ、そして生霊さんで会った通りの愛玩動物系な顔立ちだった。
「その声は滝田さんだ」
ショートカットの看護婦さんが部屋に入った後で、理沙さんはそう言った。やはり顔でなく、声で識別しているらしい。
「当たり。今日はね、高木さんにお見舞いの方がいらしてますよ」
「えっ?」
実体の理沙さんと、初めて向き合った。でもぱっちりと大きな瞳はわたしの顔でなく衣服をチェックしているようで、視線が捕らえられない。
「でも、制服……」
「ジーンズだったから、着替えてもらったの。じゃ、制服はナースステーションに返却してくれればいいので」
滝田さんと呼ばれた看護婦さんは素早く会話を切り上げて、来た時と同じように早足で帰っていってしまった。エセナースと、不安げな上目遣いで見つめてくる理沙さんが取り残される。出来るだけにっこりしてみせた。
「こんにちは。えっと、ひろっていいます。初めましてなんだけど、理沙さんのことはちょっと前から知ってました。リョウが教えてくれたから」
じっと聞いていた理沙さんの瞳が、リョウという名前に揺れた。
「でね、理沙さんのお隣さんの、作務衣着た半ハゲなおじさん覚えてる? 預かってきたものがあって……」
それまでリスみたいに小さく警戒していた理沙さんは、いきなりぶっと吹きだした。
「やだー、半ハゲって! 分かりやすすぎ!」
バーコードおじさんの存在を覚えているらしい。顔以外の顕著な特徴があってくれて、助かった。けらけら笑っている理沙さんは、一気に警戒を解いてくれたらしかった。椅子を勧めて、冷蔵庫からあれこれボトルを引っ張りだして何がいいか聞いてくれた。
改めて挨拶を交わしてから、バーコードおじさんの手彫りの木像を渡す。おじさんの気持ちは篭っているんだろうけど、はっきり言って大した出来ではなさそうだ。それでも理沙さんは、アンティークのテディ・ベアでももらったかみたいに喜んでいる。性格も生霊と同じみたいで、素直で人懐っこそうだ。
「おじさんね、最後に会った時、あたしパニクっちゃったみたいで……悪いことしちゃったのに、いい人だな」
「パニクった?」
木像を握り締めていた理沙さんのひまわりみたいな笑顔は、途端に曇ってしまった。
「うん……声聞いて知ってる人だって分かってても、なんかダメで……出てってー、って叫んじゃったみたいなの」
おじさんは、理沙さんが彼氏であるリョウさえ怖がったと言っていた。バーコードさんが怖がられるのは当然だ。
(ん? 待てよ……)
確か生霊の理沙さんは、バーコードさんだと分かれば安心して話していたはずだ。実体の理沙さんは分かってても、誰彼構わず怖がっている。男性恐怖症と言えばこっちが普通じゃなかろうか。男なんてものはどんなにいい人そうに見えても、結局は性欲のためには何をするか分からない、それしか頭にない宇宙人なのだ……と、男ギライだった中学生の時はそう思ってたっけ。
(生霊の理沙さんは男という性別を持つ者すべてが怖いわけじゃなくて、目の前にいるのが犯人なのか知り合いなのかが分からない状態が怖いんだってことになるよね)
ということは、生霊の理沙さんが怖いのは犯人だけなのだ。相貌失認だから、相手が安心できる知り合いだと分かるまでは、男性全員が犯人の可能性があって怖いだけで。
(そういえば轟に初めて会った時、生霊の理沙さんは轟の情けない声を聞いて警戒解いてたよね)
人畜無害っぷりを理解してくれたのかと思ってたけど、もしかして。
(生霊の理沙さんは、犯人の声を特定できるんじゃ……轟の声が犯人のものじゃないって分かったから、安心したんじゃ。事件当時は顔で判断できなかっただけで、実は犯人は理沙さんの知り合いだって分かってたのかも!)
だから余計に理沙さんはショックを受けて、生霊を出してしまったのかもしれない。
「おじさんに手紙書きたかったんだけど」
新たな可能性に内心興奮してたら、実体の理沙さんがいきなり話し出した。我に返って、そちらに頭を切り替える。
「あたし、書字障害もあったから……あ、字が崩れてうまく書けないことなんだけど」
大したことでもなさそうに笑ったけど、大したことであるに違いない。明るく振舞おうとしている理沙さんの努力に、こちらもさりげなく頷き返すことで報いた。
理沙さんの部屋に入ろうとしてバーコードおじさんにすりこぎを振り回されたこと、理沙さんのことをとても心配していたことを話すと、理沙さんはあっという間に快晴に戻ってくれた。でも、ふとその空に影が差す。
「亮ちゃん、元気でいる……?」
看護婦さんは、わたしが理沙さんの初見舞い客だと言った。だから入院以来、リョウは見舞いに来ていないのだ。理沙さんが怖がるから、来たくても来られないのだろう。
「うん、憎ったらしいほど元気。呪い殺そうとしても、かゆみも感じてないんじゃないの」
途端に爆ぜるように笑い出す、そのくるくる変わるストレートな感情の豊かさが理沙さんの魅力なんだろう。
「ひろちゃんって、面白い人! 亮ちゃんの友達だけあるな」
褒めてるつもりかもしれないけど、変態不良の友達ということを褒められても嬉しくない……とは、その変態の彼女さん相手に口が裂けても言えません。
「リョウと電話とか、しないの?」
あひる口がぎゅっと引き結ばれて、その脇を涙が滑り落ちた。
突然のスコールみたいに落ちてきた涙に慌ててしまった。ばばっと見回すとベッド脇にティッシュ箱があったから、取りに走る。ありがとと言ってティッシュを引き抜き、えへっと笑う理沙さんが痛ましい。
「ごめんなさい。亮ちゃん、たまに電話くれるんだけど……あたし、何か悪くって。だって会っても亮ちゃんだって分かってあげられない。なのにこんないいとこ入れてもらって、絶対危ない仕事してるんだよ。じゃなきゃ払えるわけないもん」
夏の笑顔でぼろぼろ泣かないで欲しい。もらい泣きしそうになるじゃないか。
「どうやってお金作ってるのか、聞いても全然話してくれないし。それでごめんねって言うと亮ちゃん怒って、その繰り返しなの」
リョウが怒るのはきっと、気にするなってことなんだろう。でもあのリョウのことだ、うるせーなとか黙ってろとか、そんなぞんざいな言い方しちゃうに違いない。お互いがお互いのために頑張ってるのに、うまくかみ合ってないみたいだ。
(でも良かった。喧嘩はしても、別れた訳じゃないみたい)
初対面なのにいきなりこれほど心情を吐露してくれるのは、理沙さんがオープンな性格だということ以上に、リョウのことを知っていて、話せる相手がいなかったからかもしれない。寂しいんだろうな。
「あのね、リョウは今、ちゃんと定職に就いてるから。心配しなくて大丈夫」
精一杯励ましモードの声を出すと、ティッシュの隙間から真っ赤な眼が覗いた。
「ほんと?」
「うんうん。わたしとリョウが知り合ったのも、その仕事絡みだもん」
嘘じゃない嘘じゃない。一応、どんなに怪しげであろうと鍵屋が定職であることは事実だ。
「亮ちゃん、何のお仕事してるの?」
泣くのも忘れたようにまじまじと聞かれてしまった。そういえば、まともな仕事に就いてないことでよく喧嘩してたらしいって、隈取り美容師さんが言ってたっけ。よほど信じられないんだろう。
鍵屋、と答えると濡れたまつげが水滴を飛ばしそうに大きくぱちぱちした。
「花火職人……?」
天然ボケだったのか理沙さんは……。
「ううん、ほんとに鍵作ったり開けたりする人。ね、覚えてるかな。理沙さんが中毒で倒れた後、リョウは謝ってくれたんでしょ。あの時自分が鍵を開けることさえできれば、理沙さんの後遺症はなくて済んだかもしれないのにって。だからリョウは鍵屋になったんだと思うんだ」
張り詰めていた理沙さんの糸が緩んでいくのが、唇の開き具合で見て取れた。
「すっごく物知りで優秀で、頼れる鍵屋さん。わたしもお世話になったんだ。あの鍵はリョウじゃなきゃ、絶対に開けられなかったと思う。忙しそうにしてるから、仕事もいっぱいあるみたい。だからお金のことなんて心配しないでね」
リョウ本人には絶対聞かれたくない褒め言葉だ。聞いたらふんぞり返って、当然だろくらいのたまうだろう。それを冗談じゃなくて本気で言いそうだ。
「うん、分かった……もう、それならそうと何で亮ちゃん、言ってくれないんだろ。照れてるんだな、さては」
良かった、笑顔になってくれた。そうとくれば水分補給、なんてぐいぐいお茶を飲んでいる。立ち直りが早いらしい……。
落ち着いたらしいのを見計らってから、本題を切り出した。
「ねえ、理沙さん。後遺症が出てもリョウの顔、分かる時期もあったよね? もしその程度まで回復する可能性があるなら……ものすごく嫌なこと思い出しちゃうとしても、可能性に賭けてみる気はある?」
きょとんとされた後、じーっとナースの制服を見つめられた。
「ひろちゃんって、療法士さんか何か?」
確かに、突然の見舞い客にリハビリの話されたら戸惑うか。
「ただの大学生だけど……理沙さんの相貌失認にはちょっと、心当たりがあるっていうか」
迂闊に生霊がなんて言い出すと、下手したら霊感商法と疑われるかもしれない。曖昧な表現をしたのに、理沙さんは神妙な顔でうつむいていた。
「あたし、男の人が怖くなったきっかけ、覚えてないけど……嫌な経験したんだろうなって思う」
さすがに自分でも察しているらしい。
「でもそれ思い出したら、亮ちゃんに会える? 亮ちゃんのこと、亮ちゃんだって分かってあげられるようになる?」
乗り出して覗き込む、そのまっすぐで真剣な瞳に吸い込まれそうだった。
「推測だから約束はできないし……もし失敗したら、理沙さんはつらいこと思い出すだけになっちゃうかも」
もし生霊を戻しても、後遺症が全く回復しない可能性ももちろんある。むしろその可能性の方が大きいかもしれない。これは賭けだ。下手に希望を持たせるわけにはいかなかった。
ぎゅっとティッシュを握り締めた両手の上に、ぱたぱたと音を立てて理沙さんの涙が落ちる。絞るように細く、震える声。
「亮ちゃんに会えるようになりたい……」
しゃくりあげる理沙さんとわたしのあいだを、半透明な何かが塞いだ。
『理沙さん! どうしてここにいるのっ?』
ぐすぐすとすすりあげる実体の理沙さんを見下ろすように立っていたのは、何と生霊の理沙さんだった。生霊の理沙さんはあの部屋に執着してるんだと思ってた。まさか移動してくるとは。しかも実体を見てしまうとは。
実体の理沙さんは生霊の存在を知らない。わたしがいきなり生霊の理沙さんと口で話し出したら、おかしな人だと思われてしまう。咄嗟のことでも、このへんの切り替えはうまくなってきた。生霊の理沙さんに脳内モードで問いかけたが、見向きもされなかった。
『あたしがいる……』
ぼんやり呟いて、生霊の理沙さんはへなへなと床に座り込んでしまった。生霊が実体を見て腰を抜かすというのもおかしな話だが。
『えっと理沙さん、これには色々と理由が……』
魂の抜けたような顔、というのをその魂である生霊に使うのもどうかと思うが、そんな顔で生霊の理沙さんは見上げてきた。
『その声はひろちゃん? ひろちゃんって看護婦さんだったの?』
あなたの相貌失認対策なんですがと言いかけた時に、実体の理沙さんが話し出す。
「いっぱいリハビリした。頑張ってマッピングとかしてるんだけど、どうしてもどうしてもダメで、あたし亮ちゃんのお荷物になってる……。相貌認知みたいに間違ってることに気がつきにくい障害って、治りにくいんだって。このままずっと亮ちゃんの顔分かんなかったら、そのうち捨てられちゃうかも……」
実体の理沙さんはますます激しく泣きじゃくっている。生霊と実体と、どっちをどうすりゃいいんだ。とにかく泣いてる方を先にしよう。慌てて、実体の理沙さんの震える肩を撫でてあげた。
「お荷物なんかじゃないと思うよ。お荷物だったら、リョウはわざわざわたしに理沙さんの部屋を教えたりしない」
「でも……」
しゅんとうなだれる理沙さんへにじり寄る。元気付ける言葉を引っ張り出そうと、素早くぐるぐる考えた。
「あのね……わたしね、左耳が聞こえないの。二年前に突然、病気で聞こえなくなっちゃった。それからちょっとひねくれちゃって。もし右耳まで聞こえなくなったら、今友達でいてくれる人も、手話を覚えてまで残ってくれないだろうなんて思ってたの」
こんなこと、しらふで人に話すのは初めてだ。理沙さんはびっくりしたようだけど、そこは見えない障害を持つ者同士。現実という波に乗れるか不安にどきどきしながら波待ちをする、初心者サーファー仲間みたいな気持ちで顔を見合わせた。
「でね、春に千歳ってヤツに会ったんだけど、こいつが生意気で根性悪くって、ムカつくことばっかり言うの。ずっと、女だと認識されてないんだと思ってたんだけど……何でだか彼女になって欲しいとか言われて、その時にね」
理沙さんの、それまで元気がなかった瞳がきらんと光った。そういえば生霊の理沙さんも、恋愛話には食いついてきてたっけ。年頃の女の子ってこうあるべきなんだろうか。
うんうん、それでと泣いてたことも忘れた様子でにじり寄り返されてしまう。いつの間にか、生霊の理沙さんまで興味深げに見守ってるんですけど……腰抜かしてたはずなのに……。
「そ、その時にね、聞こえなくてもいいって言ってくれたの。不安な時はその……抱き締めてくれるって。わたしの方が怖がってた。一人で大丈夫、そうじゃなきゃ障害を乗り越えることなんてできないって突っ張ってたの。でも……差し伸べてくれる手を、素直に受け取ってもいいんじゃないかな。乗り越えるんじゃなくて、手を借りて寄り添ってもらってもいいのかも」
わたしが何を言いたいのか、ダブル理沙さんは気づいてくれたらしい。氷が融けてくみたいに肩の力を抜きながら、ゆっくり頷いてくれた。双子がいるみたいだ。
「怪我とか色々あって死んじゃってもいいかなって思った時も、千歳はね……言いたいこと、してあげたいことがまだ沢山あって、楽しませてあげるから……死んだりしたら後悔しますよって」
言いながら、どんどん申し訳なくなってきた。千歳はあんなに真剣に心配したり告白したりしてくれたのに、わたしってば千歳の本心が分からないなんて言って喧嘩しちゃったんだ。
(わたしの目の前にいる千歳を、そのまま受け止めればよかったのかもしれないのに……)
「素敵な人なんだねー、千歳くんって」
他人の恋話を聞いてそんなとろんとした眼をしてる場合か、理沙さん。特に生霊さん、自分が生霊だって分かってるのかな。取り乱すのが普通だと思うんだけど。
「リョウも理沙さんに言いたいこと、してあげたいことがいっぱいあるから、まだあの部屋を借りて入院費も出して……待ってるんだと思う。理沙さんのために始めた鍵屋も、すっごくやり甲斐ありそうにしてる。リョウはしたくって、してるんだと思うよ。だから悪いなんて思わないで、素直に頼ってあげて」
「うん……」
実体の理沙さんは眼を閉じて、わたしの言ったことを考えてるみたいだった。その隙に、生霊の理沙さんへと向き直る。
『理沙さん、黙っててごめんね。あなたは生霊です。たぶん性犯罪の被害に遭った後に、そのつらい体験を切り離した結果だと思うの。だからこの実体の理沙さんには事件の記憶がない。わたしが思うにその副作用みたいな感じで、実体さんに相貌認知と時間認知の障害がずっと残っちゃってるんじゃないかな』
『生霊……』
また改めて腰を抜かしている。気を失いそうだ……しかし生霊に失神されても、どうやって介抱すればいいんだー。
『理沙さん、しっかり……あのね、だから実体の理沙さんが事件の記憶と向き合う勇気を持ってくれたら……生霊の理沙さんは実体に戻って、事件が起きる前程度には後遺症が回復するんじゃないかって推測してるの。もし無理だって思うなら、戻れとは言わないけど……』
話を進めるほどに、生霊の理沙さんの瞳は怯えたように揺れだした。回復の可能性を聞かされても、実体に戻るのをためらっているようだ。やっぱり事件の記憶は、理沙さんをあまりに深く傷つけたのだ。
(そういえば……犯人は、理沙さんの知り合いかもしれなくて、だから余計に理沙さんはショックだったのかもって考えてたんだっけ)
『ねえ、理沙さん……ひょっとして、犯人の目星がついてたりするんじゃない? 実はそれが知ってる人だけど言えなくて……それで苦しんでるんじゃないの?』
眼と口をぱっかり開いて見上げる生霊の理沙さんの顎が、わなわな震えていた。生霊に顔色もへったくれもあるかと思ってたけど、半透明ながら明らかに真っ青なのが分かった。
生霊の理沙さんは、犯人を知っている。
実体の理沙さんには、とにかく落ち着いてよく考えてみてね、と言い含めてから病室を辞した。生霊の理沙さんはとぼとぼとわたしの後ろをついてくる。
「制服を着替えて返してくるから、轟、理沙さんと一緒にいてあげてね。あ、生霊の方ね」
休憩スペースで待っていた轟に事情を説明してそう頼むと、緊張気味ではあるが、はいとしっかり引き受けてくれた。死霊じゃないし、理沙さんの生霊のいる部屋で寝たし、慣れてきてくれたんだろうか。轟なしじゃ、見習いが進まないような気がしてきた。
「お茶いりますか……?」
轟ってば生霊にお茶を勧めてるよ……でも理沙さん、反対側に座ってるんだけど……まあいいか、気持ちは伝わるだろう。
ショートカットの体育会系看護婦さんにお礼と共にナースの制服を返し、病院を後にした。
生霊の理沙さんは部屋に帰る方法が分からないようなので、車で送っていくことになる。生霊を送ってくとは貴重な経験だねと笑ったら、轟は固い表情をしていた。生霊の理沙さんが座っている後部座席をバックミラーで見る勇気まではないようで、茶色の瞳は一心に前方を注視している。
「理沙さん、どうしていきなりリハビリセンターに飛んできたの?」
『分かんない。気がついたらあそこにいたの』
生霊の理沙さんが現れたのは確か、実体の理沙さんがリョウに会いたいと泣いていた時だった。あの言葉が生霊を引き寄せたんだとしたら、鍵になるのは実体の理沙さんの気持ちだ。今の理沙さんは、自分がお荷物なんじゃないかと怯えてる。でもリョウに会いたいと強く願えば、生霊を取り込んでくれるんじゃないだろうか。
(そういえば、今の理沙さんってちょっと透明度高くなってないか? 少しずつ実体に戻ってるのかもしれない)
でもそれはまだ早いような気がする。せめて事件の方を、少しでも解決に近づけておかないと。生霊が戻った時の理沙さんのショックは小さい方がいいに決まってる。
『あのね、犯人のことなんだけど……』
理沙さんから切り出してくれた。ショートパンツの膝の上でぎゅっと手を握り締め、そこから勇気を絞っているようだった。
『そうじゃないかなって思ってる人はいるの。でもそれを亮ちゃんに話したら、絶対殴り込みに行くと思わない?』
「んー、でもリョウって暴力沙汰は好かないって言ってたよ」
おじいちゃんの事件の時に、そんなことを言ってた記憶がある。途端に理沙さんはぷっと頬を膨らませた。食事中のハムスターみたいで可愛いぞ。
『そうやって一応歯止めかけてるだけ! ほんとはすごく喧嘩っ早いの。傷害事件起こして執行猶予中なんだから!』
そ、そうだったのか……じゃあ理沙さんを襲った犯人を知ったら喧嘩どころか、病院送りにすることは間違いない。
『保護観察司が隣のおじさんだからいいけど、他の人だったら絶対とっくに刑務所行きだもん』
あのバーコードおじさんが保護司だったのか。きっとリョウのためというよりその彼女である理沙さんのために、リョウの素行が悪くても見逃してくれてたんだろうな。
『だから亮ちゃんには言えなかったし……それに顔が分かったわけじゃないから、犯人じゃないかって疑うのも悪いし、信じてもらえないと思って……だから犯人については、全然分からないで通してたの』
理沙さんはたった一人で犯罪の真相を抱えなければならなかった。その重荷も、生霊が出てしまった原因に加わっていたんだろう。
理沙さんの部屋に帰りつく頃には、日が暮れていた。隣のおじさんに、木像を手渡した旨を報告する。理沙さんの後遺症は一部を除いて大分回復していると伝えておいた。
デリケートな話の場に男がいると話しづらいだろうから、と轟は出かけてくれた。明日は講義があるから帰っていいよと言ったのだが、真っ向から心配されてあえなく撃沈する。轟の心配顔は恐らく、拒絶する意思を挫けさせる成分でできているに違いない。
『ひろちゃん。台所の下の扉開けて、殺虫剤の下を見てみてくれる?』
何故か台所から遠い部屋の隅に距離を取ってから、理沙さんは流し台の下を指差した。言われた通りに古い木目の扉をバコンと開けてみると、バケツや雑巾、スーパーのビニール袋なんかがぎゅぎゅっと詰め込まれていた。
手前の隅に置いてあった殺虫剤のスプレー缶を傾けると、その下から小さなビニール袋に入った指輪が出てきた。何でこんなところに。
長いあいだ放置されていたシルバーらしく、表面がすっかり黒くくすんでしまっている。大きさからしてメンズだ。黒ずみの下にシンプルで細めのデザインが見える。あまりリョウらしくない趣味だけど。
「リョウの?」
掲げて聞いてみる。理沙さんは唇を噛み、強ばった表情で首を横に振った。
『犯人の』
思わず放り出しそうになった。忌まわしき証拠品だから、殺虫剤の下なんて変なとこに置いてあったのか。
「犯人が落としていったの?」
弱々しい微笑が返ってくる。
『うん、落としていった……あたしの中にね』
それがどういう状況だったのか、分かってしまった。胸は剣山が落ちてきたみたいに、重く痛くなる。
理沙さんの中におぞましい感触が蘇ったんだろう、膝を揃え両肘を抱いて、その記憶に耐えようとしているみたいだ。ダークチェリーの毛先が流れ落ちる瞼は、ぎゅっと閉じられていた。
『亮ちゃんはそのサイズからして、かなり背が大きいか、骨太でガタイのいい人だろうって、そんな人ばかり疑ってたみたいだけど……』
言われてみると、メンズにしてもかなり号数が大きそうな気がする。
『でもそんなに体格のいい人ってわけでもなかったと思う。普通。それと手が荒れてた……』
意識が飛ぶかと思った。
この感覚。バラバラだった巨大な歯車がドカンと金属的な音を立ててはまり合い、軋みながら動き出すこの感覚。その重さにめまいがしそうだった。理沙さんも事件当時、これを味わったに違いない。
「理沙さん、わたしもその犯人、分かった気がする……」
体格に合わないけど、大きな指輪をする必要があった人。その人は普段的に洗剤を扱って、手荒れが職業病になっている。だから指輪と肌の間に洗剤が残らないように、ゆるい指輪をしていた。そのせいで指輪をよく流してしまっていた。犯人は大きな指輪をした指を理沙さんの中に入れて、そこに指輪を落としてしまったんだ。
「理沙さんのすごく近くにいた人だ……」
歯車に押し出されて、次々に記憶が蘇る。そうだ、その人は理沙さんの名前を聞いて真っ青になっていた。カウンターの上に置かれた手には、シルバーの指輪をしていた。
雇い主ならば、社員の入院の理由や後遺症の内容を……すなわち理沙さんが相貌失認であることを知っていて、利用することを思いつく立場にいて当然だ。
――辞めちゃう前日だったと思うけど。染めてあげてる時にね、彼氏がちゃんと一緒に住もうって言ってくれたんだ、って教えてくれて。高木ちゃん嬉しそうにしてた。はしゃいじゃって、大きな声出すなって店長に叱られたほどだったっけ――
隈取り美容師さんが言っていた。叱ったのは大きな声を出したからだろうか。理沙さんとリョウがうまくいってることを聞いてしまって、嫉妬したんじゃないだろうか。そしてその日に犯行に及んだ。翌日、理沙さんは美容院を退職した……するしかなかったんだ。犯人がいる店だから。
『あたし、すごくお世話になったのに。でも事件の時は声を聞いてないし、顔を覚えてないのに犯人じゃないですかなんて、聞ける訳ない……』
消え入りそうな声だ。理沙さんは身も心も萎縮してしまっている。急いで証拠品である指輪をジーンズのポケットに突っ込み、理沙さんの隣に戻った。
「わたしが聞いてあげる。締めあげてやるから。ちゃんと解決させようね。ここから引っ越して、リョウと新しい生活を始めるの。わたしも手伝ってあげるから」
懸命になだめると、頭を垂れていた理沙さんの前髪の間から、黒く濡れた優しい瞳が覗いた。
『ひろちゃんって、いい人ね』
アパートの鍵が欲しかったからだということは、黙っておいた方がよさそうだ。